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みち草・・・・「複雑系」

2012-11-10 09:00:00 | アルケ・ミスト
 物理学者イリヤ・ブリゴジンが声高に主張してきた自己組織化システムも、非線形のダイナミクスに支配されていた。
実際、ぐつぐつと煮えるスープの中の自己組織化の動きは、たとえばシマウマの縞やチョウの羽の班のような他の非線形的パターンの形成と類似したダイナミクスに支配されていることが明らかになった。

 だがもっと驚くべきは、カオスとして知られる非線形的現象だった。
人間の日常世界においてなら、〈ここ〉の小さな出来事が〈あそこ〉にとてつもない影響を及ぼしうることを知ったからといって、だれも驚いたりはしない。ごく些細なことから、予想外なことが起こる。
 風が吹いたら桶屋がもうかる、といった図式だ。
しかし物理学者たちがそれぞれの分野の非線形システムに真剣に注意を向けるようになると、彼らは、それがとても深淵な原理であることを認識しはじめた。
 たとえば、風の流れや湿度を支配している方程式はしごく単純に思えたが、やがて研究者たちは、テキサスでチョウが羽をばたつかせると、1週間後、ハイチ上空のハリケーンのコースが変化し得ることを知った。あるいは、チョウが1ミリ左方で羽を1度ばたつかせていたら、ハリケーンのコースがまったくちがったものになっていたかもしれないことを知った。
 例はいくつもあったが、意味はいつも同じだった。
すべてが結びついている。それも、しばしば信じられないほどの敏感さで。
 小さい攪乱は小さいままであるとはかぎらない。条件がととのっていれば、ほんのわずかの不確定性が、システムの未来がまったく予測できないほどに----一言でいえば、カオスに----成長してしまうのだ。

 逆に、ひじょうに単純なシステムが、驚くほど豊かな挙動のパターンを生み出し得ることに研究者たちは気づきはじめた。
必要なのはほんのわずかの非線形性だった。
たとえば、弛んだ蛇口からポタン、ポタンと落ちる水滴。
漏れ方がゆっくりしているかぎり、それはメトロノームのように、気が狂うほど規則的だ。が、しばらくそんままにしたあと、わずかに漏れを増やしてやると、ポタン、ポタン、ポタンと、大小かわるがわるに滴が落ちる。またしばらくそのままにして、さらに漏れを増やすと、滴は4個連続で落ちるよになる。それから8個、16個などとなり、最終的に、滴の落ち方ひじょうに複雑になり、でたらめになる。
 ふたたびカオスである。
次第に複雑さを増していくこれと同じパターンは、黄色猩々蝿キイロショウジョウバエの個体数変動、液体の乱流など、多数の分野で見られる。

物理学者たちが狼狽したのはもっともなことだった。たしかに彼らは、量子力学とかブラックホールといったものに奇妙なことがつきまとっていることを知っていた。
だがニュートンの時代から300年間、物理学者たちは日常世界を、既知の法則に従う、基本的には整然とした予測可能なところ、と捉えていた。
 彼ら物理学者たちは、3世紀の間、いわば井の中の蛙のように、周囲のものを無視しながら暮らしてきたのだった。
「線形的近似にさよならした瞬間、その先航海するのはとてつもなく広い海だ」と、コーワンはいう。
 
たまたまロス・アラモスは非線形の研究にはうってつけといえる環境だった。
ロス・アラモス研究所は1950年代から計算機畑のリーダー的存在だったし、設立当初から非線形問題に取り組んでいたからだと、コーワンはいう。
 高エネルギー粒子物理学、流体力学、核融合エネルギー研究、熱核衝撃波など、なんでもやっていた。
そして70年代のはじめまでには、こうした非線形問題の大多数が同一の数学的構造を有しているという意味で、それらが本質的に同一の問題であることが明らかになった。
 だから、そうした問題を一緒に研究すればまちがいなく能率が上がるだろう、ということになった。
その結果、ロス・アラモスの理論グループの熱心な支援もあって、理論部門内に非線形科学のための精力的なプログラムが設置され、最終的には、完全独立運営の非線形システム・センターが設立された。

 しかし生物学もコンピュータ・シミュレーションも非線形の科学もそれぞれバラバラに興味をもたれていたから、まだようやく緒についたにすぎない。と、コーワンは思っていた。
 それは本能的感覚からだった。

彼はここに根源的統合があるはずだと感じた。
究極的には物理学と化学だけではなく、生物学、情報処理、経済学、政治科学、そして人間世界の諸事すべてを包含するよな統合である。
 彼が頭に描いたのは、ほとんど中世的ともいえる学識の概念だった。もしこの統合が本物なら、それは生物科学と物質科学をほとんど分け隔てない----科学、歴史、哲学を分け隔てない----知の手法になるだろうと、彼は思った。
 昔は「知の織物には継ぎ目がなかった」と、コーワンはいう。そしてもしかすると、ふたたびそんなふうになれるかもしれなかった。

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-09 09:00:00 | アルケ・ミスト
 だが複雑性に対する魅力はそれよりさらに深いものになっていったと、彼はいう。
部分的にはコンピュータ・シミュレーションにより、また部分的には新しい数学的洞察ゆえに、1980年代はじめまでに物理学者たちは、ごたごたした複雑なシステムの多くは「非線形力学」として知られる強力な理論によって説明できるのではないかと考えはじめていた。
 そしてそこへ至る過程で、彼らは、全体はその部分の総和よりも大きいことがあり得るという、狼狽するような事実に必然的に直面したのである。

