goo blog サービス終了のお知らせ 

アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

関係を繋げる言葉

2006年01月05日 | my favorite・・・
別れの挨拶は再会の緩やかな約束だと言っている人がいます。「そうなのかもしれない」と思いました。「夢の途中」という曲をご存知でしょうか?来生たかおという人の曲です。この曲の‘さよならは別れの言葉じゃなくて、再び会うための遠い約束’という歌詞が大好きです。英語ではさようならのことを「See You Again!」といい、中国語では「再見(サイチェン)」といいます。再び会うための(取り敢えずの)別れの言葉ということなんですネ!次の逢瀬をイメージ出来る言葉、繋がっていく関係をイメージ出来る言葉を贈れるようになりたいものです…。

悪夢

2006年01月03日 | my favorite・・・
いっとき、夢分析というものを受けていたほどに、私は、夢には一方ならぬ興味を抱いています。その当時、私の夢を分析してくれていた人は、‘気づき’のセンスが抜群で、ばらばらな夢のカケラを繋げることに巧みな技術(感性)を持っている人でした。では、そんな体験が、私の人生に何らかの現実的で有益な‘良き事’を運んできてくれたかというと、夢を解釈してもらうことには、(面白がってやっているという)趣味以上のほとんど何のメリットももたらしてはくれなかったと思っています。その時は必死でしたが、今になって振り返ってみると、それはとてつもなく非生産的であるからこそ、とてつもなく(苦しくても…)豊かな作業でもあったという、それだけの意味合いのものでした。けれど、無意味で高度な未知の遊びに夢中で取り組むという稀有な体験は純粋な楽しみと今までにはなかった独特の感覚を運んでくれ、その後の私の、人生に対する捉え方を少しずつ変えていくものでもあったように思えます。私は、自分にとっては深い意味を持つけれど、一般的、世間的には、使い物にならないような、道楽と言われても仕方のない、お金のかかる体験を自ら買って、山ほどしてきました。やむにやまれぬ内的な促しのままに心の旅を続けてきたわけですが、もう二度と、同じような体験を繰り返すことは出来ないでしょうから、今では、私にとっては、それらの数々のガラクタの山とも言うべき体験は、私独自のかけがえのない貴重な財産にもなっているのです。精神的な病において、悪夢を見続けることは自律神経の揺れを示すもので、症状が好転していく徴候だと言われる先生もおられますが、私には、この辺の事情はまったく分かりません。いい夢も悪い夢も、夢自体の内容云々ではなく、その夢を見た人がその夢を見たことで、どういう感情に捉えられているのか、どういう情動を体験しているのかということの方にポイントが置かれるはずだと思っています。ところで、ひどい悪夢を見ました。天まで届くかと思われるほどの(幅が狭くて)高く聳え立っているコンクリートの上にへばり付いている自分がいました。怖くて怖くて立てないのです。立てば眩暈を覚えて、たちどころに地面に落下してしまうでしょう。しばらくは這いつくばって前に進んでいましたが、幾らそんなことをやっていても埒が明かないことにすぐに気づき、何を思ったか!果敢にも、私は、立ち上がった途端に、地上めがけてジャンプしたのです。普通なら助かりっこないのですが、舞うように、無理なく、何度かの緩やかでゆったりとしたフライングの後に、大地の上に、難なく着地していたではありませんか!怖い怖いという恐怖心を抱いていた人間の仕業とはとても思えない大胆な行動でした。悪夢ではありましたが、目覚めた時には、‘九死に一生を得る体験をした’いい夢だったという感想を抱いていたのです。幸運な夢だったとすら感じていました。

