ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

宇多田ヒカル

2018-01-30 00:00:00 | 宇多田ヒカル

ものぐさアーカイブから。 

*この文章は2012年初頭、つまり彼女が「人間活動」中に書いたものであるが、再アップに当たって少し手を入れたことを申し添えて置く。



 今度の震災で、友人をその家族諸共失った。底無しの辛さを噛み締める日々だが、この文章はその友人の亡くなった娘さんとの約束によるものである。二人の魂の安らからんことを願う。



勿論、彼女の名前は知っていたし、彼女の曲も知ってはいた。だが今度はいささか勝手が違った。

 ある日の午後、車を運転していて赤信号になり交差点で車を止めた。道路は長い下り坂に差し掛り、前面には空が一面に広がっていた。土砂降りの雨は上がり、虹が出ていた。そんな時だ、ラジオから音楽が聞こえてきたのは。いや、それは聞こえてきたと言うよりも、脳漿に電極を差し込まれ、その電極を通してロードされた音楽が頭の中で直接鳴っているような奇妙な感覚の中にいた。それはまるで自らの精神が音楽、いや音そのものと化したような一種言いがたい不可思議な満ち足りた感覚だった。クラクションで我に返り急いで車を発車させると、ラジオのパーソナリティーが曲は宇多田ヒカルの「eternally」だと告げていた。すぐに路肩に車を止めたが、暫くの間は心が怪しくざわめき立つのを自分でもどうしようも出来ないでいた。あれは一体何だったのだろうか。用事を急いで済ませるとレンタルCD店へ行き、この曲を探した。直ぐに「Distance」というアルバムに入っているのを見つけ、足早に試聴機の所へ行き、もどかしい思いでディスクを入れヘッドフォンを着けた。だが、あの感覚は二度と戻ってはこなかった。その後何度もこの曲を聴いているが、もう私にはあの不可思議な経験の反響を抜きにしてはこの曲を聞く事が出来ないでいる。

Utada Hikaru - Eternally!



 後になって考えてみるとこの曲はリズム設定が絶妙で、ロック・バラードとしてはまさに王道的な作品である、最もそんな説があるのかどうか知らないが。これも後のことだが、マーティ・フリードマンがこの曲をカバーしているのを知って、ああやはりなと勝手に納得した。してみると自分はこの曲をロック・バラードとして聞いていたのだろうか、というような現在もそんな取り止めもない妙な事しか考えられないでいる。しかし、ロック・バラードを聞いても、いや他のどんな音楽を聞いても、彼女の他の曲でさえも、今までにこんな経験をした事はなかった。人は様々な形で音楽との出会いをする。私のようなありふれた中年を過ぎたロック・オヤジにとって、そもそも宇多田ヒカルというミュージシャンは守備範囲ではないし、増してや好みのミュージシャンなぞではない。だが、この経験は決定的だ。どうやら私にとって、宇多田ヒカルというミュージシャンは一曲だけのアーティストであるらしい。ちょうど彼女にとってのスプリングスティーンがそうであるように。
 ここで、彼女がブログで書いている彼女の「一曲だけのアーティスト」についての美しい文章を引いておこうか。これは、芸術家間の影響という曖昧だが確固たる一種の精神的遺伝について、極めて明瞭に述べられている透明度の高い水晶の結晶のごとき名文だと思うが、どう思われるであろうか。

「今考えると、10才で「Streets Of Philadelphia」に感動って(笑)し、渋っ!!!(笑)
いや知ってる人は分かると思うけど、ほんとに渋い歌なのよ!大人っぽい歌というか、地味というか(笑)歌詞も暗いというかなんというか(笑)(ちなみに大ヒットしてたけどね!映画も歌も)この歌に、私はすごーーーーく影響されたと思う。メジャーとマイナーが絶妙に混ざり合う泣けるほど美しいコード展開。聖母のように優しくゆったりとしたシンセパッド。ベースライン(というかルート音)の動き方。絶望的で、でもなんかすごく救われるような、傷だらけなのに生まれたてみたいな世界観。一言で言うと、慈悲深い。私にとってそれは音楽の絶対要素。久しぶりに聴いても、少しも色褪せずに音が響いてくるし、歌詞が刺さってくる。実は、ブルーススプリングスティーンの歌でちゃんと聴いたことあるのは、この一曲だけなんです!(笑)この一曲知ってればもうあとはいいや(笑)と思っちゃって。というわけで好きなアーティストとかには入れてないんだけど。大好きなのでした。」

Bruce Springsteen - Streets of Philadelphia


 ここにはある早熟な才能の人生における決定的な事件が語られている。早くも十歳にして、ある一つの曲によっていきなり自らの天稟に遭遇してしまったという、言わば音楽家宇多田ヒカルの誕生という事件が語られているのだ。ここで疑問が浮かぶ、では、私が彼女の曲によって遭遇したものは、一体何であろうか、と。

