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みち草・・・・「複雑系」

2012-11-20 09:00:00 | アルケ・ミスト
このワークショップの会場になったサンタフェの考古学センター、スクール・フォア・アメリカン・リサーチのダグラス・シュウオーツは、いまや考古学は他の分野との相互作用をとくに必要としている学問だとして、つぎのようにいった。

この分野の研究者は三つの基本的な謎をつきつけられている。
第1は、霊長類はいつ複雑な言語や文化をはじめとする人間性をかくとくしたのか?
 約数百万年前、直立猿人が出現したときか、それともほんの2、3万年前、Homo neanderthalensisネアンデルタール人が完全に現代的な人間、ホモ・サピエンス・サピエンスに道を譲ったときか?
 いずれであれ、どうして変化がもたらされたのか?数百万の種がわれわれの脳ほど大きな脳をもたずにうまくやってきた。なぜわれわれの種は別だったのか?

⇒2010年5月7日サイエンスには同じくマックス・プランク進化人類学研究所などによって、アフリカを出たホモ・サピエンスが10万~5万年前の間に中東でネアンデルタール人と混血していたという論文が収載された[2]。

第2に、なぜ遊牧的な狩猟と採集生活が農業と定住に取って代わられたのか?
第3は、どんな力が働いて、技術の分化、エリートの誕生、経済や宗教のような要素に基づく権力の出現、といった文化的複雑性が生み出されたのか?

 アメリカ南西部のアナサジ文化の盛衰が残した考古学的遺跡は、あとの二つの問題に対する格好の野外研究所となっているが、これらの謎はどれ一つとしていまだに真の答えを見出していないと、シュウオーツはいった。

備考
Basket Maker1927年に、ニューメキシコ州のサンタフェ付近にあるペコス(Pecos)遺跡に関するアメリカ南西部の考古学に関する研究大会で、アメリカでもっとも偉大な考古学者の一人アルフレッド・ヴィンセント・キダーが、バスケット・メーカー文化をI期からIII期、プエブロ文化をI期からIV期に区分する編年の枠組みを提唱し(ペーコス分類)、現在も使われている。

 答えを見出す唯一の望みは、考古学者と他の分野の専門家がこれまで以上に十分な協力態勢を確立することになると、彼は感じていた。
考古学のフィールドワーカーたちは、古代の気象やエコシステムの変化を再構築するうえで、物理学者、化学者、地質学者、古生物学者らからの豊富な情報を必要としているが、またそれ以上にに、古代の人間がどんな動機につき動かされていたかを理解するために、歴史家、経済学者、社会学者、人類学者からの情報も必要としていると、彼はいった。

 そういった議論に大いに共鳴したのは、シカゴ大学の考古学者で、わずか数週間前にスミソニアン研究所の長官に就任したばかりの、ロバート・マコーマック・アダムズだった。
少なくとも過去十年間、文明の発展に対する人類学者の漸進主義的アプローチにますます我慢ができなくなってきたと、彼はいった。

 メソポタミアに出かけて発掘していたとき、そういった古代文明がカオス的な変動と激変を体験しているのを知り、次第に、文明の盛衰は一種の自己組織化現象であって、人間は環境に対する認識の変化に応じてしかるべきときにしかるべき文化的オルタナティブを選択しているのではないかと考えるようになったと、彼はいった。

 この自己組織化の話題をまったく異なった形で取り上げたのは、複雑性の現象をもっと根源的なレベルで研究しょうとしていたイギリス出身の25歳の鬼才、プリンストン高等学術研究所のステイーブン・ウルフラムだった。
 事実、彼はイリノイ大学に複雑系研究センターを設立すべく、すでに大学と交渉していた。彼はつぎのようにいった。

 物理学や生物学におけるひじょうに複雑なシステムを調べてみると、たいていの場合、その基本構成物と基本法則はきわめて単純である。
つまり複雑性は、こういった単純な多数の構成物が同時に相互作用することことから生まれている。複雑性とは組織化----システムの構成物が相互作用する無数の可能な状態----の中にある、と。

 ウルフラムは、最近彼を含めた多くの理論家たちがセル・オートマトンというのは、プロセスグラマーが定めた法則に従ってコンピュータの画面にパターンを発生させるコンピュータ・プログラムである。セル・オートマトンには厳密に定義されているという長所があるので、結果を詳細に解析することができる。にもかかわらずセル・オートマトンは変化が豊かで、きわめて単純な法則から驚くほどダイナミックで複雑なパターンが生まれる。

 理論家たちの挑戦はいつどのよにして自然界にそのような複雑性が出現するかを記述する普遍的法則を定式化することであり、答えはまだ得られていないが自分は楽天的に考えていると、彼はいった。
 が、彼はこう付け加えた。この研究所をどのようにするにしても、研究者一人ひとりが高水準のコンピュータを与えられるべきである。コンピュータは複雑性の研究の必要不可欠の道具である、と。



 

 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-19 09:00:00 | アルケ・ミスト
 ワークショップを組織するのは容易なことではなかった。
とはいっても基金探しはさほどでもなかった。

ゲルマンがコネを使いカーネギー財団から2万5千ドルをかき集めていたし、IBMが1万ドルを寄付してくれた。
さらにコーワンがマッカーサー財団からやはり2万5千ドルを貰っていたからだ(ゲルマンはマーカーサー財団の理事だったが、自分自身に要請するというのは良くないと考えた)。

 もっと困難なのは、だれを招待するかだった。
「問題は、招待者たちが相互に議論してもらい、分野間の境界で起きていることに関して互いに刺激し合ってもらえるか、そしてまた、この種のことを真に育てていくような組織をはたしてわれわれがつくれるか、だった」と、コーワンはいう。そうした会合が相互無理解に陥り、みんなが勝手に話すような事態は十分考えられることだった。----たとえ、退屈のあまり外に出てしまうということはないにしても、そうならないための唯一の方策は、しかるべき質をもった人間を招待することだった。

「われわれは世捨て人のような人間、本を書くために研究室に閉じこもってしまうような人間は欲しなかった。われわれが必要としてのはコミュニケーションであり、興奮であり、相互の知的な刺激だった」と、コーワンはいう。

 とくに必要としてのは、ある確立された分野で真の専門技術と独創性を発揮していながら、新しいアイデアに対してオープンな人間だったと、彼はいう。
 しかしそれは、名のある科学者においてさえ(いや、名のある科学者だからこそかもしれぬが)、絶望的なほどまれな組み合わせだった。
ゲルマンがそういう人間を何人か推薦した。
 「彼には知力を見抜く優れた力があるし、いろんな人間を知っている」と、コーワンはいう。
ハーブ・アンダースンが、そしてパインズとフィル・アンダースンが、それぞれ何人かを推薦した。
 「フィルにはすごいセンスがある。彼は嘘臭いと思った人間には徹底的に反対する」と、コーワンはいう。
十分に広い分野の人間を揃えるために、一夏かけてアメリカじゅうに電話をかけたりブレーンストーミングをやったりしたという。そして結局、そうやって出来上がったものは、物理学者から人類学者、臨床心理学者までの「驚くべき人物リスト」だった。

