不思議オーラ 2006年02月02日 | my favorite・・・ 久し振りに再会した同業者の友人とのある日ある時の会話です。「××さん(私のこと)は以前も、不思議オーラを発していたけれど、今も変わらないのね!」「不思議オーラ?そんな大それたオーラを発するなんてこと、私に出来るはずがないわ。私みたいに大真面目で面白みのない人間は滅多にいないもの。」「でも、自分の事は何にも喋らないじゃない!だから、憶測が飛ぶのよね!【聴くなよ!】オーラが出ているから、誰も何も聞けないのよ!」「そんなことぐらいで不思議って感じるんだ…」私はごくごく幼い頃はおしゃまな女の子でした。それからは無口で内向的な時期が長く続き、やがて、とても快活になり、自分の身に起こった出来事の一部始終を友人に聴いてもらうような性格傾向を示してもいました(喋っても喋っても話しが終わるということがありませんでした)が、人生行路の荒波に揉まれて、塩水を鼻まで飲み込んで呼吸不全に陥った経験をしてからというものは、見事なまでに‘貝’になってしまったのです。いちいち自分のことを話し出していたら、そのことを何かの言い訳に使ってしまいそうで、怖くて何も喋れなくなってしまったのです。今では、これが習い性となっているので、いわくありげな気持ちを抱えながらも、(信頼できる一部の人以外には)口では何も語ることが出来ない…それが、私のオモテのカタチになってしまっています。ところが、中身は相変わらずの饒舌ぶりのままなのです。このあまりの落差が人には不思議!に映るのでしょうか?自分では、意図していたことではありませんでしたが、軽くステップを踏みながら人を煙に巻いて生きるのも、お茶目な魔女のようで楽しいことかもしれません。誰を傷つけるわけでもなければ、罪はありませんよネ
人生をマスターする10の鍵-その5 2006年02月01日 | my favorite・・・ 『何かに対して怒りや抵抗を感じるのは、結果的に自分自身に抗っていることなのだと気づく。他者への抵抗は、過去に自分が負った傷に起因する防衛反応にすぎない。怒りを棄てた時に初めて、自分自身を癒し、宇宙の流れに身をゆだねることが出来る。』 かつて私は、大変お世話になった先生に対して、理屈では推し量れない(怒りの感情を含んだ)恨みの気持ちを抱いてしまって長い間苦しんでいたことがあります。何故、そういうことになったのかの経緯も自分では推し量れませんでした。信頼の置ける友人に、その気持ちを聴いてもらっても、その名状しがたい複雑な気持ちはどうしても解消されなかったので、ある時期から、私はその先生との縁を切ることにしました。もうお会いしないことにしたのです。そうすることでしか気持ちの決着はつかないと判断したからでした。宇宙の循環とは誠に不思議なもので、私の状況も、その先生の状況も変化の時を迎えていたので、何の無理もなく、関わりは自然に消滅していきました。私たちは通常、他人行儀であることによって、他者とのバウンダリーを保っています。極めて親密な関係にあれば、バウンダリーは曖昧になっても当然でしょうが、私とその先生は、あくまでも師弟関係にありながら、精神的にとても親密な間柄にもなってしまっていたのです。けれど、親子でも友人でもない人と親密になるということは、実は、私にとっては非常に気持ちの悪いことでもありました。その先生に、もし私が恋をしていたのだったとしたら、それはそれで幸せな経験だったはずなのですが、残念ながら恋はしていませんでしたので、いつの間にか、訳の分からない怨念だけが澱のように堆積していったのでした。とても苦しい体験でしたので、普通の他者に限りなく近づいた、あの時期のことを思い出すと、今でも、危険なブラックホールを覗いてしまったけれど、その世界に飲み込まれずに生還できた怪談物の主人公のような不可思議な気分に襲われます。誰かを恨みがましく思う時、そこには必ず、自分の影が揺らいでいます。自分の心が対象に投影されて、いろいろな現象が湧き起こってきます。痛い思い出です。それ以来、恨みを抱くかもしれないような関係には嗅覚が働くようになりました。そして、そうした関係には近づかないか距離を置くようにもなりました。今では、そうした関係に陥りそうな対象に接しても、自分の気持ちが撹乱されるような部分は微妙に選り分けて関わることが可能になったようにも思います。相手を見る時には、そこに必ず存在する、鏡に映る自分の姿にも気づくようになったからかもしれません。