心の空間を移動中

2006年01月01日 | my favorite・・・
アロマの神々に誘われて迷い込んだ、今までには体験したこともないような、甘美だけれどナチュラルで大自然に抱かれているような壮大な世界。ここで、私は、これまでの殻から抜け出して、アロマな自分に生まれ変わることができるでしょうか?気功の実践を通して、自分がどう変わっていくのかを感じるために始めたブログでしたが、この半年の間に、私の心の現実は、今までとはまるで景色の違う世界に移動しつつあるようです。何がどう変わったのかは自分でも、今はまだ判然とはしませんが、現在は、架空の動物の背中に乗って、空を飛びながら、未知の世界に移動中のようです。本当に何処かに飛んでいけるのか?あるいは、思いがけずも羽をもがれて、敢え無く荒涼とした荒野に振り落とされるのか?先はまったく見えません。ところで、気功教室に通うことをやめたのには、幾つかの理由がありましたが、一つとても怖かったのは、気功に馴染むようになってから、今までは閉じられていた扉が開いてしまって(それは勘違いかもしれませんが)、その扉が、邪気をも引き寄せてしまうような怖さを感じたことが大きかったと思います。また、今までは、鈍感ゆえに、何気なく受け流していた日常のあれこれにも、例えば、自分にとっては全く意味がないから、もうこんなことに気を病んだり気疲れしたりする必要はないというふうに、自分の感覚が、一般的にはどうかという判断とは別に、すぐに確認出来てしまうことにもある種の戸惑いを覚えるようになりました。今までは、そんなふうな判断の仕方をしたことはありませんでしたし、その辺は曖昧なままでやり過ごしてきましたので…。そうした感覚を持つことは、楽といえば楽ですが、心の羅針盤が示す方向のままに歩いていったら、生き方は目に見えたカタチで、これまでとはまったく様子の違うものになっていってしまうでしょう。まぁ、そうは言っても、これまで通り、気功の世界観も大事にしていきたいし、今までのウエットな自分もまだまだ健在なので、しばらくは(もしかしたらずっと?)行きつ戻りつの文面が続くとは思います。けれど、年も改まったことですし、私のブログのタイトルを「私の気功日記」から「アロマな日々」に変えてみることにしました。
タイトルを変更したのに、それがブログの画面にうまく反映されません。調子が戻るまでは、以前のタイトルのままになっていると思います。仕方がありませんネ!

Give And Given

2005年12月31日 | my favorite・・・
私はずっと、人間関係の基本はギブ&テイクにあると思ってきました。自分が出来ることぐらいのことは相手からも返してもらうのでなければ、そもそも対等な人間関係など築きようもないと考えていたからです。ところが、最近、ある方がギブ&ギブンということを言っておられることを知りました。ギブ&ギブそしてギブンこそが与え、与えられる関係の基本なのだとその方は説明されています。テイクのことはひとまず棚上げして、ギブ&ギブの心根で接してこそ、もしかしたらギブン(与えられること)が余禄として付いてくるのかもしいてれません。ちょっと視点を変えてみれば気持ちの構えも変換できそうです。

自己開示…その2

2005年12月29日 | my favorite・・・
嫌悪感を味わうことのないグループ体験をしました。グループを行う際には幾つかの約束事を守る必要性があります。それは、①秘密厳守…グループで話されたことはグループ外には持ち出さない。②活発な意見交換はいいけれど人の発言を非難したり誹謗中傷するようなことはしない。③発言したくなければパスもOK。その他にも細かい約束事はありますが基本的にはこの3つくらいだと思います。私は、その日は司会を仰せつかっていました。始めは参加者全員に自己紹介を兼ねて近況報告をしてもらいます。それが一巡する頃には、グループの凝集性はすっかり高まり、雰囲気も盛り上がっていますので、司会者はことさら口を挟む必要もなく、目の動きや一言二言の促しだけで、参加者全員が均等に隠し立てのない思いを率直に語り始めます。意見はまとまる必要はありませんしまとめる必要もありません。言いっぱなし聴きっぱなしでも、一応、この道の専門家と言われる人が一人二位いれば、大きく方向性がずれていく心配もまずないと思います。何故、今回のグループには今までのような違和感を覚えなかったのか?皆が思いのたけを洗いざらい語っていながらも、節度が保たれていたからだと思います。やりきれない情緒を垂れ流しにしている人が一人もいなかったからでしょう。そして、自分の思いを語るだけでなく、グループメンバーを支えあう姿勢が貫かれていたことも大きな要因です。自分の苦しみを語りながらも人の苦境をも思いやる、一呼吸の余裕を持てている人が多かったからです。長年、好き好んでやってきたわけではなかったけれど、(仕事上の必要に迫られた部分がほとんどでしたが)たった一度でも気持ちのいいグループ体験が出来たからには、私のグループに対する捉え方も変わって行くことになるのかもしれません。実はここにトリックスターとも言うべき、新参者が加わってくれていたことの影響が大きかったのです。やはり、人生のどんな場面に置いても、人の存在が場に与える影響力の大きさというものは侮れません。最後は人ですネ。つくづくそう思います。

