『何かに対して怒りや抵抗を感じるのは、結果的に自分自身に抗っていることなのだと気づく。他者への抵抗は、過去に自分が負った傷に起因する防衛反応にすぎない。怒りを棄てた時に初めて、自分自身を癒し、宇宙の流れに身をゆだねることが出来る。』 かつて私は、大変お世話になった先生に対して、理屈では推し量れない(怒りの感情を含んだ)恨みの気持ちを抱いてしまって長い間苦しんでいたことがあります。何故、そういうことになったのかの経緯も自分では推し量れませんでした。信頼の置ける友人に、その気持ちを聴いてもらっても、その名状しがたい複雑な気持ちはどうしても解消されなかったので、ある時期から、私はその先生との縁を切ることにしました。もうお会いしないことにしたのです。そうすることでしか気持ちの決着はつかないと判断したからでした。宇宙の循環とは誠に不思議なもので、私の状況も、その先生の状況も変化の時を迎えていたので、何の無理もなく、関わりは自然に消滅していきました。私たちは通常、他人行儀であることによって、他者とのバウンダリーを保っています。極めて親密な関係にあれば、バウンダリーは曖昧になっても当然でしょうが、私とその先生は、あくまでも師弟関係にありながら、精神的にとても親密な間柄にもなってしまっていたのです。けれど、親子でも友人でもない人と親密になるということは、実は、私にとっては非常に気持ちの悪いことでもありました。その先生に、もし私が恋をしていたのだったとしたら、それはそれで幸せな経験だったはずなのですが、残念ながら恋はしていませんでしたので、いつの間にか、訳の分からない怨念だけが澱のように堆積していったのでした。とても苦しい体験でしたので、普通の他者に限りなく近づいた、あの時期のことを思い出すと、今でも、危険なブラックホールを覗いてしまったけれど、その世界に飲み込まれずに生還できた怪談物の主人公のような不可思議な気分に襲われます。誰かを恨みがましく思う時、そこには必ず、自分の影が揺らいでいます。自分の心が対象に投影されて、いろいろな現象が湧き起こってきます。痛い思い出です。それ以来、恨みを抱くかもしれないような関係には嗅覚が働くようになりました。そして、そうした関係には近づかないか距離を置くようにもなりました。今では、そうした関係に陥りそうな対象に接しても、自分の気持ちが撹乱されるような部分は微妙に選り分けて関わることが可能になったようにも思います。相手を見る時には、そこに必ず存在する、鏡に映る自分の姿にも気づくようになったからかもしれません。