愛犬くんとのゆったりライフ

温厚な愛犬くんとの日常を気ままに綴ります。
郷土の武将・武石胤盛さんに関するレポートもございます。

仕事で館山に行きました(&富浦出身の曾祖母のこと)

2011年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム

本日は、お仕事で館山に行きました。

計画停電の影響で特急がすべて運休していたので、各駅停車の旅でした。

↓行きは海側ではなく、陸側に座りました。

菜の花が綺麗でした。

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内房線の『安房鴨川』行きに乗り、ひたすら南下します。

残念だったのは、デジカメを持って行かなかったことです。

職場のデスクの上に、置き忘れてしまいました。

買ったばかりの携帯電話で不慣れなのですが、少し撮影してきました。

 

↓館山市役所を経由して、千葉地方法務局館山支局に到着!

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法務局を出て、駅まで約500メートルの間に、歩きながらカロリーメイトを食べました。

残念ながら、次の電車まで時間がなく、海産物料理はオアズケとなりました。

電車は、昼間(加えて計画停電)ということで、1時間に一本ほどでした。

 

館山に電車で来るのは、五回目くらいでしょうか…

高校生の頃、親友と来たのが、電車で来た最初だったと思います。

総武線の快速電車と同じような造りなのに、トイレがあったのが印象的でした。

社会人になってから、館山の城山公園(桜の名所)に車で行きました。

桜には少し早かったのですが、とても良い所でした。

 

さてさて…

お仕事も無事に終わり、帰りは海が見えるようにと、ボックス席の窓側の席に。

もちろん、進行方向側(海側)です!

携帯電話をカメラモードにして、懸命にシャッターを押しました。

 

海を見たら、気持ちが沈むかと思ったのですが、慰められた感じがしました。

往路も『上総湊駅』の辺りから海が見え始めて和みました。

父方の祖母の実家が富浦なので、ご先祖様の血が騒いだのかも知れません。

 

↓本日、波はとても穏やかでした。

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↓春休み中ですが、震災の影響で人出が少ないようでした。

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↓『春の海 ひねもす のたりのたりかな』

学校時代に習った俳句が浮かんできました。

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↓内陸側に入り、海が見えなくなると、菜の花が咲き誇っていました。

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↓こういった農村の風景も、心が和みます。

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電車に揺られている時間は、とても長かったです。

でも、のんびりした雰囲気を味わって、地震以来のストレスが和らぎました。

本日はお仕事でしたが、来月あたり、もう一度プライベートで出掛けてみようと思います。

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今度は、愛犬くんと一緒に行こうと思います。

 

<富浦出身の曾祖母のこと>

父方の祖母の母(飼い主の曾祖母)の実家は、富浦で薪炭商を営んでいました。

江戸時代から、船で江戸に商品を運んでいたそうです。

 

曾祖母は、東京の商家(豆腐屋)に嫁ぎました。

薪の取引をしていたのが縁だったそうです。

豆腐屋さんは、なかなか繁盛していたようで、従業員の方(当時でいう使用人さん)も多かったそうです。

≪追記≫平成28年5月5日

豆腐屋さんについて父に聞いてみたところ、江戸時代には現在の本郷五丁目(昭和初期の戸籍では本郷三丁目)に店舗を構えていたそうです。

東京大学の赤門の近くだそうです。

加賀藩の出入り商人(格好良く言うと『御用達』)として、毎日商品を納めていたとのことです。

(追記は以上です)

 

嫁ぎ先の豆腐屋のお姑さん(祖母の父の母)は、厳しい人だったようです。

幼い祖母は、他の家族と一緒に「板の間」で食事をすることを許されていました。

しかし、曾祖母は『嫁』ということで、「土間」で正座をして、全員の食事が終わるのを待ってからでないと食べてはいけなかったそうです。

お姑さんも、自身がお嫁に来て苦労をしたのでしょうが、曾祖母の気持ちを思うと何だか切なくなります。

そのお姑さんも、飼い主のご先祖なんですよね…

(「父方の祖母の父の母(曽祖父の母)」にあたります)

 