 ほとんどの人間にとって、その事実はかなり明白なことのように思える。
それが物理学者たちを狼狽させたのは、300年間、彼らがもっぱら線形システムに夢中になっていたからにほかならない。というのは、線形システムにおいては、全体は正確にその部分の総和に〈等しい〉のだ。
 公平といえば、彼らにはそう考えるだけの理由がたくさんあった。
もしシステムが部分の総和に正確に等しいなら、各要素は、他で何が起きていようと、それ自身のことをしていればよいことになる。
 そしてそのために、すの数学が比較的分析しやすいものになる。(「線形」という名称は、もしそのような式をグラフ用紙にプロットすると、それが直線になっているという事実からきている)。
 その上、自然にはそのように振る舞うものがかなりたくさんある。

たとえば音は線形のシステムだ。
だから、弦楽器の上で奏でられるオーボエの音を聞き分けることもできるし、またその双方を認識することもできる。音の波どうしは混ざり合うが、それぞれのアイデンティティは保たれている。
光も線形のシステムだ。
だから、天気の日でも横断歩道の信号を見ることができる。信号機から出て目に飛び込もうとする光線が、途中で、上方から注ぐ太陽光線によって地面に叩きつけられたはしない。
 それぞれの光線はそれぞれ独自に振る舞い、まるでそこに何もないかのように、他の光線の中をまっすぐ通り抜ける。

小さな経済的作用因は独自に機能するという意味で、経済も線形のシステムだ。
たとえば、角のドラッグストアでだれが新聞を買ったとしても、スーパーマーケットでねり歯磨きを買おうという他人の決心になんら影響を及ぼすことはない。

 しかし、線形ではない自然が多くあるというのもまた事実だ。
そしてまた、そこにこそこの世で本当に興味深いものがほとんど含まれている。

 たとえば、人間の脳はけっして線形ではない。
オーボエの音と弦の音は耳に入るまでは独立しているかもしてないが、双方の音が一緒になったときの情緒的衝撃は、どちらか一つのときよりはるかに大きにちがいないが、双方の音が一緒になったときの情緒的衝撃は、どちらか一つのときよりはるかに大きいにちがいない(だからオーケストラが仕事ができる)。
 経済も本当は線形ではない。
何百万という人間の、買うか買うまいかの意思決定は、たがいに補強しあい、にわか好況や不況をもたらす。そしてそういった経済の風潮がフィードバックされ、その風潮を生み出した購買傾向そのものを定着させてしまう。

 じつは、きわめて単純な物理的システムを除き、事実上この世のすべてのものごと、すべての人間が、誘因と制約と結合の大きな非線形の網の中に捕らわれている。 

 ある場所のわずかの変化が他のすべての場所に振動を引き起こす。
T.S.エリオットがおおよそそんなことをいっていたように、われわれは宇宙をかき乱さずにはいられないのである。
 全体はほとんどいつも、部分の総和よりかなり大きい。
そしてそういう特性は数学的表現が〈非線形〉方程式であり、そのグラフは曲線になる。

 非線形方程式を手で解くのはとてつもなく困難である。
だからこそ科学者は長いあいだ非線形方程式を避けようとしてきた。しかしまただからこそ、そこにコンピュータが入ってきた。
 科学者たちは、1950年代と60年代にこういった機械をいじりはじめるとすぐ、コンピュータは線形であろうと非線形であろうと少しも気にしないことに気がついた。
 いずれに対しても解をひねり出してくれた。この事実につけこんで、コンピュータを非線形方程式にどんどん応用していくと、それまでの線形システムでは体験できなかったような、不思議な、そしてすばらしい振る舞いが見えはじめたのである。

 たとえば、浅い運河の表面に立つ波は、量子力学の場の理論の、ある精妙なダイナミックと深遠な関係を有することが明らかとになった。
どちらもsolitonソリトンと呼ばれる、孤立した自己充足的なエネルギー・パルスの例である。
 木星の大赤斑もソリトンの例であるかもしれない。
地球より大きな渦を巻いているこのハリケーンは、少なくとも400年間その状態を保っている。










みち草・・・・「複雑系」

2012-11-08 09:00:00 | アルケ・ミスト
じつに皮肉だが、彼らを刺激したものの一つはどうやら分子生物学だった。

 ロス・アラモスという兵器研究所が興味をもつとは、とても思えない学問分野である。だがじつは、物理学者は最初から分子生物学と深くかかわってきたのだ。
 この分野の先駆者の多くが、じつは物理学者として出発しているのだ。
彼らの考えを大きく変えたものの一つに、What is life?「生命とは何か」という薄い本がある。
 オーストリアの物理学者で量子力学の創始者の一人でもあるエルヴィン・シュレーデンガーが1944年に著した一連の刺激的な物理的・化学的生命論だ(シュレーデンガーはヒトラーから逃れ、戦時中はダブリンに蟄居していた)。
 
この本に刺激された一人が、フランシス・クリックだった。
彼は1953年にジェイムズ・ワトスンとともにDNAの分子構造を明らかにした。
 彼が使ったものは、その数十年前に物理学者が発達させたミクロ世界の解像技術の1種であるX線結晶学から得たデータだった。
クリックはもともと実験物理学者としての訓練を受けていたのだ。
またビッグバン宇宙創世論の提唱者の一人、ロシア生まれのGeorge Gamowジョージ・ガモフは、1950年代のはじめに遺伝子暗号に強い関心をもつようになり、多くの物理学者たちの目をこの分野に向けさせた。(⇒デルブリュック、ファインマンらとの理論研究)

 「この問題に関して私が最初に聞いた本当に洞察力のある講演は、ガモフのものだった」と、コーワンはいう。
 
 以来ずっとコーワンは分子生物学に惹かれてきた。
とくに、1970年代はじめにDNA組み替え技術が発見され、生物学者がほとんど分子レベルの生命形態を分析、操作する力を得てからは、そうだった。
だから、1978年にロス・アラモス研究部長になると、彼はすぐに中心的な研究の背後でこの分野の研究を支えた。
つまり、公には細胞の放射線損傷の研究だったが、実際にはロス・アラモス研究所をもっと広い領域の分子生物学にかかわらせようとしたのである。時期としては最高だったと、彼は回想する。