 そして大分経ってから友人の家で彼と音楽の話をしている時に、ふと思い立って先の奇妙な経験の事を話した。その時偶々そばにいてこの会話を小耳に挟んだ彼の娘さんが、いきなり会話に割り込んできた。何でも宇多田ヒカルの大ファンだそうで、一番のお気に入りのアーティストだという。ちょうどアルバム「HEART STATION」が出た頃で、「彼女は今、アーティストとして難しい所に差し掛かってるんじゃあないのかな。才能を持つと言う事は、因果なものだ」というような事をむにゃむにゃと述べた覚えがあるが、いぶかしがる彼女に納得の行くような説明は出来なかった。そのため、その場で彼女に判るようにちゃんとした文章にすることを無理矢理約束させられてしまった。というのは、彼女はエヴァンゲリオンの大ファンでもあって、以前私が書いたエヴァンゲリオンについての小難しい文章を読み、非常に高く買ってくれていたという過去の経緯があったからだ。最も、内容についての質問攻めと幾つかの反論とを引き換えにではあったけれども。そして、数日経ってから彼女が大きめのダンボール箱を抱えてやって来た。中身は、彼女が集めた宇多田ヒカルの記事のスクラップ・ブックやらインタビューの載った雑誌やら出演した番組を録画したDVDやらの資料だという。膨大な量である。やれやれ、この歳になって宿題を、しかもこんなへヴィーな宿題を出される羽目に陥るとはとブツクサ文句を言ってみたが後の祭りであった。

 こういった懐かしい思い出も、今は苦痛を伴わないでは文章にすることは出来ないのだが、以上のような次第で遅きに失したが、ここに彼女との約束の宿題を提出するものである。



 宇多田ヒカルといえば、現在は「人間活動宣言」をしてアーティスト活動無期限休業中である。この「人間活動宣言」は本来無期限休業に当たってファンに対して行われたもののようだが、そのスター性もあってマスコミがいっせいに報道することとなり、この「馬の尻にたかる蠅」の誤解に対する、第三者的にはたかがスポニチごときにと思わせる、本人の反論というオマケまでついた。この事からもこの「人間活動宣言」には、マスコミ報道にはそぐわない、そういったステレオ・タイプな理解の枠組には収まりきらない非常にデリケートなものを含んでいると思われるが、私には、ではこの「人間活動宣言」というメッセージがファンにちゃんと届いているのかといわれると、大いなる疑問符がつく。しかし、彼女のファンには、突然のアーティスト活動無期限休業という事実自体は暖かく迎えられているようである。ここにアーティスト宇多田ヒカルの不幸と幸福を見るのは私だけであろうか。この文章を書きながら「宣言」から休業までの一連の経緯を今一度辿り直し、私はふとリルケがロダンについて語った言葉を思い出した。

「ロダンは名声を得る前、孤独だった。だがやがて訪れた名声は、彼をおそらくいっそう孤独にした。名声とは結局、一つの新しい名のまわりに集まるすべての誤解の総体にすぎないのだから。」

 だが、これとても彼女に関してはさらに輪をかけた誤解を招く言葉なのかも知れない。「孤独」という言葉は「絶望」だとか「哀しさ」だとかと同様、宇多田ヒカルを語るに当たっての常套語と化してしまっているからだ。リルケがここで言っているのは逆説的な言い方になるが、芸術家というものはむしろ「誤解」や「孤独」を自ら発明していく存在であるという事である。何も芸術家が創造するものは、作品だけに限られる訳ではない。

 さて、言うまでも無く過去において活動休止に当ってこのような「人間活動宣言」などという奇妙な宣言をしたミュージシャンはいない。従って、これも言うまでもないことだが、そこにはミュージシャン宇多田ヒカルの固有の問題というものが存在している筈である。巷に溢れている音楽雑誌というのは全く手に取らないので、音楽評論家がこの格好の批評材料をどう料理しているのか全く知識を持たないが、すでに多分誰かが分析しているのであろうし、またそうではないにしても何らかの指摘ぐらいはしているだろうと思い、ネットで「宇多田ヒカル」「人間活動宣言」「Goodbye Happiness」などをググッてみたが、そういったものは拍子抜けするくらいにまるでヒットしない。やれやれ。これはどんな仕事でもそうだが、叩き台というものがないのでは、取っ掛かりというものが無いのでいささかやり辛い。ま、仕方が無いので、この「人間活動宣言」について手ぶらで一から考えて行くことにする。