 もちろん、それらの人間が一堂に会すると何が起こるかは、コーワンにも、他の者にも、皆目見当がつかなかった。
じつをいえば、どうやっても彼ら全員を一堂に集められないことが明らかになった。
 招待者のスケジュール調整のため、やむなくパインズはワークショップを1984年の10月6~7日と11月10~11日の2度の週末に分けておこなうことにした。しかしコーワンの回想によれば、少なくともしばらくは、この分断縮小されたグループでさえ船出はごたごたした。
 
 ゲルマンの45分間の演説で10月6日の会議がはじまった。
演題は「研究所の概念」。
 それは基本的に、前年のクリスマスに彼が上級特別研究員たちにぶちあげた「新しい統合」の拡大版だった。ついで、その概念をいかにして現実的な科学活動と研究所に変えていくかに関する長時間の議論に入った。
 「ちょっとした言い争いがあったよ」と、コーワンはいう。どうすればみなが同じ土俵で話せるか、はじめはまったく見えてこなかった。

 たとえば、シカゴ大学の神経科学者ジャック・コーワン(ジョージ・コーワンとは無関係)は、分子生物学者や神経科学者が手にしている人間の細胞や分子に関する莫大な量のデータを意味あるものとするために、いまや彼らはもっと理論的考察に目を向けはじめるべきだと主張した。
 するとただちに、細胞や生体分子は無秩序の進化の産物であって理論では大したことはできない、と反論を受けた。だがジャック・コーワンは以前からそうした議論を耳にしていたから、退かなかった。
 そしてpeyoteペヨーテやLSDが引き起こす幻覚を例にあげた。そういう幻覚は格子、螺旋、じょうごなど、さまざまなパターンを伴うが、そのいずれも、脳の視覚皮質で起きている電気的な活動の線形波として説明することが可能であり、またその波は物理学者が使っている数学的な場の理論でモデル化することが可能ではないかと、彼はいった。



みち草・・・・「複雑系」

2012-11-18 09:00:00 | アルケ・ミスト
 あとは化学の問題だ----このナンセンスは規模と複雑さという二つの浅瀬にのりあげて崩壊すると、彼はいう。

 たとえば水。
水の分子それ自体は少しも複雑ではない。大きな酸素原子一個に、ミッキーマウスの耳のように小さな水素原子二個がついているだけだ。
 この分子の振る舞いは、原子物理学のよく理解された式に支配されている。だがそういう分子何兆個をポットの中で一緒にすると、突然ゴボゴボ、ジャバジャバと揺れる物質になる。
 つまりその何兆という分子全体が、個々の分子にはない液状という特性を獲得したのだ。
原子物理学の式そのものにはそういった特性を匂わせるものは何もない。液状という特性は「創発エマージング」なのである。

 これとまったく同じように、創発的な特性は創発的な振る舞いを生み出すと、アンダースンはいう。
たとえば液体の水の分子を冷やすと、華氏32度(摂氏0度)で突然それらの分子は無秩序にもみあうのを止めて「相転移」し、氷という秩序だった結晶配列の中に閉じこもる。
 また反対に暖めると、もみあっていた水の分子が突然ばらばらになり、水蒸気へと相転移する。
いずれの相転移も、一個の分子にはなんの意味もない。

 アンダースンは続ける。気象は創発的な特性だ。
メキシコ湾上の水蒸気が光や風と相互作用すると、ハリケーンという創発的な構造になる。
 生命は創発的な特性であり、化学法則に従うDNA分子、タンパク質分子、その他もろもろの分子から生まれている。心は創発的な特性であり、生物学の細胞の法則に従う百数十億の神経細胞から生まれている。
 
 じつは1972年の論文でアンダースンが指摘したように、宇宙は1種の階層構造を形成しているとみることができる。
「複雑さのそれぞれのレベルで、まったく新しい特性が出現している。それゆえ、それぞれの段階でまったく新しい法則や概念や一般化が必要なのであり、したがって、前段階におけるのと同じ程度に、インスピレーションと創造性が要求される。心理学は応用生物学ではないし、生物学は応用化学ではない」

 この1972年の記事を読んだり著者と直接話をしている者には、研究所に対する彼の共感がどこにあるかは明らかだったろう。
アンダースンにとって無数の形をとって現れる創発性こそ、科学におけるもっとも興味をそそる謎だったのだ。それにくらべればクオークなど退屈なものに思えた。

 だからこそ彼はまず固体物理学へと進んだ。
固体物理学は創発的現象の不思議の国だった。(1977年に彼が受賞したノーベル賞は、ある種の金属が電気伝導体から絶縁体へと変ずる難解な相転移についての理論的説明に対して贈られている)。
 しかし、固体物理学もまた、彼を虜にするほどのものではなかった。実際、1984年6月にパインズから招待状が届いたころ、アンダースンは、物理学の分野で彼が考え出した技術を応用し、タンパク質分子の三次元構造の解明やニューラル・ネットワークの挙動の解析に精を出していた。
 あるいは、それ以前にも彼はこの世の究極の神秘の一つに取り組み、地球上の最初の生命形態が集合的自己組織化によって単純な化学物質から生じた可能性があることを指摘していた。

 だからもしサンタフェ研究所が本物なら、耳を傾けてもよいとアンダースンは思った。もし本物なら。
パインズからの招待状を受け取ってからの数週間後、それを見極めるチャンスがやってきた。  
 たまたまアスペン物理学センターの取締役会長をしていたので、そこでパインズと会い、中性子星の内部構造に関する計算について意見を交わすことになっていた。そなわけでパインズの部屋で二人がはじめて会ったとき、アンダースンは単刀直入にいった。

 「わかった、デイブ。で、こいつは薄っぺらなもんかね、それとも本物かね?」
もちろん、パインズがいうことはわかっていた----「本物だよ」。だがその答えがどんな印象のものかを、自分の耳で確かめたいと思った。

パインズはなんとかよい印象をもってもらおうと全力を傾けた。そしてアンダースンに、ぜひそれに加わってほしいといった。懐疑的だといっても、アンダースンは少なくともゲルマンに劣らぬ広範な関心と見識を有していた。彼が加わってくれたら、やっと釣り合いがとれるとというものだ。それに彼のノーベル賞により、研究所の信用が飛躍的に高まる。

 だからパインズはアンダースンにこういった。ええ、研究所は分野横断に目を向けよとしているのであって、二,三の流行の話題に目を向けようとしているわけではない。
またそれはマレー・ゲルマンの世間体を繕うためのものでもない。そのことでいえば、ロス・アラモス研究所の付属でもない(パインズは、アンダースンがロス・アラモス研究所とかかわることは絶対にないことを知っていた)。

 いま主導的役割を果たしているのはコーワンと自分だが、もしアンダースンが入ってくれるたら、アンダースンが主導的役割を演じられるように自分が取り計らうつもりだ。で、たとえば今回のワークショップのために推薦してもらえるような講演者はいないだろうか?