人生をマスターする10の鍵-その4 2006年01月31日 | my favorite・・・ 『他人の承認を求める気持ちを棄てること。自分の価値を判断するのは自分だけであり、誰が何と言おうと、自分の中に無限の価値を見出すよう目指せばいい。こう思ってしまえば、気持ちはとても自由になるはずだ。』 他人の承認を求める気持ち…とはどういう気持ちなのでしょう?誰かを喜ばせたい!とか誰かの期待に応えたい!とかの延長線上にある気持ちのことでしょうか?承認を求めるというよりは、成功したいとか、誰かの鼻をあかしたいとか誰よりも先んじて先頭に立ちたいとか、結局は、‘他人’ではなく‘自分’の弱さに打ち克って、生き難いこの人生において、自分なりのあるポジションを得たいという気持ちのことではないでしょうか?私自身には、‘他人の承認を求める気持ち’というものがないので、この言葉の意味が良く分かりません。「自分の価値を判断するのは自分だけ」ではないと思います。人がさまざまに、自分をどう捉えてくれているかという情報は、自分という全体像や実態を知る上ではとても貴重なものです。ただ、そうした情報に振り回される必要はないということでしょう。人は何とでも言います。ある意味、人の考えは、自分にとって、無責任極まりないこともありますから、人の考えを参考にはしても、そんなことで、自分を窮屈にしたり、それでがんじがらめになる必要はないということだと思います。自分は自分でしかないのですから、最後は、自分の考え方で、自分の思うとおりに生きるしかありません。人を傷つけたり不正を働いたりすることがない限りは、人の生き方に良いも悪いもありませんから、自分の生きたいように生きるしかないと思います。そう思えるようになるまでの道のりは、通常は、気が遠くなるほど長くて遠いものなのかもしれません。人生のいくつもの発達課題を超えて、ある程度の自分作りを終えて、もうどっちに転んでも、それはそれで何の問題もない…というくらいのステージに立てる身分になってからでないと、この課題をマスターすることはかなり難しいような気もします。だから、人生の草創期にある人は、むしろ、この課題には、まだ手をつけなくてもいいようにも思います。他人の承認を求める気持ちが起爆力になって、己の人生を驀進させるというメリットも侮れないと、私は思っています。また、たとえ、どんなに不自由を感じても、そうした気持ちが必要な‘時期’というものもあると思うのです。
人生をマスターする10の鍵-その3 2006年01月30日 | my favorite・・・ 『静穏に過ごす時間、瞑想する時間、迷う心を鎮める時間をつくること。そのような時、人は自分が純粋意識の源に繋がっていることに気づく。自分の内奥に注意を向けることによって、他人の判断に惑わされることなく、自分の直感に従って行動できるようになる。』 日々の生活に忙しく、自分自身が、社会にも家庭にもおおむねうまく溶け込んで、まあまあの機能を果たせていると思えれば、心静かに過ごす時間が大切だなどとは改めて考えたりはしないものです。そういう観点からすると、瞑想の価値に気づくこと自体が、ある意味、この世の時間や価値観から外れた瞬間を体験したことがあるという事実を克明に物語るものだと、私は思っています。自分に自信があり、他者からもある程度の評価を受けていて、これといった挫折体験もなく、手ひどい心の傷を負ったこともなければ、大いなるものに対する畏れの気持ちや敬虔な態度は通常は持ちにくいものです。というか、そうした側面にはしばしば気づくことすらないものです。多分、迷う心を鎮める時間の大切さを知っている人とは、この人生を通常とは異質な価値観で生きることに、ある種の覚悟を持たざるを得なかった人と言い換えることも出来るのではないでしょうか。他人の判断を無視することが出来るほど傍若無人ではないけれど、人を選ばず、うっかり自分の思いを語ろうものなら、どんな刃を突きつけられるか分からないことを十分に知り尽くしているからこそ、本当の思いはめったなことでは、人には漏らさないのだと思われます。自分が大事だと思っている想念は迂闊に人に話すべきものではありません。以前、気功の先生がおっしゃっていました。「願いが叶うまでは、自分がどんな願いを抱いているかを人に話してはいけません。話してしまったら願いは叶わなくなります。」と。そういうことなのかもしれないと強く感じます。だから、私は心を許した人にしか、自分を見せる気にはなれないのです。とりわけ、自分の内奥から、時を選ばず突然湧き出てくる直感というものは、私の中の非常に賢い‘智恵’だと思っているので、その内容を人に喋ることはほとんどありません。。理屈も何もないのですが、時々、直感というカタチで、私の中の智恵が私を導いてくれていると感じることがあります。直感に従って行動して後悔したことはないような気がします。
人生をマスターする10の鍵-その2 2006年01月29日 | my favorite・・・ 『現在に生きること。現在という時間しか私たちにはない。この場のできごとに注意を向け、一瞬一瞬のなかに充足を見出すこと。事実をすべて完全に受け入れよう。そうすれば現実から学ぶことができる。自然の無限の摂理は現在に反映されている。あるがままの宇宙が、あるがままの現在である。宇宙の広大無辺な計画に逆らわず、むしろこれと一体となるよう努めよう。』 私たちは、過去-現在-未来という一本の時の流れが修正不能なものとして、綿々と続いているものと思い込んでいますが、それは人間が作り上げている概念に過ぎないのかも知れず、便宜上、過去や未来という構図が示されている方が分かりやすいからというだけのことで、時間側からすれば、時間はいつもそこにただあるだけで、流れというものさえないのかもしれないとも思うのです。