 ハロルド・アグニュー所長のもと、ロス・アラモス研究所は1970年代に規模がほぼ2倍になっていたし、以前よりずっと、分野横断的学問の基礎研究や応用研究に目を向けはじめていたからだ。
 コーワンの分子生物学への思い入れは、まさに時期を得たものだった。そしてその研究計画は研究所の多くの人間に、とりわけ彼自身に、計り知れない影響を与えた。

「ほとんどその定義からいって、物質科学は概念的優雅さと分析的単純さに特徴がある学問だ。だからやむを得ず、それ以外のものは避ける」と、コーワンはいう。
 実際物理学者たちは、社会学や心理学など、真の世界の複雑さに取り組もうとする『ソフトな』科学に、軽口をたたくことで悪名を馳せている。
だが、そこへ分子生物学が飛び込んできた。
 それは、深遠な原理に支配された信じられないほど複雑な生命のシステムについて説いていた。
「ひとたび生物学と手を組んでしまったら、優雅さとか単純さとかはいっていられない。もうめちゃくちゃ。そしてそこから経済学や社会の問題に入っていく方がずっとわかりやすい。部分的に水に漬かってしまったら、いそいで泳ぎはじめたほうがいい」

 だが科学者たちは、いまや考えようと思えば考えることができたので、どんどん複雑なシステムについて考えはじめていた。

数学の方程式を鉛筆と紙で解く場合、はたして変数をいくつまでなら扱えるだろうか。
三つ、それとも四つ?しかし強力なコンピュータがあれば、好きな数だけ変数を扱うことができる。
1980年代のはじめにはコンピュータはどこにでもあった。
パソコンがブームになっていた。科学者たちは画像処理ができる高性能のワークステーションを机の上に置きはじめていた。また大企業や国の研究機関は、キノコ栽培のように、スーパーコンピュータを増やしていった。
 突然、何兆という変数からなるとんでもない方程式が、もうそれほどとんでもないものには思えなくなった。
また蛇口からデータをがぶ飲みすることも、それほど不可能ではなく思えてきた。列をなす数字、長さ何マイルものデータテープ。
 それらを、穀物生産の、あるいは地下何マイルも深くに横たわる油床の、色分けした地図に変換することができるようになった。
「コンピュータはすごい簿記マシンだ」と、コーワンはいう。
 
しかしコンピュータはもっとすごいものになり得る。
うまくプログラムすれば、コンピュータは一個の自立した世界になる。そして科学者はその世界を探検することで、現実の世界に対する理解を大いに深めることができる。
 実際コンピュータ・シミュレーションは1980年代までにはかなり強力なものになっていたから、それを理論と実験の中間にある「第三の形態の科学」として語りはじめる者もいた。
 たとえば、降雨のコンピュータ・シュミレーション。
コンピュータの内側には、陽光、風、水蒸気を記述する方程式を除けば何も存在しないから、それは理論のようでもある。しかしその方程式はあまりに複雑で手では解けないから、それは実験のようでもある。
 こうして科学者たちは、コンピュータの画面上の降雨のシュミレーションを眺め、予想もしなかったようなパターンを自分たちがつくった方程式が生み出していくのを目の当たりにする。
 しごく単純な方程式でも、ときには驚くべき振る舞いをそこに生み出す。
じつは降雨の方程式が記述しているものは、大気の一吹きがその近辺をどのように押すかとか、水蒸気の粒がどのように凝縮したり蒸発したりするかといった小規模の出来であって、「雨滴が凍って雹になる上昇気流」とか「雲の底からほとばしり、地上に沿って広がる冷たい降雨」とか、ずばりそのものを記述しているわけではない。
 しかしコンピュータが先のような方程式を数マイルの空間、数時間の時に対して適用すると、まさにそういう振る舞いが生み出される。
さらに、この事実ゆえに、真の世界はけっして実験できないようなものを科学者たちはコンピュータを使って実験する。
 何がこの上昇流と下交流をもたらしているのか?
温度と湿度を変えるとそれらはどう変化するか?この降雨の力学にとってどの要素が本当に重要であり、どの要素は重要でないのか?同じ要素が他の降雨でも同じように重要か?といったことを。

 1980年代のはじめまでには、そのような数値実験はすでにほとんどありふれたものになっていた。
新型の航空機の挙動、ブラックホールの喉に吸い込まれていく星間ガスの乱流、ビッグバンの余韻の中での銀河形成。
 少なくとも物質科学者のあいだでは、コンピュータ・シミュレーションの概念はますます受け入れられるようになりつつあったと、コーワンはいう。
 「こうなると〈ひじょうに〉複雑なシステムに取り組めるのではないかと考えはじめるわけだ」


 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-07 09:00:00 | アルケ・ミスト
 と、まあそういう具合だった。
コーワンにとってその体験は悲しいものだった。
「こういったものは、科学、政治、経済、環境、さらには宗教や道徳までもが相互に関係する情況でのひじょうにじれったい問題だった」と、コーワンはいう。
 しかし彼は適切な助言を与えることはできないと感じていた。
いや、科学委員会のほかの学者たちも、格別うまくやっているようには思えなかった。できるわけはなかった。
 こうした問題は広範囲の専門知識を必要としていた。
だが、科学者にしろ官吏にしろ、彼らのほとんどはじっとスペシャリストとして過ごしてきたのだ。科学という組織的文化がそれを要求したからだ。