 これが功を奏した。
アンダースンは、講演者名と演題についてあれこれ思案している自分に気がついた。
そして自分が虜になっていることを知った。彼の存在を知らしめる魅力的なチャンス。
 「研究所に自分がなにがしかの影響力をもてるという気持ちだった」と、彼はいう。
「もしそれが本当に実現するなら、積極的にそこに入って、事態の前進に、そして過去の失敗を避け多少なりともうまくいくように、努力しよと思った」

 ゲルマンとカラザズもアスペンに来ていたので、夏のあいだじゅうワークショップと研究所についての議論が続いた。
そしてアンダースンは、その夏の終わりにプリンストンに戻るや、失敗せずに研究所を組織するにはどうすべきかを、3、4枚の紙にメモした。(重要なポイント----独立した部門をつくらないこと!)。
 その秋、彼はサンタフェへの旅の予約をした。





みち草・・・・「複雑系」

2012-11-17 09:00:00 | アルケ・ミスト
 一九八四年六月二九日、フィル・アンダースンはパインズからの手紙をプリンストンで受け取った。
この秋におこなわれる科学における「新しい統合」に関するワークショップに出席していただけませんでしょうか?

 うーん、まあね。
アンダースンは、控えめにいっても懐疑的だった。彼はすでにこの集団の噂を耳にしていた。ゲルマンが、いく先々で研究所の話をしていたからだ。
 だがアンダースンにはその研究所が、カリフォルニア工科大学ノーベル賞受賞者のための隠居所のように映った。何百万ドルという寄付金ときらびやかな研究で鳴るあのカリフォルニア工科大学の。

 なるほどアンダースンなら、どこからみてもマレー・ゲルマンにひけをとるまい。
彼は一九七七年に固体物理学の研究でノーベル賞を貰っていたし、過去30年間、粒子物理学におけるゲルマン同様、固体物理学における中心的存在だった。
 だが一人の人間としては、アンダースンはきらびやかな科学を軽蔑していた。
流行の問題に取り組むことは好きではなかった。自分が取り組んでいる問題に他の理論家たちが殺到しはじめたと感じると、彼はいつでも本能的に他の問題に鞍替えしていた。
 
複雑系 ─ 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち

フィル・アンダースン
◦固体物理学者。ノーベル賞(1977)
◦還元主義の流れを逆転させる。/自然法則の存在を信ずることは、宇宙が究極的には理解可能であると信ずることだ。
◦創発的(エマージェント)/相転移(相転移は、一個の分子には何の意味もない)

 とくに、多くの若い自信家どもが専門知識をまるで学問的序列の証しのようにひけらかすのは、実際に彼らが何かすごいことをしていようがいまいが、たえられなかった。
 「俺を見ろ、俺は粒子物理学者だ!」「俺を見ろ、俺は宇宙論者だ!」

 小規模のプロジェクトが----つまり、アンダースンが科学的により生産的であると考えているようなプロジェクトが----いつも苦しんでいるというのに、ピカピカの新型望遠鏡やとてつもなく贅沢な粒子加速器にアメリカ議会が湯水のごとく金を注ぐことに憤慨していた。
 彼はすでに莫大な時間を費やし、最近粒子物理学者たちが公表した数十億ドルもする超伝導スーパー加速器計画を、議会の委員会で批判してきた。

 さらに、彼にはこのサンタフェの一団がアマチュア集団のように思えた。
学際的研究所の創設に関してマレー・ゲルマンがいったい何を知っているというのか?ゲルマンはこれまでに学際的プロジェクトに取り組んだことはない。
 なるほど少なくともパインズは天体物理者との共同研究にある程度の時間を割き、固体物理学を中性子星の構造の解析に応用しようとしてきた。
実際、彼とアンダースンはその小さな問題を共同で研究しているところだった。
 だがほかの連中はどうか?アンダースン自身は、ベル研究所という、まさに学際的な環境の中で研究生活の大半を過ごしてきた。だから彼は、そうした企てがいかに注意を要するものかを知っていた。
 
 学問の世界には、哀れにも挫折した道徳的な新研究所の残骸が散らばっている。
変わり者があとを受け継いでくれなければ、だいたいそうしたものは、精神は高邁でも沈滞してしまう。実際アンダースンは、かのプリンストンの地で哀れな例を目の当たりにしていた。
 オッペンハイマー、アインシュタイン、フォン・ノイマンの館、あの厳かなプリンストン高等学術研究所。
なるほど、数学のようないくつかのことに関しては大いに成功した。
 だが学際的な研究所としてはみじめな失敗例だと、彼はみていた。切れ者の集団だが、おのれ自身のことばかりしていて、互には意見を交わすことはほとんどない。そこに入っても思いを果たせなかった優秀な科学者を、アンダースンは何人も見てきた。 

 にもかかわらず、アンダースンはサンタフェ研究所に関心を抱いた。
還元主義の流れを逆転させる----それは彼のような人間のためにある言葉だった。彼は個人的に何十年と還元主義にゲリラ戦を挑んできたのだ。

 回想によれば、最初はアンダースンを行動へと駆り立てたのは粒子物理学者ヴィクトル・ヴァイスコップフの1965年の講演禄を読んでいるときだったという。
 その中でヴァイスコップフは、「基礎的な」科学----粒子物理学、それに一部の宇宙論----は、たとえば固体物理学のような応用理論とは異なっているだけでなく優れてもいる。とほのめかしていた。
 アンダースンは深く悩んだ。そして侮辱された固体物理学者だからこそ冷酷にもなった。アンダースンは反発し、ただちに彼自身の講演を準備した。
 そして1972年、彼はそれを「さらなる違い」と題して、科学雑誌に論文を出した。以来ずっと彼は、ことあるごとにその議論を展開してきた。

 「哲学的に正しい」形の還元主義があることは彼とても真っ先に認めると、アンダースンはいう。
それは、宇宙が自然法則に支配されているという信念だ。大多数の科学者はその仮定を心の底から受け入れていると、彼はいう。そうでなければ、科学が存在できるとは考えがたい。
 自然法則の存在を信ずることは、宇宙が究極的には理解可能であると信ずることだ。それは、銀河の密度を決定しているのと同じ力が、地面へリンゴの落下を決定していると考えることだ。ダイヤモンドを通り抜ける光を屈折させているのと同じ原子が、細胞のようなものを形づくっていると考えることだ。
 ビッグバンから生じたのと同じ電子、同じ中性子、同じ陽子が、人間の脳、頭脳、精神を生み出していると考えることだ。自然法則の存在を信ずることは、もっとも深いレベルでの宇宙の統合を信ずることなのだ。

しかしこの信念は、基本法則と基本粒子だけが研究に値し、他のことはすべて大型コンピュータで予測できるということではない、とアンダースンはいう。にもかかわらず、明らかに多くの科学者がそう考えていると彼はいう。

