

朝日新聞の日曜版に載る各界の著名人が語る「仕事力」というコラムを愛読しています。このところ、銅版画家の山本容子さんが語る仕事観が続いています。今回のタイトルは「世界のすべては等価である」というものです。

最近では、私もこのタイトルに近い世界観を持つようになっています。便宜上、人生の道すがらで起こる出来事やその結果を私たちは失敗とか成功とか、良いこと・悪いことあるいは勝ち負けなどのような二分法で仕分けしがちですが、何が良くて何が悪いかは人間の浅知恵で容易に決めてしまえるようなことではありません。そう考えるようになってからは、自分が行動したことの影響をいちいち良い悪いで、すぐに判断するようなことをしなくなりました。そうした性急な態度はとても愚かなことだと思えるようになったのです。

一見、わけもなく落ち着かなかったりイライラしたりする時は、じっと胸に手を当てて振り返ってみると、状況が自分の当て込んでいた成り行きとは食い違っていたからというようなことが原因だったりします。自分の責任の範疇の出来事であるならば、自分の力で将来の展望を変更していく可能性も孕んでいますが、人の気持ちや人の生き方を支配しようとしていないかを注意深く点検してみる必要があるかもしれません。自分が手を出したり口を挟んだりしてはいけない領域に踏み込むことは、例え、親密な関係にある間柄であっても慎むべきことだと思います。それを自他の境界を曖昧にして、他人の尊厳を侵しそうになった時に、残酷で悲しい出来事が発生してしまうのだと思うようになりました。

人生で起こることは、目先の現実を見る限りでは、自分の思うように都合良く展開していくということなどは皆無といってもいいと思います。美味しいところだけ、収穫だけを手にすることなどはとてもできない相談というものです。努力したからといってうまくいくほど、この人生は簡単なものではありませんが、努力なしに、ことをなすことなどまず100%無理と言えるでしょう。

山本さんも言われています。「何を持って失敗とするか。それは初めに定めた分かりやすいゴールに到達しなかったというだけのこと。」そして、掲げた目標自体が馬鹿げたものだったのかもしれないと指摘されています。陳腐で姑息な目的を達成できないのは余りにも当たり前、というか、その時は失意の気持ちに打ちひしがれたとしても、長い目で見れば、達成できなくて幸いだったということにもなっていくと思います。何事も行き詰ってからが勝負です。ここで、山本さんの哲学が登場します。「その時、自分の前提として掲げるものは何か。それが自分の哲学であり、その人だけの主題なのですが、それが確たるものになれば道程は本当に楽しい。旅の素晴らしさと同じで、成功や失敗といった貧しい定義など、まったく存在しなくなります。」

私はこの文章に触れた時、数年前のギリシャ旅行のことを思い出していました。旅、特に海外旅行は本当に楽しいものです。異空間に降り立った瞬間から、日常を脱ぎ捨てて、気の遠くなるような寂しさと開放感を道連れに旅の行程が始まります。そこでは先々何が起こるかを予め想定することはできません。すべてがまさに今、想像を絶して目の前に立ち現れてくるのです。文化も景色も雰囲気も食物も、何もかもが、私の固定観念を超えたところに存在しています。日々起こることを善悪で判断したりはできません。どんな感情もどんな出来事をも受け入れようとしている自分を発見するばかりでした。

旅は楽しいばかりのものではありません。とても恐いものでもあります。友情を再確認する場にもなります。ちょっと気が合うくらいの関係では海外旅行は厳しいものになる可能性があるからです。関係がそこで、再度試されることになります。非日常の空間で日常を共にする同伴者はそこでは「たった一人の同胞」だからです。言葉も通じない異国の地で、その同伴者と同調できなければ、旅そのものが大きなダメージを受けてしまいます。ならば、一人の方がいい、というわけには、少なくとも私の場合はいきません。一人では、必ずや事件や事故に遭遇してしまうだろうという恐怖に圧倒されるからです。旅が人生とほとんど同質のものであるならば、旅の知恵は日々の生活の中にも取り入れられるものとなります。そして、人生そのものである仕事にも旅から得られる教訓が役に立つことでしょう。一人では生きられない。生きられるとしても、孤独には耐えがたい場合があるし、一人の知恵には限界があるということです。

仕事といっても、そうなると、もはや仕事を通しての自分の人生観がどうであるかという問題になってくるでしょう。私がどういう思いで、この人生を生きていこうとしているのか、ということを自分に問いかけることにもなっていきます。自分なりの理念を持つことが何かの助けになるかもしれません。私を助ける、雨露をしのぐ傘や杖に相当する理念・価値観・概念は目下のところ「世界のすべては等価である」というものです。