ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

座右の秀雄 53

2019-10-18 12:00:00 | 小林秀雄



<戦後の知的世界をながめてみる。吉本隆明、山本七平、小室直樹といった人びとは、本質的で普遍的な仕事をしている。いっぽう、大御所と仰ぎみられている丸山眞男、小林秀雄は、普遍的なみかけなのに、それぞれ問題を抱えている。そこで、みながこれから大きな建物を建てるのに、まず必要な地ならしをしておこうと思った。>

と『小林秀雄の悲哀』の「あとがき」では、著作に至った橋爪氏の基本的な着想が述べられているが、『丸山眞男の憂鬱』『小林秀雄の悲哀』のニ著は、<本質的で普遍的な仕事をしている>三人のうち、山本七平の褌でもって<普遍的なみかけなのに、それぞれ問題を抱えている>丸山眞男、小林秀雄それぞれを相手に相撲を取って見せた著作と言って良い。具体的には、山本七平の『現人神の創作者たち』に依拠して、丸山の『日本政治思想史研究』と「闇斎学と闇斎学派」、小林の『本居宣長』を批判する内容になっている。その<地ならし>プロジェクトの拠り所は、山本の皇国史観の系譜学――儒学(朱子学)ー国学ー水戸学ー尊王思想ー戦前戦中の超国家主義イデオロギーという系譜学である。

当の山本自身は、この系譜学は『現人神の創作者たち』『現人神の育成者たち』『現人神の完成者たち』という三部作でもって完結する構想であったと書いているが、実際にはその三部作のうちの、最初の一書をしか書き終えることが出来ずに他界してしまった。皇国史観の系譜学のスキームで言うと、最初の儒学(朱子学)のところに当たる部分である。

ここが重要なポイントである。

なぜかというと、橋爪氏は丸山の『日本政治思想史研究』と「闇斎学と闇斎学派」を批判するに当たっては、単に山本七平の『現人神の創作者たち』を参照すればそれで事足りた訳だが、小林の『本居宣長』を批判するに当たっては、書かれずに終わった『現人神の育成者たち』(の一部)を、山本に代わって言わば代筆する必要があったからである。もうお分かりだと思うが、それは系譜学のなかの国学の部分で、橋爪氏はこの<地ならし>プロジェクトの一環として、本居宣長を『現人神の育成者たち』の一人として位置づける論考を書き上げるという挙に出た訳である。すでに述べたように、この橋爪氏の代筆の試みはとても成功したなぞとは言える代物ではないのは勿論のことであるが、事は単にそれに止まらない。

というのは、うっかりすると危く見逃がしてしまう、一見些細だが実は重要な事実が『小林秀雄の悲哀』ではさり気なく述べられているからだ。それは「はじめに」で橋爪氏は一言、山本の『小林秀雄の流儀』を店頭で見かけてすぐに購入したと書いている事である。

勿論、山本を高く評価する橋爪氏の事である、店頭で見かけてすぐに購入したにもかかわらず、目を通さないでいるという事は、まずもって考えられない。ところが、この本の内容については全く触れることなく橋爪氏は『小林秀雄の悲哀』を終えているのであって、この『小林秀雄の流儀』に対する全くの欠語、或は完璧な黙殺は、私の目には誠に不自然に映る。なぜなら、『小林秀雄の流儀』には、『本居宣長』(とそれに付随して宣長)に対する山本の見解が縷々述べられているからだ。

とは言っても、そこに述べられているのは、ある種の当惑と共にではあるが、山本による『本居宣長』への好意的な、それも相当に肯定的な批評であった。ということは、実は山本に依拠して小林を批判するという橋爪氏の<地ならし>プロジェクトにとっては、この本は誠に不都合な、下手をするとその存在基盤自体を揺るがしかねない存在であったということを意味する。なにせ当の山本自身が小林に対しては、正反対の姿勢を取っているのだから。橋爪氏にとって、出来れば、この本はこの世に存在して欲しくない著作であったと言っても、過言ではないだろう。私はこの黙殺に、橋爪氏の意図的な不作為を感じる。私の直観が、しきりにそう囁くのだ。

従って、ここにおいて、橋爪氏の宣長理解を山本の宣長理解でもって、さらには橋爪氏の『本居宣長』理解を山本の『本居宣長』理解でもって検討・批判するという論点が、俄然意味を持って浮かび上がってくることになる訳である。



ということで、『小林秀雄の流儀』の中には、短いが宣長に関して言及した文章も幾つか挟み込まれているので、そこから他の著作も参考にして、そもそも山本自身が宣長をどのように見ていたのか、次に少しく探ってみたい。


<思想も思想の演ずる劇も同じであろう。それは一人歩きをはじめる。それはもう、それを生み出した人間には如何ともしがたいことではないか。宣長に、お前は結果に於いて、超国家主義を生み出し、それが日本を悲劇のどん底に落したと言っても何になるであろう。>

<多少、徳川時代に関心がある私、「現人神の創作者」のつぎに「現人神の育成者」としての宣長という目で彼を見たいという「私心」のある私などは、-この私心は「私の流儀」であるから捨てる気はないとはいえ―全く別の目でこの『玉くしげ』を、小林秀雄が読んでいるのは事実であった。>

<「では小林秀雄の思想とは何なのか、それが社会にどういう影響を与えたのか、彼には思想と言えるものがあったのか」。・・・そんな問いは、・・・本居宣長の思想は何なのかという問いと同じで、答えなぞありようはずはあるまい。・・・また、死後入門の平田篤胤が実に大きな社会的影響力を行使し、「現人神の育成者」の一人となったこともよく知られている。・・・篤胤が日本の進路に与えた功罪は、さまざまな点から論じられるであろう。小林秀雄がそういう役割を演ずる結果になるかどうか私は知らない。それは「問い」としては残るが「答え」は、ない。『本居宣長』については、二十年たてば何かかけるかもしれぬと最初に記したのは、その点への「自反」から何か「答え」が出てそれが新たな「問い」となるかも知れないというだけのことである。それが直接に小林秀雄につづいているかどうか、も「問い」になり得よう。>