 1932年、positron陽電子(電子の反物質)を発見した物理学者は、「あとは化学の問題だ!」と宣言した。
⇒医療分野として、ポジトロン断層法を用いたがんの発見などに利用される。
これは陽電子放出核種でラベルされた生体分子の分布や代謝を、放射能の空間分布やその時間変化を通してイメージングする手法である。日本ではがん診療への利用のみならず、がん検診としても利用されているが、これには賛否両論がある。
 材料分野においては、半導体の空孔型欠陥の検知(密度や種類の測定)や、ポリマーの自由体積の測定などにも利用できることが知られているが、主に研究室レベルで用いられており、産業利用の裾野が十分に開拓されていない。
 これはデータの解釈に専門的な知識が必要であることや、容易に入手できる市販装置が存在しないことなどが原因である。


もっと最近では、マレー・ゲルマン自身が、固体物理学を「とるに足らない物理学」として一蹴したことは有名だ。
 アンダースンが怒りを抑えられないのは、まさにその種の傲慢さだった。彼は1972年の論文で、「すべてを単純な基本法則に還元する能力は、そうした法則から出発し宇宙を再構築していく能力を意味してはいない」と書いた。
 たとえば、粒子物理学者が基本法則について語れば語るほど、その法則と他の科学が扱っている現実的な問題との関連は希薄になるし、社会との関連はなおのことである。









 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-16 09:00:00 | アルケ・ミスト
 控え目であることはともかくとして、コーワンは現場担当としてじつにふさわしい人物だった。
彼にはいたる所に知り合いがいる。
もちろん、いやでもそうならざるを得なかったのだが、ニューメキシコ州はかなり人口の少ない所だから、ロス・アラモス研究所の管理者たちならだれだってすぐいろいろな有力者と知り合いになる。だが、たまたまそのロス・アラモスの管理者が過去にみずから大金持ちになったことがあるとなれば、それはそれで助けになる。

 1960年代はじめのことだったと、コーワンはいう。
「ロス・アラモスはいわば社会主義経済の見本みたいな所だった。私有財産なんてものはなかった。だれもが階級や重要さに準じて住宅をあてがわれていたんだ。若い人間は本当に丸太小屋のような家をあてがわれていたよ。軍のバラックみたいなものをね」

「ちょうど私は人を雇おうと----当時雇うといえばだいたい男をだが----していた。それは容易なことではなかった。雇ったりすると、なぜそんな丸太小屋に住まねばならないのかで、たちまち奥さんともめてしまう。それでわれわれは、不動産を手にできるようにと政府を口説いた。だが銀行は頑として政府の施設には貸し付けようとしない。そこで、「そうだ、貯金をして貸し付けよう」って思った。

 家内に、もしかするとわれわれの投資は消えてなくなるぞ、っていったら、家内は「いいわ」ってね。
ところが、消えなかった!貯金と貸し付けが大いに儲けになった。
それでわれわれは銀行をはじめる決心をした。ロス・アラモス・ナショナル・バンクを。それはあっという間の成功だった」

「それで得たものといえば、1人の優秀な弁護士と2人の親切な上院議員だけだったがね」と、彼はいう。
 コーワンはすでに1983年の春に研究所の事業資金の必要性を予見し、旧友の一人、スピーゲル・カタログ会社のアート・スピーゲルに、援助を打診していた。コーワンとスピーゲルはともにサンタフェ・オペラの創設メンバーであり、スピーゲル夫妻はニューメキシコ交響楽団の中心的な基金調達者だった。
 スピーゲルにすれば、コーワンのいう研究所がどんなものかよくわからなかったが、ハイテク分野でのしあがってくる日本に対する必要な対応であるとすれば、素晴らしいアイデアだと思った。

 そこで彼は、コーワンがサンタフェのさまざまな方面の富豪たちに請願して歩くのに、手を貸しはじめた。

 一九八四年の春までにスピーゲルは、マウンテン・ベル会社と、比較的景気のよい貯蓄貸付銀行の一つ(その後破産した)から、少々の基金を現金で手に入れていた。額は大したものではなかったが、当時まだコーワンも基金調達を最優先には考えてはいなかった。
 彼は土台づくりをすることのほうが重要だろうと考えていた。
たとえば一九八四年のイースターのころ、コーワンは三〇〇ドルほど自腹を切って、サンタフェでコミュニテイのリーダーたちのための昼食会を開いた。
 「何を考えているか知ってもらって関心と支援を喚起することが作戦的に望ましいだろうと、われわれは考えた。それもあまり強くは求めなかった。われわれとしてはただ、何かよくわからないことをしにロス・アラモスから突如インテリが大勢サンタフェにきている。などという新聞記事を彼らに読ませたくなかったんだ」

 この昼食会もまた1銭にもならなかったが、よい経験だった。ゲルマンがやってきて演説をした。参会者は喜んだ。ノーベル賞授賞者だ!と。

 一方、法人化の問題もあった。
いやしくもだれかに基金を求める話をしようというなら、それを振り込んでもらために、個人の当座預金口座以外のものを用意せねばならない。
そこでコーワンとニック・メトロポリスはジャック・キャンベルのところに出向いた。キャンベルはコーワンの旧友の1人で、かつてはニューメキシコ州知事をやっていたが、いまはサンタフェで景気のよい法律会社の社長をしていた。キャンベルは話を聞いて大いに喜んだ。知事をやっているときいつもこういうことをしたいと思っていた、と彼はいった。
 ニューメキシコ州の大学は実世界の問題からあまりにも孤立しすぎていたからだ。キャンベルは、会社設立のための書類と定款をつくるために彼の会社が無料奉仕をするといってくれた。
彼はまた、この新会社が真に非営利企業の資格に値するものであることをどうすれば国税庁が納得するかを、コーワンにいろいろ助言した(国税庁はこういったことに関して疑い深いことで有名だ。コーワンは主旨説明のためにみずからダグラスに飛ばねばならなかった)。

 一九八四年五月、サンタフェ研究所が法人化された。
ただし具体的な場所もなければ、スタッフもいなかった。持ち金も実質的にゼロ。その実体といえば、一個の私書箱、それにアルバカーキーにあるスピーゲルの事務所の電話番号だけだった。
 しかるべき社名すらなかった。
「サンタフェ研究所」という名称は、すでに、あるセラピー施設に所有権があった。
そこでコーワンたちはしぶしぶ「リオ・グランデ研究所」とすることにした。(リオ・グランデはサンタフェの数マイル西を流れる川)。ところが、それもまた存在していた。

