ひとり井戸端会議

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護憲派の通らない論理

2009年05月05日 | 憲法関係
自民、憲法審査会の早期始動を=共産、社民は改憲阻止に全力(時事通信) - goo ニュース

 憲法記念日の3日、与野党幹部が各地で開催された集会に出席し、改憲、護憲の立場からそれぞれの見解を表明した。自民党は、2007年5月の国民投票法成立に伴い衆参両院に設置された憲法審査会を早期に始動すべきだと主張。共産、社民両党は改憲を阻止する考えを強調した。
 自民党の小池百合子元防衛相は都内で開かれた改憲派の集会で、野党各党の反対で憲法審査会での論議が始まらないことに不満を示し、「審査会の空転は国会議員、政党の不作為だ」と民主党を批判。自民党の伊吹文明元幹事長も京都市内の討論会で「(憲法改正に)賛成と反対の意見を持ち寄らないと議論が始まらない」と審査会の早期始動を求めた。
 これに対し、共産党の志位和夫委員長は都内で開かれた護憲派集会で「審査会を始動させて、憲法改正原案を作ろうという動きが起こっている。こうした逆流を許さず、憲法9条を守る揺るぎない国民的多数派を作ろう」と呼び掛けた。
 社民党の福島瑞穂党首も同じ集会で「憲法を変えようという野望を捨てない自公政権を許すわけにはいかない。審査会を動かさないために全力を挙げる」と強調した。



 予てから批判しているが、護憲派は正々堂々と同じ土俵に上がって勝負をするという気がないらしい。護憲派の取っている「戦法」は卑怯である。志位は審査会すら始動させないと言う。福島も審査会を動かさないために全力を挙げると言う。しかしそれは通らない論理というものだ。なお憲法審査会とは、「日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査するため、各議院」に設置されるものである(国会法102条の6)。

 憲法審査会は、平成19年8月7日同条の規定により衆議院に設置されることになっている。しかしながら野党の不毛な反対によって、「現時点では本審査会の員数、議事手続等の詳細を定める「衆議院憲法審査会規程(仮称)」は制定されておらず、委員の選任もなされていません。」(衆議院HP)という惨憺たる状態だ。

 そもそも、審査会が始動したことによって、憲法改正に直結するわけではない。憲法改正に至るまでには多くのステップを踏まなければならない。その詳細については内閣府の「国民投票法」って何だろう?を参照して欲しい。

 にもかかわらず、審査会の始動すら、なかば力ずくで阻止しようとするこれら護憲政党は、護憲の名の下に国民の最大の権利である国民投票権の行使すらさせないというのが、果たして彼らが守ろうとしている憲法の理念に照らして適っていることなのか、考えてもらいたい。憲法制定権力は国民に帰属する(通説)という考えに従えば、憲法審査会の早期始動(始動可能年から既に2年も経過している。)は国民と憲法との関係からして、当然のことである。



 憲法改正に反対ならそれで結構。だが、改正するかしないかを最終的に決定するのは国民である。そうであるならば、国民の代表者で組織される国会に所属する議員らは、自分たちの中で改正賛成・反対だのと言い争うのではなく、定められたルールに則って、憲法改正の発議を行い、憲法の運命は国民に委ねなければならない。

 その結果、たとえ護憲派が守ろうとしている憲法9条が改正されたとしても、それが国民の意思であるし、改正されなかったら、それが国民の意思である。しかし、今護憲政党のしていることは、相手の手足を縛り、口を塞いでいるようなものだ。そしてそれを平和や人権の名の下に正当化しようとしている。民主主義とは相いれない、極めて野蛮な行為だ。これら護憲政党の卑怯なやり方こそ糾弾されなければならない。



 ところで福島は、「憲法を変えようという野望を捨てない自公政権」と言うが、たとえ自公政権がそのような「野望」とやらを持っていても、憲法を変えるか変えないかを最終的に判断するのは国民である。つまり、国民が自公の「野望」に対し、ノーを突きつければ、その「野望」が実現することはない。こんなことは一度でも憲法に目を通したことがある人だったら誰でも分かりそうなものだが、彼女のオツムでは理解できないらしい。

 思うに、護憲政党の腹の内は、国民を見下し、下に観る考え方、つまり、自分たちこそが本当に憲法の意味を理解しているインテリであり、憲法について理解のない国民の投票によって憲法が変えられるのは危険である、と。だから国民の最大の権利行使である国民投票すらさせない。

 もし国民の憲法観を信頼しているならば、正々堂々と憲法改正案を与党や民主に提出させ、その上で現憲法の正当性ならびに正統性を説き、国民のマジョリティーを形成するのが、健全な護憲政党の姿というものだ。だが、今彼らがやっていることは全くもって理解し難い暴挙である。だから最初に「卑怯」と言ったのだ。



 今年の憲法記念日に産経新聞の「昭和正論座」に掲載された香山健一氏の以下の言葉は、まさに正論である。


 「いかなる憲法にせよ、その条文を絶対神聖にして批判すべからざるものとし、その改正について論ずることをタブーとするとき、その精神態度は一瞬にして反動的、独裁的なものに転化してしまうことになる。」

 「憲法改正をタブー視し、それに関する言論・思想の自由を蹂躙しながら、護憲について論ずることは、思考力の極端な衰弱か、しからずんば途方もない偽善としか言いようがない」


 この論考が掲載されたのは今から34年も前である。しかし、今こうして見てみると、現在の護憲政党にまるっきり当てはまる。彼らがその「進歩的」な思想とは裏腹に、香山氏の指摘は、彼らの態度がいかに進歩していないか、如実に現わしている。

 護憲を訴えたいなら、対立する主張にも耳を傾けなければならない。現憲法を絶対視し、これを変えることをタブー視することは、彼らが嫌悪してやまない戦前の軍国主義と同じ発想であることを指摘しておく。

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