 「ノーベル賞への王道はこれまでたいてい還元主義手法だった」と、コーワンはいう。
還元主義手法とは、この世界を可能なかぎり小さく単純な断片に刻んでいくことである。
 「なにがしか理想化した問題設定に対して解を求めるわけだ。解が見つかるようにそうするわけだが、現実離れしているし、制約も相当大きい。そしてそれがさらなる科学の断片化をもたらす。現実の世界が要求しているものは----言葉は嫌いだが----もっとHolisticホリスティックなアプローチだ」すべてが互いに影響しあっているのだから関係の網を理解する必要がある、というわけだ。

 もっとずっと悲しいのは、若い世代の科学者にとって事態がひたすら悪化しているように思えることだった。
ロス・アラモス研究所にやってくる若い科学者たちを見ていると、驚くほど頭が切れ、エネルギーもあるが、つねに知的断片化を強いる文化にすっかり馴らされてしまっているようにみえた。
 政治的にはそうではないが、制度的には、大学は信じられないほど保守的なところだ。若い博士たちはあえて型を打ち破ろうとはしない。彼らは既存の研究部門で、10年の大半を、終身在職権を手にしようと死に物狂いでやらねばならないのだ。
 つまり、学部の終身在職権審査委員会が認めてくれるような研究をやっているほうがよいということだ。
さもなければ、こんなふうにいわれる。
 「ジョー、このところ君は向こうの生物学者たちと一生懸命研究しているが、それでも君はこっちの物理学のリーダーかね?」
一方、年配の研究者たちはすべての研究者たちはすべての研究時間を使い、死に物狂いで研究所助成金を手に入れようとする。
 つまり彼らとしては、助成金を支給する機関が認めてくれるような範疇に研究計画を押し込めたほうがよいということである。さもなければ、こんなふにいわれる。
 「ジョー、これはなかなかのアイデアだ。だが残念ながら、われわれの学部とは関係がないね」そしてだれもが伝統的な学会誌----それらはほとんどいつも、認められている分野の論文ばかりに目を向けている----に論文が受理されるようにと、必死なのだ。

 こうやって数年が過ぎるとその狭い視野はすっかり本能的なものになり、もはや視野の狭さに気づかなくなると、コーワンはいう。
彼の経験では、ロス・アラモス研究所のどんな研究員であれ、彼らがアカデミックな世界に近づくほど、彼らをチームワークから必要な研究に参加させることが難しくなったという。
 「私は30年間そのことと闘ってきた」と、ため息をつく。

 だがそのことを考えているうちに、もっと悲しむべきことは、この断片化のプロセスが科学全体になしてきたことではないかと感じはじめた。
 伝統的な学問分野はあまりにも堅固になり、あまりにも他から孤立してしまい、窒息しかかっているように思えた。眺めればいたるところに豊かな科学的チャンスがあるというのに、それを無視する科学者ばかりのようだった。

 もし例が必要だというなら、いま浮上しつつあるチャンスはどうか、そうコーワンは思った。それに対するうまい名称をもちあわせていなかったが、もしロス・アラモスで目にしてきたことが何かの兆候であるとするなら、それは、何か大きなものが熟しているということではないかと思った。
 過去十年、彼が強く感じはじめていたのは、還元主義的手法が袋小路に入つつあり、硬派の自然科学者の中にさえ、この世界の真の複雑さを無視した数学的抽象にうんざりしはじめている者がでてきているということだった。
 彼らは半ば意識的に新しい手法を模索しつつあるようだったし、またその過程で、伝統的な境界を懐かしはじめているのではないかと彼は思った。
何十年、いやたぶん何百年、彼らがやったことのないやり方で。


ひとこと!
 言葉は嫌いだが・・・とコーワンが、Holisticを使わざるを得なかったその心うちは察するにあまりある。
そのような局面で生まれ出るのが言葉,つまり造語であろう。

そのヒントは身近にあるように思われます。
先の文献を引用すれば、「全体」、「関連」、「つながり」、「バランス」といった意味をすべて包含した言葉として解釈されていますが、的確な訳語がないため、そのまま「ホリスティック」という言葉が使われています。
しかし、意味する内容は決して新しく輸入された考えではなく、もともと東洋に根づいていた包括的な考え方に近いものといえます云々


それが、わたしの『健膠』です。


みち草・・・・「複雑系」

2012-11-06 09:00:00 | アルケ・ミスト
 その上コーワンはロス・アラモス研究所でますます管理的な責任を負う立場へと追いやられつつあったから、科学のための時間などほとんどなかった。
 チームリーダーをしていたときは、週末に自分自身の実験をする始末だった。
「だから私にはしごく平凡な科学的経歴しかない」と、ちょっと悲しげにいう」

しかし力と責任という問題は頭から離れなかった。
そして1982年、ロス・アラモス研究部長を辞しホワイトハウスの科学委員会の席を受けると、その問題が手に負えないほど大きくなって戻ってきた。
 第二のチャンスが見えはじめていたというときに。

 ホワイトハウスの委員会での体験は、なぜ1946年に研究者たちがこぞってそれぞれの研究所に戻ってしまったかをありありと思い起こさるものだった。
 コーワンら委員たちが席に座り、ワシントンのニュー・イグゼクテイブ・オフィス・ビルディングの会議テーブルを、謹厳な科学者の一団がぐるりと囲む。
 それから、大統領の科学顧問のジョージ・ジェイ・キーワースⅡ世----前年このポストに指名されるまで、ロス・アラモスでコーワンの下で研究に励んでいた部の若いリーダーだった----が、委員の意見を求めて問題を提示していく。
 しかしいつもコーワンは、何をいったらいいのか、からきし糸口が見えなかった。

 「エイズは当時まだ騒ぎになっていなかったが、それでも警戒感はあった。それは毎回議題に上っていた。しかし正直いって、どう答えたらいいのか大いに困った」
 それは公衆衛生の問題?道徳の問題?それとも?答えは当時少しも明らかではなかった。

 「有人宇宙飛行かそれとも無人宇宙探査機か、という問題もあった。議会は、有人コンポーネントをもたない無人宇宙計画には1銭も投じるつもりはない、ということだったが、私にはそれが正しいのか正しくないのかわからなかった。それは科学の問題というよりも政治の問題だった」

 またレーガン大統領の「スターウォーズ」戦略防衛構想、つまり、大量核ミサイル攻撃から国を守るための宇宙防衛というのもあった。それは技術的に実行可能なのか?国を破産させずにやれるのか?たとえ可能だとしても賢明なことなのか?それにより力の均衡が不安定になり、世界を別の破壊的軍備競争へと陥れることはないか?

