随所随縁

所に随(したが)い、縁に随い、時に随い、想いに随い、書き留めていきたい。

ダヴィンチ・コードについて

2006-05-28 22:39:44 | 映画・ドラマ

流行には鈍感な方ですが、世間であれだけ騒がれたこともあり、つい「ダヴィンチ・コード」を見てしまいました。どうやらそのように思った人が多かったらしく、映画館は開始40分も前から行列が出来るほどの混雑でした。

見終わった後の感想としては、やはり、「よくわからない」です。他の観客のざわつき具合や漏れ聞こえてくる会話でも同じような雰囲気でした。やはり、短い上映時間で(それでも、よくわからないため、長く感じましたが)謎を詰め込みすぎたからではないかと思います。キリスト教のバックボーンのある人なら、解説不要で分かることも、われわれにはじっくり説明してもらわないと分からないことが多いのですが、それらが謎解きの段階で次々に出てくるので、すぐに混乱してしまいます。

この映画は、基本的にはレオナルド・ダヴィンチの絵をはじめ、さまざまな記号や文書・建物に込められた暗号(コード)を解いて、殺人事件とキリスト教の「謎」に迫っていくものですが、謎解きのテンポが早すぎて、自分でもその「謎解きの論理」についていけませんでした。たぶん、原作の小説を繰り返し読めば理解できると思いますが・・・・。ただ、警官や殺人者に追われながら、ルーブル美術館を起点に暗号の指し示す場所へ移動し徐々に謎に迫っていくストーリーは、引き込まれるものがあります(ただ、どこへどういう順序で回ったかは混乱してしまって覚えていませんが・・)。そして、最後の最後まで、どんでん返しがあり(またはどんでん返しがありそうで)どきどきさせられます。

また、この映画では、キリスト教に関し、さまざまな「解釈」が行われていますが、キリスト教のバックボーンがないため、その「解釈」が「いかにもありそう」なのか「全くの荒唐無稽」なのか見当がつかないのが残念なところです。もちろん、フィクションであり、エンターテイメントですので、そんなにこだわらなくてもよいのですが、ある程度の「リアリティ」がないと、上質の作品とは言えないと思っています。

この映画を見て考えさせられたことといえば、やはり、この「謎」について、イエスの時代の人は「事実として」知っていたはずです。ところが、やがて「伝説」となり、その伝説が失われてしまうと、(わずかにダヴィンチの暗号や秘密結社の伝承などで残されることがあったとしても)その事実が消滅してしまう、ということです。私たちが学ぶ「歴史」は、現在まで保存されたわずかな文書や資料から再構成されたものですが、忘れ去られて、消滅してしまった「事実」がたくさんあるのではないかと思われます。この映画が採り上げた「謎」も、やや荒唐無稽な感じもしますが、もしかしたら事実も含まれているかもしれないと思っています。