12月のお花

2005年12月26日 | my favorite・・・
友人から、「12月のお花」が届きました。今回のお花は、生け花にヒントを得た技法を使ったものだそうです。今回は、今までのアレンジメントとは随分趣が異なっているので、久し振りに、却って新鮮な感覚を呼び覚まされましたし、発想一つでどんな風にでも(素材を)アレンジできるのだなぁと感心しました。素材の選び方からアレンジの仕方まで、センスとイメージは縦横無尽に活躍しているようです。

9月のお花】:2005年10月15日

6月のお花】:2005年06月20日

思いがけずも届いた2通のメール

2005年12月24日 | my favorite・・・
いつだったか、Blissさんに、私は‘思いが強すぎる’と指摘されたことがあります。今まで、私は思いの強いことを悪いことだと思ったことは一度もありませんでしたので、そのような指摘を受けたことにとても強い衝撃と驚きを覚えました。が、ほどなく、強すぎる思いは、相手に圧迫感を与え、気を重くさせるものであることを知りましたので、それ以来、人に対する思いは強くさせすぎないように気をつけるようになりました。気功を習うようになってからは、何事も中庸が大切であることを教えられ、ますます、偏りすぎない気持ちの持ち方の大切さに注意を向けるようになっています。今までは、何につけ、マイナスよりはプラスのほうが価値があると考える人間でした。けれど、気功の世界観はそうではありません。陰と陽はどちらかがいいとか、どちらかにより大きな価値があるとかということではなく、両者に同等の価値があり、すべてはバランスで成り立っていると考えるような類のものです。すべてのことは程々が良いのです。最初は、それではフラットであることがいいのかと考えてしまい、事なかれ主義的で面白味のない人間像や宇宙観を思い描いてしまったものですが、気功の先生の「嬉しいからといって喜びすぎない。悲しいからといって落ち込みすぎないことが大事です。平常心が一番です。」という言葉に、徐々に共感できるようになっていったのです。糠喜びは禁物。一喜一憂も宜しくない。と思えるようになってきました。Blissさんに対してだけでなく、いろいろな人に、この感覚を適応するようになりました。濃い関係を築きすぎた!あるいは近づきすぎた!と感じたら、意識的に距離を取ってみるようにもなりました。実際、自分もそういう時は苦しく感じるようになって、自然に距離を取れるようになってきたのです。それで、ダメになる関係ならばそれでもいいという覚悟も持てるようになりました。そうしたら、本当に人生は皮相的で皮肉に満ちているものだと感心するのですが、意識的に、関係から遠ざかるような不義理をしても、それでも(だからなのかもしれませんが→時間の‘間’が科学反応を起こさせる場合があるようです。)そんな私を見捨てずに、メールをくれる人もいるのです。表面的には、何があったというわけでもないのに、(言外には大いなる波乱が生じていたのですが)ずっとずっと長いこと音信不通だった人や、仕事上の繋がりから、見てみぬ振りをするわけにはいかず、半分はやむなく始まった関係を、何とか自然消滅させたい…と願って、ちょっと強引に関係を切ろうとしていた人など。今回、届いた2通のメールは、私が心の中で、関係の終焉を少し意識しながらも、その結末については、自分のあずかり知らないこととして、大いなるものの意思に委ねて、執着などの強い情念から、自分の気持ちを意識的に開放させていた人たちから届いたものです。彼女たちのくれたメールの文面には、押し付けがましさなどがまったくなく、私に対する‘愛’に溢れていました。私と関わってくれている人たちの変貌振りを見ていると、人間とは放っておいても成長していく存在なのだろうなぁと改めて思ってしまいます。十年一日のごとく、さっぱり進化しない自分を尺度にしたら、周りの人々の変化は計ることが出来なくなってしまうとため息をつくと同時に、もしかしたら、彼女たちに対する私の変化が彼女たちの変化をも促しているのかもしれないともちょっと思ったりもしました。星が動くということは、人が動くということだそうです。運は人が運んでくるものなので、結局、人に会わないと何も動かないのだそうです。変化を起こしたかったら、人に会うこと、人と関わることが大切だそうです。でも、何かをすることだけが行動ではありません。何かをしないでいることが積極的な‘行動’であることもあるようです。