しかし、そのためには少し回り道をしなければならない。



 ここに一冊の浩瀚な「点ーten—」という彼女の本がある。そこいらの幾多のタレント本がレミングの群れの如く裸足で逃げ出していく、活字のぎっしり詰まった五百頁もある骨太な一冊である。キャリア十周記念出版ということで、十という数字に掛けたタイトルのようだが、いうなれば「音楽家宇多田ヒカル」の楽屋裏が覗ける本である。この本を読みながら私は色々と考え込んでしまった。そして現在の日本の音楽配給胴元とその配偶者たる音楽ジャーナリズムというものが、暗黙にであるにせよ、ここまで馴れ合い、一種不実なやくざな関係にあるのかという一種の感慨を持った。まあ、私の感慨なぞ何ものでもないが、この本の大部分はオフィシャル・インタビューのサマリーが占めている。どうやらこのオフィシャル・インタビューというのが、アルバムのプロモーション活動に組入れられ、その重要な一環を成しているらしい。現在の日本のポップ・ミュージック・シーンというものに全く疎い私は、その事をこの本で改めて知って半ば驚き半ば呆れてしまったが、しかも何と彼女には専属のオフィシャル・ライターというものまでが存在しているというのだから、開いた口が更に大きく開いてフリーズしたのも無理はない。オフィシャル・インタビューというものの存在、更にはオフィシャル・ライターというものの存在は、インタビュー内容に対するある種の検閲を意味する。勿論、この検閲にはあらゆる検閲がそうであるように正当な理由が存在するのだろう。だが、これは二重に本末転倒というものである。本来、芸術家自身を最も雄弁に語るものは、その作品に他ならないからだ。一体全体、楽屋話にオフィシャルを冠し検閲することに何の意味があるのか。現在の高度資本主義音楽業界システムというものは、音楽作品だけでなくさらに音楽作品について語った作者の検閲された饒舌をも作者に対して要求するということらしい。声高にエコが叫ばれる現在、何故このような二度手間を作者に対して要求するのかというと、この音楽作品が商品であるがためだ。差別化というやつである。オフィシャルによってノン・オフィシャルを差別化し、その差別化した宣伝によってさらに作品自体を差別化し、もって商品価値を高める訳である。だが音楽作品というものは、(これは音楽に限らないが)本来そのように商品化されにくい性質を持った危うい脆弱な生産物である。こういった宣伝方法システムは、その脆弱性を顕にし作品を損うことはあっても、決して強化することにはならないだろう。音楽を悪戯に文学化することは、補強ではなく文学の毒による汚染、侵食に他ならない。
 そんなような事をあれこれと考えながら、この「点―ten―」という浩瀚な本を丸々一日掛けて読み終わってやれやれと本を閉じ、ふと帯に印刷されている彼女の言葉が眼に留まった。そして思わず噴き出してしまい腹を抱えて笑ってしまった。何という鮮やかなちゃぶ台返し!

「自分がインタビューで何を言ったかなんて全然覚えてない。その場その場で正反対のこと言ったり、かっこつけたり、テンション高すぎたり、嘘ついたりしてると思う。でもいつでも本気。」

 これは彼女らしい例によって開けっぴろげの無邪気な感想だろうが、私の目には現在の音楽業界システムに対する痛烈な批評と映った。迂闊にも見逃していたが、この言葉は本の冒頭にも記されているので、いきなり冒頭で彼女はこの本のインタビューの中には本当の自分はいない!と宣言している訳である。これを痛快と言わずして、何と言おうか。この言葉の暗に意味する所を翻訳すれば、この膨大なインタビューの中に浮かび上がってくるのは、インタビュアーの要求に一生懸命に何とか答えようとする勘のいい多感で利発な女の子の姿である。その名前がたまたま「宇多田ヒカル」という名前であったのに過ぎない。そしてこの女の子はインタビュアーとインタビュイーという関係性の中で、相手の暗黙の要求にさえまでも誠実に答えようと「本気」で仕事を遂行した。だが、その成果が「その場その場で正反対のこと言ったり、かっこつけたり、テンション高すぎたり、嘘ついたりしてる」のであったとしても彼女に何の罪があろう、とでもいったところであろうか。
 しかし、そうそう腹を抱えてばかりもいられない。彼女がひっくり返したちゃぶ台は元に戻さなければならない。だが、ちゃぶ台に載っていた湯飲みや茶碗や皿や箸は必ずしも元の位置に戻す必要はない。この本の中には、検閲官が見逃した言葉がその発言者を裏切って我知らず彼女自身を表した言葉というものがあるはずである。すなわち、それらの言葉の位置をずらし、文脈を読み替えることによって検閲によって歪められる以前の本当の宇多田ヒカル像というものが浮かび上がってくるはずだ。

少なくともここに、図らずも宇多田ヒカルの音楽に遭遇してしまった一音楽愛好家の特権がある筈である、それと裏腹に在る陥穽と共にではあるにしても。




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。