 原子力はどうか?化石燃料の燃焼による地球温暖化という問題が現実味を帯びてくる中で、原子炉のメルトダウンのリスクと核廃棄物処理の難しさをどうバランスさせるのか?

備考記事
 福島第一原子力発電所事故
 11日19時30分に1号機の燃料は蒸発による水位低下で全露出して炉心溶融が始まり、所内での直流小電源融通で動かしていた非常用復水器も翌12日1時48分に機能停止、翌12日明方6時頃には全燃料がメルトダウンに至ったとみられる。
 1号機は上記の経緯で、地震発生後5時間で燃料が露出したとみられ、15時間ほどでメルトダウンしたと思われる。2012年7月5日に提出された東京電力福島原子力発電所事故調査委員会報告書では、少なくとも1号機A系の非常用交流電源喪失は、津波によるものではない可能性があることが判明した、としている。


みち草・・・「複雑系」

2012-11-05 09:00:00 | Tyndallナノ
 コーワンは30歳だった。
はじめは政府高官たちは、化学者が検出した放射性降下物は、それが一見して意味していることをかならずしも意味するものではない、と考えていた。
なぜなら、政府高官たちは、スターリンが原爆をもてるようになるまであと数年はかかることを知っていたからだ。ソ連で原子炉の爆発が起きたにちがいない、と彼らは思った。
 
「だが、放射化学のいいところは、何が起きていたかを正確に知ることができることだ」と、コーワンはいう。
炉の中で産み出された放射性アイソトープの組成は、原爆の爆発によって生じるそれとは大きく異なる。
 「彼らにに信じてもらうにはいろいろ議論しなければならなかった」だがついに、分別あるベテラン高官たちは、そのゆるぎない証拠を受け入れざるを得なかった。
このソ連の原爆には、ジョーゼフ(ヨシフ)・スターリンに敬意を表し、「ジョー1号」というあだ名が付された。

 ⇒スターリンと原爆〈上〉 [単行本] 書評;・・・ソ連の科学者のレベルが、非常に高いということクルチャートフ、ハリトーン、サハロフといったキラ星のごとくの科学者が、ソ連のスパイによるアメリカ側の核開発情報に基づき、第二次世界大戦と戦後の困難な状況のなかで、スターリンという強大な独裁権力の力によって原子爆弾開発を成功させたのである。・・・



 だから、ない、核兵器研究に対する弁解などない、とコーワンはいう。
だが彼には、当時のことに関して一つだけ大きな後悔がある。

科学界がやったことに対する責任を科学界が集団で放棄した、という思いである。いや、もちろん、即時にできなかったし、完全にでもなかった。

1945年、Manhattan Projectマンハッタン計画に関与していたシカゴの科学者数人が、原爆は日本ではなく無人島で実証されるべきであるとする請願書を出した。
その後、原爆が広島と長崎に投下され、戦争が終結すると、計画に参加した多くの科学者が政治的な活動グループをつくり、軍によってではなく文民管理によって、厳格に核兵器を管理するよう圧力をかけた。

 原爆というこの新しい力がもつ社会的、政治的意味を扱った雑誌「ブレテイン・オブ・アトミック・サイエンティスト」が刊行されたり、コーワンがメンバーになっていた「原子科学者連合」(今日の「アメリカ科学者連合」)のような活動組織が形成されたのも、そういった時期だった。
 
「ワシントンに出向いた元マンハッタン計画の科学者たちの発言はとても注意深く聞き入れられた」と、コーワンはいう。
「原爆投下後の1940年代には、物理学者たちは奇跡の研究者としてあがめられた。彼らはマクマーン法(原子力法)の草案作成に大いに関与し、その法によってアメリカ原子力委員会が生まれ、原子力エネルギーが文民統制下に置かれたのだ」

 「が、そうした努力は思ったほど完全には科学者たちには支持されていなかった」と、コーワンはいう。
そして1946年6月にマクマーン法が通過すると、科学者の活動は大半姿を消した。
たぶん必然的なことだったろうと、彼はいう。科学の世界は政治の世界とはうまく融合しない。

 「科学者としてワシントンに出向く科学者たちは、だいたい金切り声を無視する。それは彼らにまったく馴染まないことだ。彼らは論理や科学的事実に基づいて政策がつくられるべきだと思っているし、そしてそれはたぶん叶えられない望みだろう」

 だが理由が何であれ、研究者たちは喜んで研究に戻り、戦争は将軍に、政治は政治家に任せてしまった。
そしてそうすうるちに、彼らはもの二度ともてぬかもしれぬ接触のチャンスと影響力を吹き飛ばしてしまったと、コーワンはいう。

