ものぐさ屁理屈研究室

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私はそれを知ってはいない。

小林秀雄 その古典との出会い―堀辰雄と林房雄を通して― 石川則夫

2018-01-01 00:00:00 | 小林秀雄
「好*信*楽」2017年12月号に石川則夫氏が寄稿した文章を興味深く読んた。


小林秀雄 その古典との出会い――堀辰雄と林房雄を通して――石川則夫


 編集後記で「この西洋から日本の古典へという舵を、小林秀雄にきらせた動因は奈辺にあったか、・・・・・石川氏の今度の論考によって、ずいぶん広く、また遠く、見通しがきくようになった」と池田雅延氏が述べているように、私と同じように色々と勉強になった方も多いのではないだろうか。石川氏の労を多としたいと思う。

 だが、果して「堀辰雄と林房雄が小林秀雄に人生の舵を大きく切らせた」とまで言ってしまって良いのであろうか。これは小林秀雄という文学者理解の根幹に関わる重要な論点であると考えるので、ここであえて疑問を呈させて頂きたいと思うのである。




<「紫文要領」の中に、「準拠の事」という章がある。文学作品の成り立つ、歴史的、或は社会的根拠です。今日の言葉で言うなら、文学が生まれて来る歴史的、社会的条件を明らかにする事、これは何も今日始った事ではない。昔から、文学研究者は気にかけていた事だ。それを、宣長は、そのような問題は詰らぬ、私には、格別興味のある事ではないとはっきり言った。どういう言葉で言ったかというと、「およそ準拠という事は、ただ作者の心中にある事にて」—。いろいろの事物をモデルにして、画家は絵を描き、小説家は小説を書く。その時、彼等が傾ける努力、それは、彼等の心中にあるではないか。物語の根拠というものは、ただ紫式部の心の中だけでほんとうの意味を持つ。物語の根拠を生かすも殺すも式部の心次第なので、その心次第だけに大事がある、と宣長は、はっきり言う。このような思い切った意見を述べた人は、誰もいなかった。>

 これは昭和五十三年の「感想」の中にある小林の文章であるが、『本居宣長』刊行の翌年に書かれたという事を考えると、何気なく読み飛ばしてしまうこの一節も、その意味するところはなかなかと深いと言わざるを得ない。この念を押すように挟み込んで置いた一節の、小林の「心次第」を私は想うのである。

 この「準拠の事」については『本居宣長』本文では、このようにも書かれている。

<彼は、在来の準拠の沙汰に精通していたし、「河海抄」を「源氏」研究の「至宝」とまで言っているのだし、勿論、頭からこれを否定する考えはなかったが、ただこの説を、「緊要の事にはあらず」と覚ったものがいなかった事は、どうしても言いたかったのである。註釈者たちが物語の準拠として求めた王朝の故事や儒仏の典籍は、物語作者にすれば、物語に利用されてしまった素材に過ぎない。ところが、彼等は、これらを物語を構成する要素と見做し、これらで「源氏」を再構成出来ると信じた。宣長が、彼の「源氏」論で、極力警戒したのは、研究の緊要ならざる補助手段の、そのような越権なのである。>(「十六」)

 この「準拠の事」は、いわば「思想と実生活」に関する高度な応用問題と言って良いだろうが、現在においても「素材」によって「再構成出来る」と考える一元論的思考方法の通念は根深い為であろう、『本居宣長』の他のところでも繰返し小林は論じている。

<歴史の資料は、宣長の思想が立っていた教養の複雑な地盤にについて、はっきり語るし、これに準じて、宣長の思想を分析することは、宣長の思想の様々な特色を説明するが、彼の様な創造的な思想家には、このやり方は、あまり効果はあるまい。私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れている或るものを想像するのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自な魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私の希いは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家に用いられる有力な方法とは、全く逆な向きに働く。これは致し方の無い事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私達の努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。>(「四」)

 では、この「準拠の事」は当の小林自身については、どう考えるべきであろうか。つまり、ここにももう一つの「思想と実生活」に関する高度な応用問題があると私は考えるのである。

 その答えは、やはり「ただ小林の心中にある事にて」—。つまり、「西洋から日本の古典へという舵を、切らせた動因」は、小林の「心の中にだけに大事がある」、彼の「心次第」であると言わなければならないだろう。この日本への舵を、小林に切らせた「心次第」の紆余曲折については『座右の秀雄』に書いたので繰返さないが、ここには小林自身の自己批評による「頭の中の波乱万丈」があったと私は考えている。この自己批評における深い反省こそが、小林に「西洋から日本の古典へという舵を切らせた」動因の骨髄を成すものである、そう考えるのである。この点で、石川氏の引いている小林の発言の中で私が注目するのは、「いろいろの例を挙げる場合に、どうしても日本人の言葉のほうが僕には能く解る。能く解るし、僕は、その方がね、何というのかな、云い易くなって来たのだね段々……。」という発言である。中でも取り分け注目するのは「どうしても」という言葉である。

 石川氏は「4つの文脈」を挙げておられるが、例えば戦争の小林に対する影響を過大視する山城むつみ氏の<ここで「原作」とは単にドストエフスキー作品の本文ではない。それは敗戦とともに露頭した現実である。・・・テクストさえもない、と言ってもいい>というような極論は論外としても、これ等の文脈は確かにそういう事も指摘できるのであろうが、小林に倣って言えば、これらは「小林の思想的転回の様々な特色を説明するが、彼の様な創造的な批評家には、このやり方は、あまり効果はあるまい」と思われる。それらは所詮は「準拠」に過ぎず、これをもって動因とするのは「緊要ならざる補助手段の越権」であると言えよう。

 詰まるところ、「堀辰雄と林房雄が小林秀雄に人生の舵を大きく切らせた」と言うのは当らない。それは「準拠」の過大評価であって、むしろ小林自身の創造的な批評性がそのような堀辰雄と林房雄を見出したと言うべきである。







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