そうした時間というものに、私たちが、過去だとか未来だとかの名称を付けて考えてみることさえ、宇宙レベルで俯瞰してみれば、もしかしたら本来はあまり意味のないことなのかもしれません。あるいは、いくつもの時間がパラレルに存在していて、何人もの自分が、この人生をたった一つのもののように思い込んで、そこそこの世界で、わき目も振らずに、懸命に生きているという仮説も成り立ったりはしないでしょうか?人生を、バランスの取れた自己として生きるコツが、多くの書物で提案されていますが、数々のアイデアの中にも幾つかの共通項があります。【今を生きる】という項目(智恵)は、その最たるものではないでしょうか?当たり前のことだし、今さら…という気がしないでもありませんが、こんな簡単なことが本当に難しくて、誰にも、めったには出来ないことなのです。自分らしく生きることを考えれば、そのスタート地点には必ず、この言葉があり、ゴールに到達するその日まで、志を棄てない限り、この言葉は、ずっと伴走し続けてくれる相棒でもあります。考えてみれば、過ぎてしまったことは、たとえ修正可能であったとしても、過ぎてしまったことに拘って、その出来事から自由になれないでいることは、自分に対してもとても残念なことですし、忸怩たることでもあります。それよりは、‘今’に注意を向けることの方が多分ずっと大切なことのはずです。未来という、今は実態のない時間も、今の積み重ねによって先々に、現象してくるものなわけですから、未来を展望するとしても、今を充足させなければ、未来もまた実体のない空疎な空間に成り下がってしまうでしょう。すべての繰り返される時間が、その時が来れば砂上の楼閣だったなどということになってしまってはたまったものではありません。私の場合はと言えば、今を生きられるほどの人生の達人ではありませんが、今となっては、過去のことをくどくどと思い返したり、取らぬ狸の皮算用よろしく、未来のことを誇大的に思い描いたりすることはほとんどなくなりました。いつの間にか、今のことと、ちょっと先の未来のことだけを射程に入れることで、自分の中のバランスを取るようになっているのです。【今】は多分、昨日までの自分の生き方の集大成なのです。
人生をマスターする10の鍵-その1 2006年01月26日 | my favorite・・・ ディーパック・チョプラ氏の「エイジレス革命」という著作の中に、「人生をマスターする10の鍵」なるものについての記述があります。「人生をマスターする」というのは、自分の人生や状況に対して自主性を持つという意味であるとした上で、興味深い10項目が挙げられています。バイロンという人は、「人は自分の限界を超えて成長していく。天国はその先にこそある。」などというすごいことを言っていますが、すべての人間が、限界を超えてまで成長できるようなきっかけやチャンスを掴めるわけではない(恵まれるわけではない)と、私などは思っています。淡々と繰り返される日常の中から、心境の変化や気持ちの転換を掬い上げることは至難の技です。さまざまな文化や時代に生きた長寿の人たちを研究した結果、「長寿に最も関連のある自我意識は、人生をマスターしているという思いだ」という考察を導き出した人がいます。また、とても意外なことなのですが、創造的活動に入った年齢が遅い人ほど年をとっても創造的でいられるようだという研究結果もあります。年をとれば、すべての能力は衰えていくばかりだと思われがちですが、わが国にも、日野原重明氏や森光子さんのような方もおられます。それでは、その、10の内容について、少しずつ、書いてみようと思います。まずは、その1.についてです。『快、不快というサインによって示される体の智恵に耳を傾けること。何かをする前に、自分の体に「これをどう感じるか」とたずねてみる。もしも肉体的あるいは感情的な苦悩や悲嘆のサインが戻ってきたら注意した方がいい。逆に快感と前向きな熱意が伝わってきたら、迷わず実行すればいい。』 極めて、原始的で根源的な‘心身の声’に素直に耳を澄ませばいい…ということを言っています。生まれたての赤ちゃんが、未分化な状態から、まず手始めに掴む感覚が、すなわち、この快-不快の感情であることを思えば、要するに、人間としての基本に還れ!ということのように思えます。快-不快の違いに対して鈍感になってしまうと、自分という存在からはどんどん遠ざかっていくことになると思いますので、私もこの考えには同感です。同感どころか、今では、私の場合は、不快な方向には眼が向きません。快こそを‘我が友’にしている日常です。
無料着メロ 2006年01月19日 | my favorite・・・ 無料とは言っても、無料であることと引き換えに、こちらにとっては必要のない情報を大量にじゃんじゃん送信してくる‘無料着メロ’が多い中で、正真正銘の優良無料着メロサイトがこちらです。無料であるだけに、自分の欲しい楽曲がくまなく揃っているということはないでしょうが、もし気に入った曲が見つかれば、音色も悪くはないので、利用価値の高い、なかなかに有難いサイトだと思います。すぐに携帯に送信できるような至れり尽くせりの配慮も行き届いています。よろしければ、一度、是非活用してみてください。 ♪愛メロ♪無料和音着メロ!