 あの厄介な中身の問題もまだ残っていた。
ゲルマンの雄弁はじつにすばらしかった。ゲルマンはじつに切れる男だった。
だが、研究所がしようとしていることを正確に知るまでは----いや、研究所がそれでうまくいくという証拠を手にするまでは----だれ一人として、数百万ドルをポンとはたこうとはしなかった。
 「ハーブ、どうしたらこういうもをはじめられるかね?」と、コーワンはロス・アラモスの同僚のハーブ・アンダースンに聞いた。
自分の気に入っているやり方は、ぬきんでた連中をワークショップに集め、それぞれに、一番身近な、そして一番熱を入れている問題について語ってもらうことだと、アンダースンはいった。
そうすれば、招いた人間次第では、さまざまな学問分野の話題がカバーされるだろうし、またもし本当に諸分野の合流というものがあるなら、もはや話だけでにとどまらないだろうと、彼はいった。

「それで私はいったんだ。「それはいい。とりかかってくれ」ってね」。
アンダースンはとりかかった。そのあとすぐ、パインズがワークショップのとりまとめを買って出てくれた。彼も同じように考えていたからだ。アンダースンは喜んでそれを彼に任せた。


参考事項
socialist market economy「政治的には社会主義、経済的には市場経済」
ただし、ここでの文脈は少し違っているようだが・・・

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-15 09:00:00 | アルケ・ミスト
 ゲルマンの真骨頂が発揮されたのは、1983年のクリスマス直後のことだった。
ゲルマン、ロータ、パインズの3人がニューメキシコでクリスマス休暇を過ごすのをいつも楽しみにしていることを知っていたコーワンは----実際ゲルマンはサンタフェに新しい家を建てたばかりだった----研究所構想を前進させようと、上級特別研究員たちに再度集合をかけた。

 ゲルマンは最大限の努力をした。
そういう狭い考えはあまりはかばかしくない、と彼は研究員たちにいった。
「真に大きな仕事をわれわれ自身に課する必要がある。それは新しい大きな科学的統合----多くの分野を包含する統合----に取り組むことだ」


Charles Robert Darwin1831年に中の上の成績でケンブリッジ大学を卒業した。

多くの科学史家はこの両大学時代をダーウィンの人生の中でも特に重要な時期だったと見ているが、本人はのちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エディンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている。

恩師ヘンズローの紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになった。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対したが、叔父ジョサイア2世の取りなしで参加を認めた。

 ダーウィンの生物進化論は19世紀のそういう大統合だったと、彼はいった。
異なった種の植物や動物が明白に関連をもっていることを示した生物学。地球が信じられないほど古く、過去がとてつもなく大きな時間をもつことを示した、地学という新しい科学。
 そのとてつもなく大きな過去に棲息していた植物と動物が、今日生きているものとはひどく異なっていたことを証明した古生物学。
ダーウィンの生物進化論は、それらの学問が示した証拠を結びつけたのだ。

 また、もっと近年にはBig Bangビッグバンとして知られる大統合がある、それらにより、150億年ほど前の想像を絶する宇宙の爆発の中で星や銀河の全物質がいかにして存在するようになったかがつまびらやかになった、と彼はいった。

 「われわれが求めるべきはいま見えはじめてきたいくつかの極度に学際的な大統合ではないかと思う、と私はいったんだ」と、ゲルマンはいう。
 すでにいくつかはそういった道を進みはじめていた。分子生物学、非線形科学、認知科学。だが、たしかにそれ以外にも新しい統合があった。だからこの新しい研究所はそういうものを探し出すべきである、と。

 ぜひ、いま騒がれているような大型・高速のコンピュータを使うことで可能になる話題を選ぼうではないか。
コンピュータを使うのはモデル化だけのためだけではなく、そういう機械そのものが複雑なシステムの例だからだ、そう彼はつけ加えた。
 ニック(メトロポリス)とジャンカルロ(ロータ)の考えは完全に正しい。
コンピュータはそうした統合の一部になるかもしれない。だが、はじめる前に目隠しをしてはならない。いやしくもやろうというなら、正しくやるべきだ、そう彼はいった。
 
 聴く者にとって、彼の雄弁は冴えた。その雄弁の中に、コーワンと上級特別研究員たちが1年近くなんとか言葉で表現しようとしてきたヴィジョンがあった。
 そしてそれ以降は、だいたい意見が一致するようになった。あとは彼ら研究員たちが、可能なかぎり広い視野で研究所の設立に努める。
そしてゲルマンが、寄付をしてくれそうな相手をうまく説得してくれれば----明らかに彼はそうしようとしていた----たぶん、ことは動くだろう。

 問題は落着したが、このグループが処理すべき、もう少し次元の低い問題あった。だれがことに当たるのか、だれがこの研究所を軌道に乗せるのか。
 だれもが、いわずもがなの方向を見た。
実際、それはコーワン自身が望んだ仕事だった。そう、この研究所は彼のアイデアだった。彼はそのアイデアに確信を抱いていた。それがなされるべきだと考えていた。
 いや、なされねばならないと思っていた。だが、彼はこれまでずっと実質的に管理の道ばかり歩んできた。いや気がさしていた。いつも研究基金をかき集めているなんて、もううんざりだ。予算を削減しろと友人たちにいうのは、もう結構だ。週末に自分自身の研究をこそこそやるなんて、もう辟易だ。

 歳は63になっていたし、ノートは、時間不足ゆえに取り組めないでいるアイデアであふれていた。
太陽ニュートリノの探索。二重β崩壊というひじょうに希少で興味深い形態の放射能の研究。こういったことこそやってみたいと思ってきたことだったし、実際にやろうとしていることだった。

 だから、もちろん、パインズがコーワンにこの計画の先頭に立つようにいったとき、コーワンは「わかった」といった。
じつはパインズがあらかじめ指名の打診をしていたので、コーワンはそれなりに熟慮のしていた。そして最終的にそう決意したのは、ロス・アラモス研究所での管理業務に彼がつねに感じていたのと同じ理由からだった。

 「管理なんてだれにでもできるものだが、みんなそれをするのがどうも下手だと、つねづね感じていたんだ」。加えて、俺がやってやると口角泡を飛ばす者もいなかった。

 オーケー、とコーワンはみなにいった。だれかほかの人間がやてくれるようになるまで、喜んで自分が一番槍を務めていろいろやってみよう。
 ただし一つだけ、マレーには前面に立ってもらいたい、と。

「基金を求めにいけば、お前たちはいったいどうやって明日のエネルギー危機の問題を解決しようとしているのか、と問われる。だが、当時われわれはもっとずっと地味にやりはじめていた。世界の新しい見方というより、何かひじょに役に立つようなものを生み出すのに、何年もかかるだろうと私は思っていた。
 だから、「ここにかくかくしかじかの教授がいて、いまその教授は、日常的な問題と関係することを研究すべく、これまで没頭してきたクオークの研究を捨てようとしているのです」と、いうわけだ。
そうすれば、われわれがいったい何をいってるのかよくわからなくても、相手は耳を貸してくれる」と、コーワンはいう。

全員が同意した。コーワンが研究所の社長兼現場担当に、ゲルマンが取締役会長になることになった。








みち草・・・・「複雑系」

2012-11-14 09:00:00 | アルケ・ミスト
 この行き詰まりを打開したのはマレーだった。
粒子物理学界の55歳のきかん坊、カリフォルニア工科大学のMurray Gell-Mannマレー・ゲルマン教授である。