 コーワンはこの告発から彼自身を除外してはいないが、彼はほとんどの科学者よりも長く運動にとどまっていた。
たとえば1954年に彼はロス・アラモス科学者連合の代表になり、ウィスコンシン州出身の上院議員がアメリカは共産主義にむしばまれていると人々を煽っていたあのマッカーシー騒動の最中に、アメリカ原子力委員会委員長ルイス・ストラウスに面会した。コーワンらは、反共主義者の魔女狩りに抗議するとともに、情報のさらなる自由と研究所の秘密主義撤廃の陳述をした。

また彼らは----あまり成功しなかったが----元マンハッタン計画指導者、J・ロバート・オッペンハイマーを弁護しようとした。
当時オッペンハイマーは、1930年代に共産党の会合に出席したと目される何人かの人物と通じていた可能性があるという理由で、国家機密に対する人物証明を剥奪されつつあった。

 一方、ひきつづきベーテ委員会の仕事をしていたコーワンは----彼はそれを30年ほどやった----ワシントンとはなんと単純なところかと思い知るようになった。

 第二次世界大戦の余波の中で、アメリカは戦前の孤立主義政策を改め、軍事こそ重要であるとはっきり認識するようになった。
だがその教訓を学んでからというもの、役人たちはほとんどみなそれ以外のことにまったく気をとめなくなってしまった。
 「弱みを握るんだ」というのが、彼らの考えだった。当時私が思っていたのは、力というのはオーケストラみたいなものだということ。だがコントラバスしか弾けない人間ばかりだった」

 ソ連の方がワシントンより力の複雑な調和をずっとよく理解している、とコーワンは悶々としていた。
「ソ連は力の知的な側面に、力の感情的あるいはイデオロギー的側面に、大きな注意を払っているようだった。そして当時私は、ソ連は力の科学的側面にも大きな注意を払っていると思っていた。われわれには彼らが大きく見えたが、いまになってみるとそうではなかった。だが私はロシア的なやり方とわれわれのやり方の違いについて考えていた。彼らは、いってみれば、いろんな動き方のある大きなチェス・ゲームをやっているが、われわれはもっと一次元的なゲームをやっているんじゃないか、と」

 当時でさえ彼は、ここに科学者が責任をもつもう一つの分野があるのではないかと考えていた。
「それは私の頭の中でいまのようにはっきりしたものではなかったが、科学者は戦後の世界の特質をより一般化して見うる立場にあるのではないかと感じていた」だが事実はそうではなかった。
 それに肝心の彼自身、そうではなかった。とにかく時間がなかった。

ソ連が1949年にジョー1号を爆発させたことを知るや、ロス・アラモス研究所はhydrogen bomb水爆というより強力な熱核兵器の設計に猛スピードで取り組みはじめた。
ついで、1952年の秋に最初の水爆実験をおこなうと、ロス・アラモス研究所は小型で軽量、そして信頼性があって扱いやすいものをつくることに全力を傾注した。
 それは朝鮮半島やヨーロッパの継続的な対立を背景におこなわれた。
「核兵器が力のバランスをくつがえすという恐怖感があったから、それは途方もなく重要な使命だった」と、コーワンはいう。



Cold War
1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。

みち草・・・ 「複雑系」

2012-11-02 09:00:00 | アルケ・ミスト
 1942年から終戦まで、彼はシカゴ大学の金属研究所で研究にあたった。
そこではイタリアの物理学者エンリコ・フェルミが最初の原子「炉」----連鎖反応が制御できることを証明するためにウランと黒鉛ブロックを積み上げたもの----の建設の指導にあったていた。

 その研究チームの新参研究員だったコーワンは、いわばなんでも屋になり、ウラン金属の鋳造成型、炉の反応率を制御する黒鉛ブロックの機械加工など、必要なことはなんでもやった。
だが1942年12月にフェルミの原子炉が首尾よく臨界に達したころには、コーワンはそこでの経験により、マンハッタン計画の放射性元素化学の専門家の1人になっていた。
 そして計画の管理者たちは、彼をたとえばテネシー州オークリッジなどに派遣しはじめた。
オークリッジでは、急遽建設された原子炉施設の研究者たちに手を貸し、どの程度のプルトニウムが生成されているかを調べた。
 「私が独り者だったので、アメリカじゅういろんな所にいかされた」と、彼はいう。「何かが故障すると、その修理に派遣される候補の一人だった」
 じつをいえばコーワンは、いろいろな計画部署を往き来することを許されていた特別選抜グループの一員だった。
マンハッタン計画は、秘密保持のため、しっかりと部署を分散していたのである。
 「どうして私が信用されたのかわからない」と、彼は笑う。「ほかの人間と同じように酒を飲んでいたしね」
 彼はいまも当時の記念の品をもっている。

シカゴ人事局がウスターの徴兵委員会へ宛てた手紙だ。
手紙にはこう記されている----ミスター・コーワンは戦争遂行のための活動にとって類のない技能を有している、大統領みずからの手で徴兵猶予が与えられている、だから〈なにぶんにも〉彼を甲種合格として再徴兵せぬよう配慮願いたし、と。

戦争が終わると、科学者たちのヒトラーとの死に物狂いの闘いは、ロシアとの不安に苛まれる闘いへと変じていった。
おそろしくいやな時代だったと、コーワンはいう。
 スターリンによる東ヨーロッパ支配、ベルリンの壁、そして朝鮮半島。冷戦はすぐにでも熱い戦争になるように思えた。
ソ連が自力で核開発に取り組んでいることが知られていたからだ。
 不安定な力のバランスを維持し、また民主主義と自由を守る唯一の方法は、おのれの側の核兵器の能力を高めていくことだった。

物理・化学の博士号を取るためにピッツバーグのカーネギー工科大学で三年の時間をかけたあと、1949年6月にロス・アラモスへとコーワンを舞い戻らせたものは、そうした危機感だった。
しかしそれは自動的な選択ではなかった。
熟慮し、自己分析したあとの決断だった。そしてその決断はほとんどすぐに強化されることになった。

