ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

トランプ暗殺未遂と斉藤和義、ボードリヤール、そして仏陀

2024-07-15 19:00:00 | 中今
ネットでトランプ暗殺未遂事件を知った。

例によって、情報や意見や解説などが錯綜し、色々なことが言われているが、それらをつらつらと眺めているうちに、ふと、頭の中で、遠くの方で何やら不細工な男が演奏している曲が聞こえてくるのに気付いた。斉藤和義が歌っていた。





欲しい物なら そろい過ぎてる時代さ
僕は食うことに困った事などない
せまい部屋でも 住んじまえば都さ
テレビにビデオ、ステレオにギターもある

夜でも街はうっとうしいほどの人
石を投げれば酔っぱらいにあたる
おじさんは言う"あのころはよかったな…"
解る気もするけど タイムマシンはない
雨の降る日は、どこへも出たくない
だけど、大切な傘がないわけじゃない
短くなるスカートはいいとしても
僕の見たビートルズはTVの中…

緊張感を感じられない時代さ
僕はマシンガンを撃ったことなどない
ブラウン管には 今日も戦車が横切る
僕の前には さめた北風が吹く
ぬるま湯の中 首までつかってる
いつか凍るの? それとも煮え立つの?
なぜだか妙に"イマジン"が聞きたい
そしてお前の胸で眠りたい…

訳の解らない流行りに流されて
浮き足立った奴等がこの街の主流
おじさんは言う"日本も変わったな…"
お互い棚の上に登りゃ神様さ!
解らないものは解らないけどスッとしない
ずっとひねくれているばっかじゃ能がない
波風のない空気は吸いたくない

僕の見たビートルズはTVの中…
僕の見たビートルズはTVの中…
僕の見たビートルズはTVの中…



かって、<浮き足立った奴等>に持ち上げられた<訳の解らない流行り>にポスト・モダン思想というのがあった。その中の一人、ジャン・ボードリヤールが晩年に「ネットワークの精神的ディアスポラ」とかいう、これまた<訳の解らない>ことを述べている。正確・精緻な分析であるが、小難しい難解な表現の衣をはぎ取ってしまえば、何のことはない、アングルや被写界深度の濃淡の違いはあれども、斉藤和義とボードリヤールは被写体として同じものを感じ、同じものを見据えているように私には思われる。


バーチャル性ーーーデジタル、コンピューター、インテグラルな計算ーーーの領域では何ひとつとして表象可能ではない。・・・それらから何らかの感知できる現実性へと遡ることは不可能だ。政治的なものの現実性ですら不可能だ。この意味で、戦争すらもはや表象されえず、戦争の不幸に加え、それを出来事のハイパーヴィジュアルにもかかわらず、あるいはそのせいで表象できないという不幸が生じる。イラク戦争と湾岸戦争は、そのことをはっきりと示した。

批判的知覚、真の情報が存在するためには、映像が戦争とは異質なものである必要がある。だがそうではない。(あるいはもはやそうではない。)すなわち、戦争の凡庸化された暴力に、まったく同じぐらい凡庸な映像の暴力が加わるのである。戦争の技術のヴァーチャル性に、映像のデジタル的ヴァーチャル性が加わるのだ。政治的争点を超えたところで戦争を現実の姿、つまり世界的次元での暴力的な文化的同化の道具として捉えるなら、メディアと映像とは戦争のインテグラルな現実の一部をなす。それらは力による同一の均質化の、より巧妙な道具なのだ。

 このように映像を通じて世界を再把握し、情報から行動、集団的意志へと移行することが不可能であり、またこのように感受性が欠け、人びとを動かすことがない状態において問題とされるのは、全般的な無感動や無関心ではなく、単に表象のへその緒が断ち切られてしまったことなのである。
 ディスプレイは何も反映しない。・・・ディスプレイはあらゆる二者的関係を遮断する。

 そもそもこの表象の不能によって、行為が不能になるだけでなく、情報の倫理、映像の倫理、ヴァーチャルとネットワークの倫理をじゅうぶんに完成させることが不可能になる。この方面でのあらゆる試みは必然的に失敗する。
 残されているのは映像の精神的ディアスポラと媒体の常軌を逸した性能だけだ。

媒体と映像とのこうした優越について、スーザンソンダクが見事な逸話を残している。彼女は人類が月面に着陸するところをテレビで見ているのだが、その場所に居合わせた人びとは、自分らはこのお話の全部を信じているわけではないと言う。彼女が「じゃあ、あなたがたは何を見ているというの」と問うと、彼らは「私たちはテレビを見ているんですよ!」と答えたのだ。
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 だが結局のところ、スーザンソンダクの考えとは反対に、意味の帝国を信じているのはただ知識人だけであり、「ふつうの人びと」は記号の帝国しか信じていない。彼らはずっと以前から現実性をあきらめてしまっている。彼らは身も心も見せ物的なもの(スペクタクル性)の側に移ってしまっている。