じつは8月17日の会合の約1週間前に、ゲルマンがコーワンに電話をかけてきていた。
パインズから研究所構想の話を聞いた。すばらしい考えだ、自分はずっとこういったものをやってみたいと思っていた、とゲルマンはいった。
 古代文明の消長、この文明の長期的な持続可能性、学問分野を大きく超越するそういった問題にぜひ取り組みたいと思っていたが、これまでのところカルフォルニア工科大学ではまだ何もはじめてはいない。
 だから次回ロスアラモスに出向いたとき、研究所の議論にぜひ参加させてくれないかと、ゲルマンはいった。(ゲルマンは1950年代以降、ロス・アラモス研究所のコンサルタントをしていて、しばしば研究所にきていた)。

 コーワンは自分の運の強さが信じられなかった。
「ぜひとも、いらしてください!」もし頂点に属するような人間がいるとするなら、それはマレー・ゲルマンにほかならなかった。
 ニューヨークで生まれ育ったゲルマン。
黒縁の眼鏡とクルーカットの白髪が、どことなく、丸ぽちゃのヘンリー・キッシンジャーを思わせる。がむしゃらで、才気縦横で、チャーミングで、饒舌だ。
 いうまでもなく、不遜なまでの優等生を通してきたのだ。
カリフォルニア工科大学といえば、辛口で知られた物理学者、故リチャード・ファインマンが、ベストセラーになった回顧録に「ご冗談でしょう、ファインマンさん!」というタイトルをつけたところだが、ゲルマンだったら自分の回顧録を「なるほど、今度もおおせのとおり、マレーさん!」とするにちがいないと、この大学で噂されていた。
 ごくまれにだが、思いどおりにならなかったとき、ゲルマンはとても子供っぽくなることもあった。同僚たちは、ゲルマンが下唇を突き出してふくれっ面をしているのを何度か目撃してきた。

 だがゲルマンは、まちがいなく20世紀の科学界の中心人物の1人だった。
1950年代のはじめに若き博士として科学の現場に立ったとき、亜原子の世界はどうしょうもない混乱状態にあった。
 π中間子、∑粒子、ρ粒子、等等、無秩序に付されたギリシャ名の無数のリスト。しかしそれから20年後、主としてゲルマンが切り開いた概念により、物理学者たちは粒子間のすべての力を統一する大統一理論を頭に描きながら、ごたごたした粒子群をquark「クオーク」として確信をもって分類しつつあった(クオークの名は、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」に出てくるある造語にならってゲルマンがつけたもの)。

 ゲルマンと二十年間つきあっているある理論物理学者はいう。
「マレーは粒子物理学の研究の中心を定めて、一時代を画したんだ。マレーが考えていたことは、ほかのだれが考えていてもおかしくないことだった。彼は真実がどこにあるかを知っていて、そこへ人々を導いたんだ」
 
 しかし陽子と中性子という内なる世界にこの三〇年没頭してきたとなれば、ゲルマンは、コーワンの科学的ホーリズムというヴィジョンにとって少々厄介な兵力のようにみえた。
 いまさらまた還元主義というわけにもいくまい。が、じつはゲルマンの関心は多様だった。
彼は雑食的好奇心につき動かされていた。たとえば、飛行機に乗ると隣の人間に話しかけ、何時間にもわたって相手の身の上を尋問することで有名だった。
 彼と科学との最初の出会いは好きだった自然史を通してだったが、自然史を学ぶきっかけは、五歳のとき、兄がマンハッタンのいろいろな公園に連れていってくれたことだった。
 「過剰に伐採されたベイツガの森、それがニューヨークなんだとわれわれは思った」という。以来彼は熱心なバードウオッチャーであり、また自然保護論者だった。事実、ジョン・D・アンド・キャサリン・T・マッカーサー財団の「世界環境資源」委員会の議長として、シンクタンク「世界資源研究所」の創設に手を貸したり、熱帯林保護運動に深くかかわっていた。

 またゲルマンは、心理学、考古学、言語学にも惹かれていた8エール大学では物理学を専攻したが、それは単に父を満足させるためだった。父は、考古学を専攻したら食べていけない、と心配していた)。
 だから、外国の科学者の話をするとき、彼は忠実なほど正確なアクセントでその名前を発音する。このことである同僚はこう回想している。
近いうちにアイルランドの妹のところにいくつもりだ、と彼はゲルマンにいった。
「妹さんの名前、何ていうの?」
「ギレスビーだ」
「それ、どういう意味?」
「えー、ケルト語で、司教の僕、だったと思うが」
ゲルマンはちょっと考えてからいった。「いや、そうじゃないよ。中世のスコットランド高地のゲール語で、司教の敬虔な信奉者、みたいな意味だ」

 ロス・アラモスではまだだれも知らぬこととはいえ、ゲルマンはその言語能力を使って効果的に人を説得することができる人物だった。
「マレーは臨機応変、その場で人を鼓舞するような話をすることができる。まあチャーチル的ではないだろうが、話の明晰さ、華麗さには圧倒されるよ」と、カラザズはいう。
 実際、研究所の議論にゲルマンが加わるやいなや、彼の幅広い基盤の研究所構想に大半の上級特別研究員が賛同し、メトロポリスとロータのコンピュータに焦点を絞った研究所構想はたちまちのうちに影をひそめた。


 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-13 09:00:00 | アルケ・ミスト
 しかしコンピュータ科学は、それよりはるかに進んでいた。
とくにロータは、コンピュータ科学が心の研究----思考も情報処理も基本的には同じものという考えに基づく研究----にまで及んでいるといった。
 認知科学としても知られるこのホットな分野は、日に日に注目されつつあった。
うまくやりさえすれば、脳の中のニューラルネットワークを詳細に研究している神経科学者、瞬間瞬間の高度な思考と推論のプロセスを研究している認知心理学者、そういった思考のプロセスをコンピュータでモデル化しようとしている人工知能研究者、さらには人間の言語構造を研究している言語学者や人間の文化を研究している文化人類学者、などの才能が、それによって一つに結びつく。
 だからそれはコーワンの研究所でやるに値する学際的なテーマだ、そうロータとメトロポリスはいった。

 さらにもう一人、客員のデイヴィッド・パインズがいた。
彼は1983年の夏にメトロポリスの呼びかけでこの議論に加わるようになっていた。
 イリノイ大学出身の理論物理学者であるパインズは「現代物理学レヴュー」誌の編集員で、ロス・アラモス研究所理論部門の顧問委員会の座長をしていた。
 加わってみれば、彼もまた科学の大統合というコーワンのアイデアに強く共鳴する一人であることがわかった。
というのも、1950年代の博士論文からはじまる彼自身の研究のほとんどが、多くの粒子からなるシステムの「集合的な」挙動(たとえば、ある種の大質量原子核の振動モードから液体ヘリウムの量子流まで)を、革新的な方法で理解することに向けられてきたからだった。
 パインズは、同様の解析手法により、組織や社会における人間の集合的な挙動がよりよく理解できるようになるかもしれないと活発に発言してきたことでも知られていた。
 「もともと私にはそんなふうに考えるたちがあった」と、彼はいう。
だからパインズも、コーワンの新研究所構想に喜んだ。
 また彼自身、イリノイ大学の高等学術研究センターの創立所長だったり、コロラド州アスペン物理学センターの創立者の一員だったりで、そういう方面では少なからぬ経験を有していた。

