ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

座右の秀雄 51

2019-08-22 18:59:53 | 小林秀雄
小林秀雄の死後、既に三十五年以上も経過しているのにも関わらず、未だに毎年のように小林に関する本が出版されているのは考えてみると不思議な現象である。学術論文では、引用や言及などのリファレンス頻度が、その論文の重要性を計る一つの大きな指標として使われているという話を聞いたことがあるが、「批評の神様」の威光冷めやらずといったところであろうか。

同時代の文芸評論と言うものを積極的に読まなくなって久しい。そのため日本の批評の現状、もっと言えば現在の知識人のレベル一般を、個人的にはこれら陸続と出版される小林秀雄論によって推し計ってきたと言っても良いのかもしれない。勿論、その総てを読んだ訳ではないので異論もあろうが、私としては評論として読むべき小林秀雄論はただ一つ、山本七平の『小林秀雄の流儀』だけであると考えている。



あとは総て、病院食の様に薄味で歯ごたえのない賛辞本か、あるいはその位置に取って代わろうとするマウンティング批判本のどちらかと言っても過言ではないとさえ思っている。それより小林本人の文章を読んでいる方がよっぽど良いといった塩梅である。結局のところ、賛否両論どちらにせよ、「批評の神様」というお化けの様な言葉にしてやられている事に変わりはないのであって、どうやら、この事実が小林について引き続き書く事を、私に要請するといった恰好である。




さて、池田雅延氏が全集発刊に際して、興味深い小林のユニバーサル・モーターの話のエピソードを書いている。『本居宣長』が出版されたのが十月だから、出版からそれ程時がたってはいない頃の話である。

<昭和五十二年の暮、「本居宣長」がベストセラーとなっていた頃のことだ。お宅へ伺い、私が売れ行き状況などを報告し終えると、「君、ユニバーサル・モーターって知ってるかい」と先生が問いかけられた。
「世界中のヨットというヨットが、みんなこのモーターを積んでいる。いま、エンジンメーカーはどこもかしこもスピードを競いあっているが、ユニバーサル・モーターだけは昔ながらのモーターを造り続けている。このモーターは、スピードは出ない、しかし絶対に壊れない。ヨットがこれを必ず積んでいるのは、帆柱が折れるなどしたとき、確実に港へ帰り着くためだ。だからスピードは必要ない、絶対に壊れないことだけが肝心なんだ」
先生の話はそれだけだった。しかし私は、先生はご自身のことを話されたのだと思った。『新潮』連載十一年半、全面推敲さらに一年、「本居宣長」に取り組まれた先生の歩みは、まさにユニバーサル・モーターだった。
・・・・・
第五次、第六次の両全集を造り終えて、私は先生のあの話を再び思い出している。「小林秀雄全集」も、ユニバーサル・モーターである。心の帆柱をまたしても折ってしまう私たちが、帰り着くべき港へと、確実に送ってもらえる不滅のモーターである。>


別に殊更に異論を唱えるわけではないが、私の感想は池田雅延氏の解釈とは少しく重点の置きどころが異なる。素直に取れば、小林はこう言いたかったのではないだろうか。

帆柱が折れた時のような緊急時に、港へ確実に帰り着くためのユニバーサル・モーターとして今度の『本居宣長』を書いたんだ。従って、私たちが帰り着くべき港とは、本居宣長その人である、と。

勿論、これは私の勝手な憶測であるが、これは小林がなぜ本居宣長を取り上げるに至ったのかという点が、ともすれば見過ごされがちであることに対する異論でもある。

またこれは、小林の批評というものは、古くは青山二郎の「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ」といった、小林の批評に対する偏見への異議申し建てでもある。勿論、小林の批評文の中には、この事が当て嵌まる作品があることは否定しないが、これを小林の批評総てに当て嵌めるのは、これまで色々と書いてきたように小林の精神の持続を見ない静態的な硬直した見方であって、『本居宣長』については「宣長をダシにして自分語りをしただけだ」といった理解は、その本質を全く見誤るものであると言わなければならない。なぜかというと、この点にともすれば小林の批評の弱点があったとする誤解が、現在も続いていると思われるからだ。


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