ミケの雑記帳

グ~タラしたい毎日

そうだ、京都に行こう ⑤ ~豊国神社~

2011年03月20日 18時32分24秒 | お出かけ

交信が途絶えていてゴメンなさい。
今日も今日とて体調悪いですが、更新をしようと思います。
写真は大阪の陣のきっかけとなった鐘のある豊国神社です。
では、Doぞ~。


対応の良くない荒い運転手が運転する満員のバスに乗って三十三間堂にやってきました。
途中、先輩はビールのせいか陽気のせいかうたた寝してました。
無事に辿り着いたはいいんですが、冬季は3時半で閉まってしまうために残念ながら入れませんでした。
自分達の他にも、何組かの方々が入り口で締まっているのを見て残念がっている姿を見受けることが出来ました。
三十三間堂は後白河上皇の離宮があって、そこに建てられたものです。
中には無数の仏像が収められています。
これら沢山の仏像は、当時は仏像を造れば造るほど極楽浄土へと往けるという考えが一般的であったために造られたそうです。
三十三間堂という名が有名ですが、正式名称は蓮華王院本堂で、宮本武蔵と吉岡伝七郎の試合があったとか・・・。

三十三間堂の早仕舞いに予定が若干狂いましたが、先輩はさすがに京都に詳しいだけあってすぐさま計画の変更を頭の中で考えてました。
三十三間堂の道向かいには京都国立博物館があり、その隣には交差点に交番があります。
その交番は大仏前交番。
京都には大仏が今は存在しません。
しかし、かつては存在していました。
現在の京都の街並みは豊臣政権下に出来たそうです。
その当時、秀吉の命令で方広寺というお寺に大仏が建立されました。
しかし、焼失して再建されず、方広寺も江戸時代には廃れて現存していません。
現在まで残っているのは、『国家安康 君臣豊楽』の鐘があることで有名な豊国神社です。
この鐘に家康がいちゃもんをつけて大阪の陣、そして豊臣家滅亡へと至りました。
神社の周りは大きな石垣が積まれていました。
神社自体は普通の神社です。
ま、写真のように、拝殿は豪勢に見えないこともないかもしれませんけどね。
鐘も見ました。
件の文字は白く囲ってあり、肉眼でも囲いの外から確認できました。

豊国神社を後にして、すぐ近くの耳塚へと移動しました。
秀吉の命令による朝鮮出兵で「獲ったど~っ」って証として、首ではかさばるので首級の代わりとして耳や鼻を削ぎました。
その集められた耳や鼻なんかを供養した塚です。
想像していたよりも遥かに大きなものでした。
それだけの数が塚の下に埋まっているということかもしれませんね。

時刻は4時を過ぎ、少しずつ日が暮れてきました。
この後は駅方面へ向かって自分は一度ホテルへ。
その後は四条へと移動して小さな宴へと移行しました。


飲みでは途中からもう一人先輩が加わります。
久し振りに会う方は皆自分の体型変化に驚かれるようです。
ですが、現在の体重は平均くらいなので、以前が太りすぎていただけの話です。
では、次回の更新で。


今日の天気 時々
 体調悪いのは今日も治りません。

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