空想の現象化

2005年12月22日 | my favorite・・・
『ツライときは、自我は自分の力で何とかしようとします。すると、今の不幸せな状態に意識が集まり、それでまた、さらに『不幸エネルギー』をドーンとつくり出す。じっとしていればいいものを「これじゃいけない、何とかしよう」と…。意識を向けるから、顕在化するのです。対処しようとすることが、不幸せな状態にエネルギーを注ぐことになり、ちっとも減退していかない……これが、苦しみが続く理由です。どちらかと言うと、対処すればするほど、苦しみは大きくなります。』最近、こんな文章を目にしました。この状態は、まさに今までの私のありようを見事に言葉にして語ってくれているものです。心の中に、あるイメージを抱き続けると、この現実世界に必ずそのイメージが物質化してくると言われています。否定的な状況を何とか改善しようとして、そのことに意識を集中させればさせるほど、益々土壷にはまってしまいがち…ということは経験的には、その通りだと納得出来ますが、心の中に、ある肯定的なイメージを抱き続けていると、それが現実のこととして実現していくということが本当のことかどうかは、私の体験としてはまだ実証されたことはありません。【空想が現象化する】などということが本当のことなら、自分の願いだけを空想していればいいのですから、随分と楽しい事のように思えます。
トラックバックとは?

【妖精】との再会

2005年12月21日 | my favorite・・・
妖精 妖精 妖精 妖精  鳥 ダンス 曲芸
ホームページ作りの真似事をやっていた頃、ネット上から、必死になって素材を集めていたことがあります。どんな素材を使うかで、コンテンツのイメージも方向付けが決まってしまうような気がしていましたので、それはそれは一生懸命にいろいろな素材に目を通していました。それに、その頃は、ホームページ作りの難しさに根をあげないためにも、そうした楽しみが是非とも必要でもあったのだと振り返っています。今では、作り手の思いを盛り沢山にしすぎない、すっきりとスタイリッシュに仕上がったサイトの方がお洒落だと感じるようになりましたが、当時は、作り手の肌触りが感じられるような手作り感を大事にしていました。その頃、私がとても気に入っていた妖精のアニメ画像があったのですが、サイトの更新を繰り返しているうちに、いつの間にか、その画像を失ってしまっていたのです。出典は不明で、どこかのホームページで使われていたものを拝借しただけだったので、取り返しの付かない状態でした。【天使】というキーワードで検索をかけても、一向に、その画像を探り当てることは出来ませんでした。フロッピーに保存してあったかもしれないと思い付きはしたものの、私の新しいパソコンには、フロッピーの差込口がないので、もう確かめるすべもありませんでした。「もう仕方がないのだろうな…。」と諦めかけていた時、一つ見つけてあった、あるアニメサイトのリンク集に目がいきました。そのリンク集に集められてあったサイトを辿って行くうちに、信じられことないのですが、その天使の画像のサイトに行き着いたのです。尤も、命名は天使ではなく妖精でした。「天使ではなかったんだぁ!妖精だったんだ!そうだったんだ!」と、旧友に思いがけずも出会えた時のような静かな感慨に浸ることが出来ました。子どもっぽくて、お恥ずかしい限りですが、私のメルヘンなんです。妖精の、この表情。この仕草が大好きなんです。(私の探していた妖精の画像は左側の2つの画像です。)私を再び、この妖精に巡り合わせてくれた『ぱたアニメ分室』と妖精の画像が隠されている『ホームページのおもちゃ箱』のホームページを是非、覗いてみてください。(このブログでは、妖精たちは静止していますが、これらの画像はすべてアニメーションですので、通常使用する時には可愛いらしい動きを見せてくれます。)
ぱたアニメ分室
Web Toy Box/ホームページのおもちゃ箱→アニメーションというバナーをクリックしてください。そうすると4つの部屋が現れます。お好みのアニメが必ず見つかると思います。これらの作品をを製作された方の【自己紹介】にも目を通してみてください。私はこの方にとても好感を持っています。ご自分で作られたこんなに愛らしい小物たちを「どうぞ、ご自由に使って遊んで下さい。」と言ってしまえる広くて潔良い心意気にも感謝…です!

ピンクハートいろいろ+うさぎのおまけ

2005年12月18日 | my favorite・・・
ネックピンクのガラス風ネックレスは透明感があって、とても可愛いらしいですネ!












風船宣伝に使う風船のようです。
渋いピンク色は大人っぽい雰囲気ですネ。





豆腐ピンク色のハート型のお豆腐です。









うさぎピンク色のうさぎのぬいぐるみです。




ピンク色の‘柔らかさ’にとても惹かれます。ハートは文句なく好きです!ピンク色のハートの持つエネルギーが、自分と&このブログを訪れてくださった方々の心に届くようにと願って…ピンク色の画像を4点ほどアップしてみました。