コーワンは当時を振り返っていう。
着いてから一、二週間して、放射化学研究所の所長がコーワンのところにきて、ひそかに、そして遠まわしに、新しい研究所は絶対に放射能に汚染されていないか、と訊いた。
ええ、と答えると、コーワンと研究施設が、最優先、最高機密の分析のために、ただちに徴用された。
 
大気資料が届いたのはまさにその日の夜だった。
彼はその資料がどこから持ち込まれたのかを知らされていなかったが、それがロシアの国境付近のどこかで採取されたものであることは推測できた。そして彼と同僚たちが放射性降下物に対する確かな証拠を検出するや、もう噂ではなくなった。
ソビエトが自前の原子爆弾を爆発させたのだ。

「それで私はとうとうワシントンの例の委員会に入ることになった。とても極秘の」と、コーワンはいう。
それはベーテ委員会----初代議長がコーネル大学の物理学者Hans Albrecht Betheハンス・ベーテだった----として実体を伏せて知らされていたが、じつはソ連の核兵器開発を追うために招集された核科学者の集まりだった。



関連事項
京都に原爆を投下せよ―ウォーナー伝説の真実 吉田 守男 (1995/8)

内容(「BOOK」データベースより)
 第2次大戦下、100万都市京都が「無傷」でのこった。
それは文化財ゆたかな古都だから(ウォーナー伝説)ではない。
 それどころか―投下第1目標は京都だった。「原爆」と「ジェノサイド爆撃」の間で翻弄された京都。「平穏な京都」の裏でたたかわされたアメリカの軍・政府内の葛藤を活写する。

最も参考になったカスタマーレビュー
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5つ星のうち 5.0 京都に空襲がなかった理由は? 2003/8/9
By カスタマー
形式:単行本 京都で生まれ育った僕は、太平洋戦争で京都に空襲がないことについて、「文化財が豊富な古都であるため、アメリカさんが遠慮しはったんや。」と聞かされていた。
 ゆえに、この本のタイトルを見た時は、驚いた。 
京都は、原爆投下目標の第1位にランクされた都市であったため、(一部地域を除いて)空襲を免れていたのだ!政治的な駆け引きもあり、原爆は京都に投下されず、広島・長崎に投下された。
 が、アメリカ軍部の一部は京都を投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。
そこで、戦争が終結するのである。もしも、1945年8月15日に終戦しなかったら・・・。
 また、この書籍は京都以外も奈良・鎌倉等の都市が空襲を免れた理由やアメリカ合衆国が日本空襲をどのような計画で実施したのか、ウォーナー伝説の虚実、空襲におびえる日本国民の心理等が、史料等に基づいて詳細に説明されており、読みごたえのある内容となっている。
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人種偏見―太平洋戦争に見る日米摩擦の底流 [単行本]

商品説明
ダワーがこの『War without Mercy』を著した際の前提とは驚くべき内容である。
すなわち、第二次世界大戦において西欧の連合軍が勝利を目指していたのは確かだが、太平洋を舞台にした最後の1年間は、純粋な人種差別主義によって敵意が持続したばかりかさらに増幅されたというのである。
 実際に、この期間には紛争勃発からの最初の5年間と同数もの犠牲者が出ている。ダワーはこの憂慮すべき結論に、確固とした根拠もなしに到達したのではない。
 宣伝用フィルム、報道記事、軍部の書類、宣伝用漫画、更には学術誌へ寄稿された論文までも、しらみつぶしに調査した上で本書を執筆している。
 著者の主張は強い説得力で迫ってくるが、西欧列強と日本政府との間の長期に及ぶ交渉など、その他の要因については最小限の言及にとどめられている。(Amazon.com)

みち草・・・「複雑系」

2012-11-01 09:00:00 | アルケ・ミスト
 じつはアーサーだけがサンタフェ研究所に戸惑ったわけではなかった。
だれにとってもはじめはいつもちょっとしたショックだった。
 そこではいっさいの固定観念が打ち破られていた。
そこには、特権や名声やノーベル賞を手にした年配の学者たち----などというと、現状に独善的に満足しているような学者連を想像してしまいそうだが----がつくった団体があった。
 彼らは、自称「科学革命」を促進する舞台として、そこを使っていた。

 そこは研究施設があって、かつての核兵器の秘密基地、あのロス・アラモス研究所出身の生粋の物理学者やコンピュータの達人がうようよしていた。
 だが廊下は、「複雑性」という新しい科学についての活発な話題であふれていた。
その科学はいわば「大統一全体論」であり、一方は進化生物学から他方は政治、歴史といったファジーなものまで、全領域を相手にしていた。
 もちろん、われわれがもっと持続可能な、そしてもっと平和な世界を建設できるように、ということである。

 要するに、ここに絶対的なパラドックスがあった。
というのは、たとえばこのサンタフェ研究所をビジネスの世界に置いて考えるなら、その図式はちょうど、IBMの研究所の所長が会社を去り、自宅の車庫でニューエイジ風の小さなカウセリング会社を創業し、ゼロックスやGMの会長に仲間に加わるように呼びかけているようなものだったからだ。

 サンタフェ研究所をいっそう際立たせているのは、この図式の中の創業者----もとロス・アラモス研究所の研究部長、ジョージ・A・コーワン----が、どう見てもニューエイジ的ではないということだった。
 齢は67歳、ソフトな語り口の控えめな人物で、見ようによっては、マザー・テレサがゴルフシャツの上にボタンをはずしたカーディガンを掛けているようだった。
 彼はカリスマ性とは無縁だった。
どんな集まりでも、たいてい端のほうで耳を傾けていた。またけっして人を高揚させるようなレトリックでなる人物でもなかった。
 彼に、なぜ研究所を組織したのか、などと尋ねようものなら、だれもが、21世紀の科学の姿とか、科学的好機をとらえることの必要性、といった高邁な議論----「サイエンス」誌のまじめな特別論説としてそのまま使えそうなもの----につきあうはめになった。

