明治の時代以降、日本近代建築は驚くべき集中力とスピードで前進する。
海外の技術力と大きな隔たりがあったが、
しだいにリアルタイムの表現に追いついていくにいたる変化を感じ取る。
今回は趣向をかえた話ということで・・。
日本と同時代の海外の建築の流れ、建物との比較ができるように、
資料には欧米の建物も取り上げられている。
さすが米山先生です。多角的な観点を提示してくださる。
どうもありがとうございます。
★築地ホテル館 (1868・明治1) ブリジェンス・清水喜助
全体の構成が西洋的感覚での左右対称、ルネサンス様式を踏襲。
あやしさを持った和洋折衷の建物。
★オリエル・チェンバーズ (1864/リヴァプール) ピーター・エリス
ゴシックリバイバルの名残、出窓・オリエルウィンドウ
★ミラノのガレリア (1865/ミラノ) ジャゼッペ・メンゴーニ
ダイナミックなガラスと鉄、大きな天蓋。
→近代建築、工業技術、装飾のバリエーション。
◎作り手である設計者が自分の個性を出せる準備が整っていた。
★銀座煉瓦街 (1877・明治10)
ウォートルス(アイルランド人)だと→三枝 進氏 (銀座文化史学会会長)
70㌶、木造の町屋から造り替え、燃えない街並みを造り出すことに成功。
☆道路が広く歩道がある。歩道と車道の分離。
☆ガス燈 ☆街路樹 画期的な都市整備。→見物の人々が訪れる名所となる。
→住み手には不評。
・上からの命令で未知空間に余儀なくされた。
・夏は地獄。1階はコロネードで陽ざしを遮るが、2階にベランダはない。
→煉瓦は通気性が悪く、湿気が高くこもる。
外から見た華やかさとは裏腹に生活的にはゴーストタウンと化す。
★評価は分かれる・・・
・歴史学的・・・庶民無視だと批判。
・建築史学的・・・OK評価→ 藤森照信氏(東大教授)・初田享氏(工学院大教授)
★孔雀の間(レイランド邸)(1877/ロンドン)
ジャポニズム・日本の美意識への憧憬 様式が出尽くしてのひとつの試み。
◎★ジョサイア・コンドル (1852-1920)
24歳で来日。43年間を日本で過ごす。
※コンドルさんはいずれ別にコーナーを設けて特集したいと思う。
とにかく日本を愛していたのでしょうね、日本舞踊のお師匠さんと結婚し、
日本文化に精通していた。
★開拓使物産賣捌所(1880・明治13)
★上野博物館(1882・明治15)
→◎日本の建築に対するあるべき信念を持っていた。
ヨーロッパに同化することではない。直輸入で終わらない方向性を示す。
第三国のイスラムモチーフを織り交ぜてみたり。
★鹿鳴館(1883 明治16)門→庭→館 和洋折衷の劇的構成。
鹿鳴館の和の門と和洋折衷の庭、洋の建物でのつながり。敷地全体で考える。
コンドルは建築と庭、総合的な構想力を持ち合わせる。
建物、庭・ランドスケープ、インテリアなど現在はほとんど分業。
建物と庭の関係、総合プロデュース(磯崎新氏発言・堀口捨己)
★官庁集中計画(1888・明治21 )エンデ、ベッグマン、他
神の視点で都市を捉えていた。
明治の赤煉瓦・司法省→都市計画のひとつとして建てられた。
★エッフェル塔 (1889/パリ) ギュスターヴ・エッフェル
鉄骨造りの美しい塔。まだまだ日本とヨーロッパの建築の距離は大きい。
◎ヨーロッパではアールヌーボーが華開いていた。
★タッセル邸(1892-93) ★オルタ自邸(1898) V.オルタ
→ヨーロッパでは建築の様式を否定していたが、
日本では、それを学ぼうとしていた。おそるべきスピードで。
★水準原点標庫(1893/明治26) 佐立七次郎
→工部大学校の卒業生(辰野・片山・曾根)
ペディメント、列柱。
★ギャランティビル (1894-95/ニューヨーク)
L.サリヴァン+D.アドラー
既に13階建ての鉄骨造高層ビル。日本ではまだまだ大正時代まで登場しない。
海外の技術力と大きな隔たりがあったが、
しだいにリアルタイムの表現に追いついていくにいたる変化を感じ取る。
今回は趣向をかえた話ということで・・。
日本と同時代の海外の建築の流れ、建物との比較ができるように、
資料には欧米の建物も取り上げられている。
さすが米山先生です。多角的な観点を提示してくださる。
どうもありがとうございます。
★築地ホテル館 (1868・明治1) ブリジェンス・清水喜助
全体の構成が西洋的感覚での左右対称、ルネサンス様式を踏襲。
あやしさを持った和洋折衷の建物。