…さて、

曾祖母は24歳の若さで、夫(祖母の父・飼い主の曽祖父)を亡くしました。

祖母が6歳の時のことです。

祖母は「父のことはあまり覚えていない」と言っていました。

豆腐作りは、朝が早くて冷水と触れる時間が長い職業です。

心臓発作・脳卒中などが死因だったと思われます。

 

曾祖母の夫(飼い主の曽祖父)は次男でした。

長男さんは…と言うと、

『豆腐作りの腕は良いけれど、仕事熱心ではなく、博打で借金を作ってくる』という人だったそうです。

曾祖母の義母(お姑さん)が借金の肩代わりを続け、豆腐屋さんの財産を減らしていきました。

 

更なる試練が曾祖母を襲います。

『家』の体面を守るため、お姑さんの指示により、家を出ていた長男さんが呼び戻されます。

そして、長男さんと再婚することになったのです。

当時、長男さんには、既に妻子がいました。

長男さんと奥さんは離婚させられ、曾祖母は長男さんの子どもたちの継母となります。

(子どもたち二人と、幼かった祖母と祖母の姉との関係は『いとこ』です)

…なかなかハードです。

曾祖母の気持ちを想像すると、何とも言えない気持ちになります。

 

余談ですが…

祖母の戸籍を見ると、祖母と祖母の姉は、長男さん(祖母の伯父)の養子にはなっていませんでした。

これは、祖母の祖母(お姑さん)が、将来的に祖母の姉を「戸主」として独立させ、姉妹に財産を分けようと考えたからだそうです。

お嫁さん(曾祖母)には厳しい人でしたが、孫の将来のことを考えてくれていたようです。

 

さて、曾祖母は、苦労が重なっていたためか、体力が落ちていたようです。

祖母が8歳の時に、27歳の若さで世を去りました。

風邪をこじらせて、突然亡くなってしまったそうです。

大正9年(1920年)4月のことです。

「その頃は悪性の風邪が流行って、かなりの人が亡くなったのよ」と、祖母は話しておりました。

時期的に、世界的に大流行した『スペインかぜ』ではないか?と想像します。

※日本での最大の流行期は1918年~1919年のようです。

 

曾祖母の富浦の実家に話を戻します。

曾祖母が嫁いだ5年後に、曾祖母の実の父が、海難事故で亡くなっていました。

そのため、実家の家業は傾いていたようです。

戸籍を見ると、曾祖母は三姉妹の次女でした。

長女(曾祖母の姉)は独身、三女(曾祖母の妹)が親戚からお婿さんをもらっていました。

三女とお婿さんが、薪炭商の家業を継いだようです。

祖母は、曾祖母の葬儀の後、自身の祖母(曾祖母の母)から、

「大黒柱のおじいちゃん(祖母の祖父)が亡くなっていて、家の経済状況が良くないから、東京の商家と対等なお付き合いは出来ないんだよ。だから、今後は今までと同じようには遊びに来られなくなってしまうんだよ」

…というようなことを言われたそうです。

曾祖母の母も、複雑な立場だったのだと思います。

祖母と、曾祖母の実家とは縁遠くなり、富浦にいると思われる親戚との交流は途絶えてしまいました。

祖母は早くに両親を亡くしましたが、祖父と結婚するまでの間、東京の祖母の祖母(お姑さん)や伯父(後見人)の庇護の下で「お金に苦労することなく、割と自由に生活させてもらった(祖母談)」とのことです。

 

漁村から東京の商家に嫁ぎ、若くして未亡人となり、亡夫の兄と再婚し、早世してしまった曾祖母。

「この海岸を見て、のびのびとした子ども時代を過ごしたのかな」と思うと、切なくなります。

「おばあちゃんは、ひいおばあちゃんの分まで長生きしたんだなぁ」と、考えるようにしています。

(祖母は明治45年1月生まれ。90歳で亡くなりました)

 

↓曾祖母の実家から、歩いてすぐ(10秒ほど)の海岸です。

海水浴で有名な岩井海岸の近くなので、ここから見える波は穏やかでした。

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↓この日は曇り空でした。

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↓海水浴向きの海岸なのですが、船も置いてありました。

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曾祖母の生まれ育った富浦。愛着があります。

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