 実際、コーワンが内に燃えるような決意を秘めた人物であることを聞き手が理解しはじめるまでには、かなりの時間がいるだろう。
彼はサンタフェ研究所がパラドックスだとは少しも思っていなかった。
 サンタフェ研究所は一つの目的を具現化するところであり、その目的は、ジョージ・A・コーワンより、ロス・アラモスより、ロス・アラモスがもたらしたすべての出来事より、さらに研究所それ自体より、ずっと重要であると彼はみていた。
 もし今回事がうまく運ばなければ、そのときは20年先にだれかが最初からやり直さなければなるまい、彼は何度となくそういった。
コーワンにとってサンタフェ研究所は伝道団だった。コーワンにとって、それは科学全体が一種の贖罪ないし再生を成しとげる機会だった。

 いまとなっては遠い昔のように思えるが、理想に燃える若い科学者がより良き世界のためにと核兵器の創造に身を捧げたとしても、なんの不思議もない時代があった。
 ジョージ・コーワンはそのような献身を少しも後悔してはいない。
「ずっと考えつづけてきた」と、彼はいう。
 「でも道徳的には後悔していないかって?いや。たとえば核兵器がなかったとしても、生物兵器や化学兵器で、もっとずっと破壊的な道をあゆんでいたかもしれない。過去50年の歴史は、1940年代というものがなかったとした場合より、ずっと人類に優しいものだと思う」
 
 実際、当時核兵器の研究はほとんど1種の道徳的至上命令だったと彼はいう。
もちろん大戦中コーワンと同僚科学者たちは、ナチス・ドイツとの死に物狂いの闘いの中にあった。
 ナチスは、依然として世界でもっとも優れた物理学者を何人か抱えており、後で誤りであることがわかったものの、原子爆弾の設計で先んじていると思われていた。
 「われわれがうまくやらなければ、ヒトラーが原爆を手にする。そうなったら最後、そういう情況だった」

 じつはマンハッタン計画が存在する前から、コーワンは原子爆弾の開発に心を奪われていた。
1941年秋、故郷マサチューセッツ州ウスターのウスター工科大学化学科を卒業したばかりの21歳のとき、彼はプリンストン大学のサイクロトロン計画に参加した。
 そこでは物理学者たちが、新しく発見された核分裂過程とウラン235として知られるアイソトープの核分裂効果について研究していた。
彼の意図は、併せて物理学の修士課程を専攻することだったが、1941年12月7日、研究所が突然週7日の研究態勢に入ったその日から、まったく見通しが立たなくなった。
 当時でさえ、ドイツは原子爆弾の開発に取り組んでいると恐れられていたから、物理学者たちはそのようなものが本当に可能かどうかを知ろうと躍起になっていたという。
 「われわれがやっていた測定は、ウランで連鎖反応を実現できるのか否かを判断するのに絶対不可欠なものだった」と、コーワンはいう。
答えはイエスだった。
 だから連邦政府は、コーワンが軍の任務につくことを大いに必要としたのである。
「化学と核物理学というあの特別な組み合わせによって、私は原爆開発計画に必要ないくつかの問題の専門家になった」



 他方で、ユング「千の太陽よりも明るく」の記述は興味深い。
1940年6月末前は、原子研究のためには1銭も国家から支出は望めなかった。それどころか、この「見込みのない計画」に対する批判の声はどんどん高まっていった。
1940年3月7日付けの2回目のアインシュタイン書信は、「戦争開始以来のドイツにおけるウランへの関心の強まり」を指摘したものだったが、これとてほとんど役に立たなかった。
 ようやくイギリスの原子研究が立派な進歩を見せているという報告がアメリカに入るにおよんで、政府筋の関心も再び活発になって来た。
すなわち1941年7月のトムソン委員会の覚書がイギリスの研究にもとづいて、「原子爆弾が戦争終結前に製造され得る見こみがかなり有望になっている」ことを確認したのである。
 こうしてついに1941年12月6日、奇しくも日本がパールハーバーを攻撃し、アメリカが公式に参戦した日の前日、原子兵器の製造のために真剣な財政的および技術的努力をするという、永年ためらって来た決定がなされるにいたったのであうる。


 1941年、ほんの数週間前にドイツから逃亡して来た化学者ライヘが、プリンストンに着いて、ドイツの物理学者たちは今までのところ原爆の研究をやらなかったし、またドイツの軍部当局をこのような可能性から眼をそらすように今後もできるだけ努力するだろうと報告した。

ところが、不確定性―ハイゼンベルクの科学と生涯 [単行本]
ではなかったかと思われるが、あのボーア夫妻との有名な場面がある。それが1941年の9月頃のことであったはず。

 つまり彼、ハイゼンベルグの眼に原子爆弾(製造)への見通しを得たのはこの頃であった。
そして、ドイツ教養主義市民自覚のなせる性であろうか、その事の道徳、倫理問題を師に尋ねたのだが、ボーアの妻マーガレットは「誰がなんと言おうとも、これは敵の訪問でした」との結末と相成った。
 2人の友情は、再び元へと復することはなかったのだ。

 しかしチャドウィックの証言によれば、2年後になってもボーアは軍事的可能性はないものと信じていた。
のみならずその後の彼の軌跡に見るように、ハイゼンベルグを信じていた節を見て取れる。

内容(「BOOK」データベースより)
アメリカ物理学会賞受賞!量子力学を確立した20世紀物理学の巨星の波乱の生涯と科学の真髄を描きつくす。