一見すると、これらの記述から山本は宣長を「現人神の育成者」の一人として見ていたように思われるかも知れないが、注意して読むと、必ずしもそうとは言い切れないことが判る。

最初の文章では、<宣長に、お前は結果に於いて、超国家主義を生み出し、それが日本を悲劇のどん底に落した>とは述べてはいるが、同時に一方では、それはあくまで思想が<一人歩き>をはじめた<結果に於いて>であるとも述べているのであって、そう<言っても何になるであろう><それを生み出した人間には如何ともしがたいことではないか>と、暗に宣長擁護と取れる発言をもしている訳である。

また、三つ目の文章では<平田篤胤が実に大きな社会的影響力を行使し、「現人神の育成者」の一人となった>と断言し、<篤胤が日本の進路に与えた功罪は、さまざまな点から論じられるであろう>と篤胤の名前だけを挙げていて、そこには宣長の名前がないこと、それに二つ目の文章では<「現人神の育成者」としての宣長という目で彼を見たいという「私心」>といった、慎重とも取れる控えめな表現を取っていることにも注目すべきであろう。

山本がなぜこのような歯切れの悪い言い方をするに至ったのかは、<全く別の目>で見ている小林に対する当惑とそこから来る対抗心からであろうと私には思われるが、大本にはそれなりの理由があったと言わなければならない。というのは山本の皇国史観の系譜学スキームにあっては、<現人神の育成>には、国学と儒学(中国朱子学)の正統主義との<習合>が必要条件であるが、「現人神の育成者」と認定するためには、儒学の正統主義への何らかの指向性やそれとの親和性が必要だからである。だが、系譜上宣長に続く篤胤にはそれが見られるのに対し、宣長にはそれが全く見られないからである。両者は国学という系譜の上では繋がってはいるが、この点での発想の上では隔たりもまた大きいのである。

『現人神の創作者たち』や『小林秀雄の流儀』とは別に書かれた山本の「日本の正統と理想主義」という文章では、次のような文章が見て取れる。

<そういう形で一つの正統論が確立し、その正統論に基く理想的な(と彼らが信じた)社会をつくろうとしますと、当然、その前に、中国朱子学と国学とが習合をいたします。この習合というのは山鹿素行の中朝論ですでに起こっているのですが、国学が盛んになると、これと朱子学とがくっつくという形になります。
 もっとも、本居宣長自身にはそういう意識はなかったと思いますが、平田篤胤になるとそれがあったと見てもいいと思う点が出てまいります。>

さらに、『日本人と「日本病」について』(岸田秀との対談本)の中では、山本はこの篤胤と宣長の違いについて、もう少し詳しく述べている。

<そうすると、国学とは何だったのか。中国的なもの、仏教的なものをすべて取り払った原日本思想とは何であるのかという疑問が出てきますね。本居宣長の動機にもこれがあったろうと思うんです。で、全部取り払うとじつは何も残らない。だから中国心ならぬ原日本精神、つまり大和心は何かを人に問われたら、<朝日に匂う山桜花>としか答えられなくなってしまう。なにしろ原理原則がないんですから。まあ、宣長としては、ないならないで、一種満足していたわけですよ。
しかし、弟子の平田篤胤となるとそうはいかない。儒仏を排除して、中国におけるキリスト教伝導文書であるマテオ・リッチの『畸人十篇』を読むんです。そして、それに影響を受けて日本神話を読み直すわけです。
どんなふうにつくり直したのか。
「天地初出の時、高天原に神あれまして」というのは誤りであって、「天地未出の時、高天原に神ありまして」でなくてはいけない。「あれまして」と読むとそこは「生まれる」ことになるけれど、「ありまして」なら、もうすでに「いた」わけだ。つまり、創造神的発想を持ち込んだんですね。
そうして、日本は創造神を持っていた、ところが世界中がその真似をした。イザナミ、イザナギの命をヨーロッパ人が真似たのが、アタン(アダム)とエワ(イヴ)である、と、こうなるんです。>


この発言からすると、篤胤による<現人神の育成>は、国学と儒学の正統主義との<習合>により行われたというよりも、むしろ実質的な思考様式においては、キリスト教の創造神的発想と儒学の正統主義との<習合>によって行われたと考えられそうである。つまり、<現人神の育成>は、むしろ宣長の主張する「からごころ」と「やまとごころ」というスキームで言うところの「からごころ」(=輸入思想)、二系統の異なった欧中「からごころ」の<習合>によって齎されたと考えた方が相応しいのかも知れない。

それはともかく、これらの文章からすると、宣長と明らかに「現人神の育成者」の一人であった死後入門の平田篤胤の間には、このように明確な境界線を山本は見ていたのであって、宣長については「現人神の育成者」の一人だとは考えていなかったとするのが妥当であろう。

とまあいったようなことで、高く評価する割には橋爪氏がどれ程山本七平を理解しているのかも疑問ではあるし、そもそもこういった考察による宣長と篤胤の差異なぞ、氏の視野においては全くの埒外であろう。結局のところ、山本の皇国史観のスキームを公式主義的に当て嵌めて、この境界線から粗忽にも一歩を踏み出して、宣長を「現人神の育成者」の一人であると決めつけたのが橋爪氏であったということである。前に<この橋爪氏のスキームは、山本七平のスキームを下敷きにした誤流用、その論理を逸脱した応用といって良い>と述べて置いた所以である。







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