 主体と客体とを区別する線が潜在的に消滅してしまっている相互作用的世界について、どのように考えればよいだろうか。

 この世界はもはや反映されることも表象されうこともありえない。それは脳の操作とディスプレイ画面のそれとが区別されなくなった操作によって屈折したり回折したりするだけだ。脳の知的操作それ自体がディスプレイ画面になったのだ。
・・・
インテグラルな現実のもうひとつの側面は、すべてが統合された回路のなかで機能することである。情報、そしてわれわれの頭のなかにおいて回帰する映像が支配するとき、コントロールされたディスプレイでは、雑多な要素の無媒介的な集合が生ずるーーー円環状に作用し、ライデン瓶のようにそれ自体に接合し、そしてそれ自体にぶつかる事物が一点をめぐって動きまわるのだ。それはすべてのコラージュによって、またそれ自体の映像との混同によって確認されるという意味での完全な現実性だ。

 この過程は、視覚的、メデイア的な世界において、だがまた日常的で個人的な生活やわれわれの身振りや思考においても完成にいたる。この自動的な屈折は、いわばあらゆる物を自分自身の上で焦点を合わせることによって固定することで、われわれの世界の知覚にまで影響する。

 これは写真の世界でとりわけ認められる現象だ。そこではあらゆるものがただちにある文脈、文化、意味、観念を奇妙にまとい、あらゆるヴィジョンの力を奪い、盲目の一形式をつくりだす。ラファエル・サンチェス・フェルロシオが告発するのがこれだ。「ほとんどの人が気づいていないが、恐ろしいかたちの盲目が存在する。」
・・・
 この意味で、美学的になったのはわれわれの知覚そのもの、直接的な感受性である。視覚、聴覚、触覚、われわれのあらゆる感覚が語の最悪の意味で美学的になってしまった。事物についてのあらゆる新しいヴィジョンは、それゆえ世界をその感知可能な幻想(それには回帰がなく、回帰する映像もない)に戻してやるため、回帰する映像を解体しヴィジョンをふさぐ逆転移を解決することからしか生じない。

 鏡のなかで、われわれは自分を自分の映像と差異化し、また自分の映像との間で、開かれたかたちの疎外や戯れに参入する。鏡、映像、視線、舞台、これらすべては隠喩の文化につながるのだ。

 一方、ヴァーチャル性の操作においては、ヴァーチャルな機械のなかに一定のレヴェル没入することで、もはや人間と機械の区別がなくなる。つまり機械はインターフェイスの両側にあるのだ。
・・・
 このことはディスプレイの本質そのものに起因する。鏡に彼方があるようには、ディスプレイに彼方(奥行き)はない。時間そのものの諸次元も、現実の時間において混じりあう。そしてどうのようなものでもヴァーチャルな表面というものの特徴は、何より空虚な、それゆえ何によっても満たされうる状態でそこにあるとすれば、現実の時間において、空虚との相互作用に入るのはあなただということになる。

 機械は機械しか生みださない。コンピューターから出てきたテクスト、映像、映画、言説、プログラムは機械の産物であって、その特徴を兼ね備えている。つまり人工的に膨張されられ、機械によって表面をぴんと張られる。そして映画は特殊効果を詰めこまれ、テクストは冗長さと冗漫さを詰め込まれる
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 暴力とポルノグラフィ化された性のうんざりするような性質はそこからくる。これらは暴力や性の特殊効果でしかなく、もはや人間による幻想の対象でもなくなって、単なる機械的暴力なのだ。
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 機械的テクストにあるのはあらゆる可能性の自動偏差だけだ。
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 実際のところ、あなたがたに話しかけるのはヴァーチャルな機械であり、それがあなたがたのことを考えるのだ。
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 そもそもサイバー空間のなかに、何かを真に発見する可能性があるだろうか。インターネットは自由と発見の心理的空間を偽装しているにすぎない。実際インターネットは、拡がりはあるものの慣習的な空間を提供しているだけであり、オペレーターはそこで既知の要素、すでに確立されたサイト、制定されたコードと相互作用を行うのだ。検索パラメーターを超えて存在するものは何ひとつない。あらゆる問いに、予測された答えが割り当てられている。あなたは問いかける者であると同時に、機械の自動応答機でもある。コード作成者であると同時にコード解読者であるあなたは、実のところ自分自身の端末なのだ。

 これこそ、コミュニケーションの恍惚だ。

 もはや面と向かう他者はいない。目的地もない。どこでもよいのであり、どんな相互作用因でもよい。システムはこうして終わりも合目的性もなく回転し、その唯一の可能性は無限に続く内向きの旋回である。そこから生じるのが、麻薬のように作用する電子的相互作用の心地よいめまいだ。中断することなく、そこで全生涯を送ることができる。



ただまあ、当たり前のことであるが、同じものを感じ、見据えていても、斉藤和義とボードリヤールとでは、それに対する反応というか応答が異なるのも確かで、同じ日本人だからなのか、<精神的ディアスポラ>を言い募るボードリヤールよりも、<ずっとひねくれているばっかじゃ能がない>という斉藤和義の方に、私は肩入れしたい気持ちを持つ。

ボードリヤールは鬼籍に入って、亡くなってしまったので、あの世で仏陀に会っているかも知れない。従って、こんな風に仏陀に説教を諭されているボードリヤールの映像が映し出されているディスプレイ画面を想像してみるのも、あながち悪くはないと思うのだ。

ボードリヤールよ、ひねくれているばかりでは能がないということに気付いているかい。毒矢の当たっているお前に、毒の分析が何の意味がある。私は毒矢を抜く方法を教えるだけだ。








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