 がんばろう、とコーワンにいった。
構想を進行させようと、彼ははやった。「有能な科学者たちが集まってまったく新しいことを話し合うというのは、いつもとても楽しいもんだ。研究所を一つつくるというのは、よい科学論文を書くのと同じくらい楽しい」と、パインズはいう。

 と、まあ、こんな具合だった。彼らは上級特別研究員たちは新研究所構想に胸躍らせた。
ときには、はしゃぎすぎ、といったほどに。

たとえば、自分たちは「新しいアテネ」----ソクラテスやプラトンやAristotelesアリストテレスを生み出したあの都市国家と同類の知の探求のためのセンター----をつくろうとしているのかもしてない、などと考えて、全員がひどく興奮した日もあった。
 もちろん彼らは、もっと現実的なレベルで、多くの問題について意見を交わしもした。研究所の規模はどのくらいがよいか?学生数はどのくらいか?いや、学生を入れるべきか?常勤研究者を有すべきか、それとも交代制にして、終われば各自の研究所に戻るようにすべきか?
 こうして徐々に、またいつのまにか、この架空の研究所は彼らの心の中でより現実的なものになりはじめていた。
 
 が、不幸にも、たった一つ問題があった。それが、みなちがったことを想い描いていることだった。
 「毎週、堂々めぐりだった」と、コーワンはため息をつく。
もっとも深刻な争いの種が、もっとも基本的な問題だった。何についての研究所であるべきか?

 メトロポリスとロータは、もっぱらコンピュータ科学に焦点を合わせるべきだと考えていた。
彼らはいった。なるほど大「統合」は結構だ。しかし、だれ一人それを明確に定義できないとなれば、だれかに四億ドルを投資してもらおうなどというのは、望むべくもない。
 たとえばニューヨークのロックフェーラ研究所のような規模の施設に資金援助するとき、あなただったら何が必要かということだ。
もちろん、いずれにしてもその種の金を調達するのは容易ではない。しかし少なくとも、もし情報処理と認知科学に焦点を合わせていれば、ジョージがいっているようなことの多くが実現されるだろうし、たぶん、新世代のコンピュータ億万長者の一人から資金をもらうことも可能だろう。

 一方カラザズ、パインズら、おおかたがこれに異を唱えた。
なるほどコンピュータは結構だ、そう彼らは思った。また金に関しても、メトロポリスとロータがいうとおりだった。だがなんたること、またもやコンピュータ研究センター?そんなことで本当にだれかを夢中にさせられるだろうか。
 研究所はそれ以上のものでなければならない----たとえそれがどんなものかを彼らが正確に言葉にできないにしても、まさにそれが問題だった。
 上級特別研究員のダラー・ネイグルが指摘するように、「われわれは、新しい道をうまく定義してなかった」。
しかし彼ら全員が、いま何か新しいことが起ころうとしているというというコーワンの意見は正しいと感じていた。しかしまた、だれもが「新しい思考方法」についてただ漠然と話すだけだった。

 コーワンはというと、この問題に関して態度を鮮明にしなかった。
彼は自分の〈立場〉をわきまえていた。
 個人的には「生存技術に関する研究所」と思い描いていた。そして彼にとってそれは、可能なかぎり広範なプログラム、可能なかぎりひもつきでないプログラム、を意味した。が、同時に、研究所の方向性に関してコンセンサスをとることの方が、金やその他のもろもろの細かいことより、はるかに重要であると確信していた。
 もしその研究所がワンマンショーのようなものであれば、どうにもなるまいと感じていた。
管理職として三〇年、こうしたことを実現させる唯一の道は多くの人間を夢中にさせることだと、彼は確信していた。
 「これが重要なことであることをとくに優れた人間にわかってもらう必要がある。ちなみに、私は民主主義のことをいってはいない。0.5パーセントの上層のことをいっているのだ。エリートのこと、それがやれたら、金なんて----まあ容易ではないが----たいした問題はない」と、コーワンはいった。

 それはまるでスローモーション・ビデオで見る議論のように、遅々として先に進まなかった。
というのも、全員がそれぞれの研究プロジェクトに勤務時間を超えて取り組んでいたからだった。(とくにコーワンは、太陽ニュートリノの検出実験に没頭していた。太陽ニュートリノとは、太陽の中心部から放出されるほとんど目に見えない粒子である)。 
 だが永久にそんなことをしてはいられない。
1983年8月17日、コーワンは管理棟の4階会議室の一つに彼ら上級特別研究員を招集し、いまや真剣に考えるべき時期である、と促した。併せて、彼の友人夫妻が研究所のキャンパス用に50~100エーカーの土地を提供してもよいと申し出ていることを明らかにした。しかし彼らは、とにもかくにも研究所が何に関するものかをどうしても知りたがった。
 前進なし。
彼らは友好的ではあったが、かたくなに二つの陣営に分かれていた。会議は少しも解決への兆しを見せないまま終わった。もっとも、おそらくこれは幸いなことだたにちがいない。
コーワンに土地の提供を約した夫妻が数ヶ月後に離婚し、申し出を撤回したからだ。とはいえコーワンは、この先話がうまくいくのかどうか考えねばならなかった。
 






みち草・・・・「複雑系」

2012-11-12 09:00:00 | アルケ・ミスト
 外部からは、上級特別研究員たちは、高い給料で窓際に追いやられた年寄りの変人集団として簡単に片付けられてしまいそうだ。
実際、外部には、彼らはそんなふうに映っていた。
 このグループは、長いことロス・アラモスでやってきた6人からなっていた。
彼らは、コーワンと同じように、研究所にも多大な貢献をし、管理上の雑務や煩わしい対官僚業務をせずに研究に専念できる地位を与えられていた。
 グループとしての唯一の義務は、1週間に1度カフェテリアで昼食をとり、さまざまな政策的問題に関して、ときおり所長に進言することだった。

 だがこの上級特別研究員たちは、じつは驚くほど陽気な一団だった。
新しい地位には、「有り難い。これでようやく本当の研究がやれる」といった具合に応じる連中だった。
 彼らの多くはそれまでに何度か大きな管理責任を負ってきていたから、相手が望もうが望むまいが、研究所長に向かってずけずけと、所長は何をなすべきかを進言した。
 そんなわけで、コーワンがこの研究所構想を彼らの相談したのも、助言と支持を求めてのことだったが、彼はそのどっちも手に入れた。