1月のお花 2006年01月18日 | my favorite・・・ 今月のお花は、バラとガーベラのコラボレーションです。淡い色合いが見事に溶け合って、優しく柔らかいニュアンスを醸し出しています。まだ、冬真っ盛りなのに、「もう直ぐ春が来るんだなぁ~」そんな気持ちになりました。今回、届けられた画像は3枚ありましたが、←左の接写の画像が特に素敵でした。アレンジメントのお花には、昔ながらの古典的な生け花とはまた違ったモダンさを感じます。毎回、ファイルを開くのが本当に楽しみです。ファイルを開く瞬間の‘ドキッ’とする気持ちは、友人からの何よりのプレゼントです。
ホリエモン 2006年01月08日 | my favorite・・・ ここにきて、急速に、「ホリエモン」こと堀江貴文社長が、また一段と脚光を浴びてきている…と思っているのは、私だけで、それはひどい認識不足を露呈しているだけなのかもしれません。彼がどういう人物なのか、正直言って、今まではよく分かりませんでした。(今も分かっているわけではありませんが…)昨年の「流行語大賞」では、フジVSライブドア騒動の中で、堀江氏が連発した‘想定内(外)’という言葉が‘小泉劇場’と並んで、大賞を受賞しています。新春早々から、テレビでは社長自ら、‘Livedoor AUTO’のCMで「開店!開店!」と繰り返して、くるくる身体を回転させながら、自社の新しい事業展開の宣伝をしてします。近いうちに、歌手デビューをするという情報も、芸能ニュースで流れていました。一昨日、放送された、「幸せの宝法」では、細木数子さんと、堂々の対談を繰り広げ、細木さんをして、これからの日本の経済界をリードしていく人材だと言わしめています。彼は非常に頭脳明晰で先を読む力のある人だと思うのですが、いわゆる‘腹芸’をしないし、根が正直で、変な隠し立てをしないので、考えていることが、私のような凡人にも、比較的理解しやすいのでとても助かります。気取ることなく、‘何でもあり’の哲学で、生産的なことならどんなことでもやっていこうとする姿勢に大いなる期待と好感を持ってしまいます。しかも、手柄をぜんぶ自分のものにしなくても、人がやってくれても構わない…という姿勢がとてもおおらかなので、開放的な人柄の波動をも伝えてくれます。ホリエモンについて書かれてあるJANJANの記事を読んでいて思ったのですが、ホリエモンの存在が、現代社会の閉塞感に対して、風穴を開ける役割を担ってくれているのなら、小泉チュルドレンの一人である杉村太蔵議員も、その一人になりうるかもしれないという気がしています。杉村氏は小泉首相に似たところもあって、現在、政治を本格的に勉強中なのだそうです。「この人、意外に、化けるかもしれませんよ。」とある評論家が言っていました。杉村氏など、ご自身でも「自分は、ニートに極めて近い存在」と言っているように、昨日までは一介のヒラリーマンだった(これは杉村氏自身がそう言っていることです。サラリーマンを揶揄しているわけではありません。)人が、一夜明ければ、国会議員というようなことが可能である現実は、時代の息苦しさに一矢報いてくれる要因になりうるかもしれません。 ★ビジネス・トライアングルに立ち向かった若者――「ホリエモン」への期待 ★杉村太蔵 ブログ - 自由民主党
本格派タイレストラン 2006年01月07日 | my favorite・・・ ある日の宵、友人と‘本場タイ国料理’なるものを食しました。確かに癖のあるそのお味には本場の味わいがありましたが、破格のお値段…というわけにはいかなかったと思います。(尤も、粗食を旨とし、ほとんど外食をしたことがない私には相場のお値段が分かりませんので、人によっては格安と判断されるかもしれません…)でも、ランチでなら、一度は試してみる価値あり!です。ランチはとてもリーズナブルな価格設定になっていますし、日替わりメニューではなく、すべてのメニューにランチ版が用意されているのがgood!です。お口に合わなくても、ランチですから後悔はないこと請け合いです。 ★タイ国料理 バンタイ・新宿歌舞伎町の本格タイレストラン