★オリエル・チェンバーズ (1864/リヴァプール) ピーター・エリス
ゴシックリバイバルの名残、出窓・オリエルウィンドウ
★ミラノのガレリア (1865/ミラノ) ジャゼッペ・メンゴーニ
ダイナミックなガラスと鉄、大きな天蓋。
→近代建築、工業技術、装飾のバリエーション。
◎作り手である設計者が自分の個性を出せる準備が整っていた。
★銀座煉瓦街 (1877・明治10)
ウォートルス(アイルランド人)だと→三枝 進氏 (銀座文化史学会会長)
70㌶、木造の町屋から造り替え、燃えない街並みを造り出すことに成功。
☆道路が広く歩道がある。歩道と車道の分離。
☆ガス燈 ☆街路樹 画期的な都市整備。→見物の人々が訪れる名所となる。
→住み手には不評。
・上からの命令で未知空間に余儀なくされた。
・夏は地獄。1階はコロネードで陽ざしを遮るが、2階にベランダはない。
→煉瓦は通気性が悪く、湿気が高くこもる。
外から見た華やかさとは裏腹に生活的にはゴーストタウンと化す。
★評価は分かれる・・・
・歴史学的・・・庶民無視だと批判。
・建築史学的・・・OK評価→ 藤森照信氏(東大教授)・初田享氏(工学院大教授)
★孔雀の間(レイランド邸)(1877/ロンドン)
ジャポニズム・日本の美意識への憧憬 様式が出尽くしてのひとつの試み。
◎★ジョサイア・コンドル (1852-1920)
24歳で来日。43年間を日本で過ごす。
※コンドルさんはいずれ別にコーナーを設けて特集したいと思う。
とにかく日本を愛していたのでしょうね、日本舞踊のお師匠さんと結婚し、
日本文化に精通していた。
★開拓使物産賣捌所(1880・明治13)
★上野博物館(1882・明治15)
→◎日本の建築に対するあるべき信念を持っていた。
ヨーロッパに同化することではない。直輸入で終わらない方向性を示す。
第三国のイスラムモチーフを織り交ぜてみたり。
★鹿鳴館(1883 明治16)門→庭→館 和洋折衷の劇的構成。
鹿鳴館の和の門と和洋折衷の庭、洋の建物でのつながり。敷地全体で考える。
コンドルは建築と庭、総合的な構想力を持ち合わせる。
建物、庭・ランドスケープ、インテリアなど現在はほとんど分業。
建物と庭の関係、総合プロデュース(磯崎新氏発言・堀口捨己)
★官庁集中計画(1888・明治21 )エンデ、ベッグマン、他
神の視点で都市を捉えていた。
明治の赤煉瓦・司法省→都市計画のひとつとして建てられた。
★エッフェル塔 (1889/パリ) ギュスターヴ・エッフェル
鉄骨造りの美しい塔。まだまだ日本とヨーロッパの建築の距離は大きい。
◎ヨーロッパではアールヌーボーが華開いていた。
★タッセル邸(1892-93) ★オルタ自邸(1898) V.オルタ
→ヨーロッパでは建築の様式を否定していたが、
日本では、それを学ぼうとしていた。おそるべきスピードで。
★水準原点標庫(1893/明治26) 佐立七次郎
→工部大学校の卒業生(辰野・片山・曾根)
ペディメント、列柱。
★ギャランティビル (1894-95/ニューヨーク)
L.サリヴァン+D.アドラー
既に13階建ての鉄骨造高層ビル。日本ではまだまだ大正時代まで登場しない。
米山先生はホワイトボードを使って、アーチ窓三種の図などを記してくださった。
・半円・尖りアーチ・オジーアーチ
とってもお得な気分だ。
建築学科出身なら、こんな絵もお得意ですよね。
思い出せば、自由学園講座で庭園美術館見学に際して前もっての講義でも、
ホワイトボードを使っての授業だった。
あれは新鮮でうれしかった。
先生の内容は整理されていて、受け手にひじょうに伝わりやすくわかりやすい。
そこが誰よりも最大の魅力だ。
オジーアーチと言えば、先日にみたイギリスのウィリアム・ド・モーガンの手描きタイル、
やはりイスラムのアーチやパルメット模様と葉の図柄などもあった。
なかでも、タイル・パネル゛Floral Ogee゛(63cm四方)がすばらしかった。
真ん中にあわいピンクの花々でかたどられたオジーアーチ、
左右対称に鳥がさえずって遊んでいる。
全体に美しい色合いで、なんともしあわせな気持ちが満ちてくる。
あれがとてもステキで気に入ったのでした。
モーガンはコンドルさんより年齢は一回り上くらい。
★開拓使物産売捌所
http://news-sv.aij.or.jp/da1/m_t_db/image/aij/p0000041.jpg