 たとえばピーター・カラザズは、何か新しいことが起こる気配がある、いまチャンスが手招きしている、というコーワンの考えに、すぐ同調した。

 皺だらけの冷笑的な顔で、カラザズは「複雑な」システムについて情熱的に説き、「科学における次代の中心的な力である」と宣言した。
それには理由があった。
彼は1973年、ロス・アラモスの理論部門を率いるために、コーワンが議長をしていたある調査委員会の推薦でコーネル大学から引き抜かれたのだが、カラザズはただちにおよそ百人の新しい研究者を採用し、六つの新しい研究グループを発足させてしまった。それも、そのようなものに対する予算がすくなりつつあった時期にである。
 とりわけ、1974年、非線形力学という当時は漠とした下位分野の学問を研究するために元気のいい若者を数人採用したいと主張した(「いったいどうやって金を払うんだね?」と副所長のマイク・シモンズがいうと、カラザズはこういった。「どこかでその金を探すんですよ」)。
 そしてこのカラザズのもとでその下位分野が開花し、ロス・アラモス研究所は、やがてカオス理論と呼ばれるようになった学問の世界的なセンターになっていたのである。
 だからコーワンがその基礎の上に研究所をつくりたいというなら、カラザズはいつでも手助けするつもりだった。

 もう一人の上級特別研究員、天体物理学のスターリング・コルゲートは、べつな理由から熱烈な支持を表明した。
「われわれは、この州の知的能力を組織し、強化するようなものがどうしても必要だった」と、コルゲートはいう。
 ロス・アラモス研究所は、外界に門戸を開放しようとあらゆる努力にもかかわらず、台地の上で見事なまでに孤立している科学的群落だった。
 彼は、ロス・アラモスから200マイル南にあるソコーローのニューメキシコ鉱業技術研究所の社長をしていた10年間、この州が美しさを留めながらも取り残されていくのをいやというほど実感した。
 1940年代以来この地域に注がれてきた何十億ドルという国の金も、学校や工業への効果はがかりするくらい小さかった。
大学はせいぜい並である。人口過剰のカリフォルニアからの移転を企てていたハイテク企業がいつもリオ・グランデ渓谷を飛び越えてテキサス州オースチンへと東を目指したのは、おもにそうした理由によっていた。
 最近もコルゲートは、カラザズとともに、ニューメキシコ州に大学のシステムを大幅に改善させようとした。だが、すぐ望みなしとして諦めた。
州があまりにも貧しかったからだ。だからコルゲートには、コーワンの研究所構想が、最後で最善の希望のように見えた。
 「このお寒い知的環境を底上げしてくれるものならどんなものも、われわれ個人の利益、この研究所の利益、なかんずく州の利益になったんだ」と、コルゲートはいう。

 上級特別研究員ニック・メトロポリスは、コーワンがコンピュータの重要性を強調していたから、好意を示した。
また彼にはそれなりの理由があった。というのも、メトロポリスはロス・アラモス研究所のまさにミスター・コンピュータだった。じつは彼こそ、1940年代末にロス・アラモス研究所の最初のコンピュータ構築を監督した人物だった。
 彼はそれを、ハンガリー生まれの伝説的な数学者フォン・ノイマン博士の設計に基づいておこなった(この機械は「数学的解析器、計算機、積分器、兼コンピュータ」を意味する英語の頭文字をとりMANIACと呼ばれた)。
 またメトロポリスこそ、ポーランドの数学者スタニスラフ・ウーラムと一緒にコンピュータ・シュミレーションの手法をあみ出した人物だった。
 そして今日ロス・アラモスが世界最大・最速のスーパーコンピュータを有しているのも、メトロポリスに負うところ、じつに大だったのである。

しかしいまメトロポリスは、ロス・アラモス研究所がこの分野で十分創造的であると思っていなかった。
彼と、ロス・アラモスの客員特別研究員でしばしば長期にわたり研究所に滞在しているMIT出身の数学者ジャンカルロ・ロータは、いまコンピュータ科学は生物学や非線形科学と同じくらい大きな変革を遂げつつある、と指摘した。
 メトロポリスは、ハードウェアの設計だけをみても革命的な変化が進行している、といった。
既存の逐次処理型のコンピュータはほとんど望みどおりの速度を実現し、いまや設計者たちは、数百、数千、いや数百万の演算を並列で処理できるような新型コンピュータの研究をはじめていた。
 それもコーワンの研究所構想には好材料だった。なぜなら、コーワンがいっているような複雑な問題に真剣に取り組みたいと思っている者なら、だれもがその種のマシンを必要とするにちがいないからだ。


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「暗黒物質2兆個で初期宇宙 スパコン「京」成功 」2012.11.9 19:22 [数学]産経ニュース

 筑波大計算科学研究センターのグループは9日、スーパーコンピューター「京」を利用し、銀河形成に関わるとされる暗黒物質(ダークマター)粒子約2兆個が、初期の宇宙空間でどう動くかを見るシミュレーションに成功したと発表した。
 2兆個もの粒子を使ったシミュレーションは世界初という。
グループの石山智明研究員によると、京の計算能力の約98%を使って実現。
 暗黒物質は宇宙を満たし銀河を生み出したとされるが、正体は明らかになっていない。シミュレーションでは、約2兆個の粒子が相互に働く重力によって集まり、構造物ができる過程を示した。重力による構造物の成長を見ることで暗黒物質の性質や宇宙誕生の解明につながるという。
 研究成果は米国のゴードン・ベル賞の最終選考に残っており、結果は11月中旬に発表される。

 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-11 09:00:00 | アルケ・ミスト
 コーワンから見ると、それは信じられないチャンスに思えた。
とすれば、なぜ大学の科学者たちはそれに飛びつかないのか?いや、そこここで、ある程度までは飛びついていた。しかし彼が追い求めているような大きなビジョンは、網目からこぼれ落ちていくようだった。

 なぜなら、まさにその本質ゆえに、それはいかなる学部の権限の範囲にも入らなかったからだ。
なるほど、あちこちの大学が、「学際的研究所」であふれていた。だがコーワンにいわせれば、そうした研究所はたまたま多くの人間が仕事場を共有しているといった程度のものでしかなかった。
 教授と大学院生は依然として彼らが所属する学部に忠誠を尽くさねばならなかった。
学部が、学位、終身在職権、昇進などを認める権限を握っていたからである。だからこのままでは、大学は少なくとも今後一世代は複雑性の研究を取り上げることはないだろうと、コーワンは思った。

 不幸なことに、ロス・アラモス研究所もそれを取り上げるよには思えなかった。
通常、この種の幅広い、多分野にまたがる研究に関しては、兵器研究所は大学などよりずっとよい環境にある。
 研究所を訪れる大学関係者がいつも驚くのは、そうした事実だ。だがそれは、まさにロス・アラモス研究所の設立に由来していると、コーワンはいう。

 原爆製造という特殊な研究の挑戦からはじまったマンハッタン計画は、その挑戦にチームを組んで取り組むべく、関係するすべての専門分野から科学者を集めた。
 当然、それは目を見張るようなチームだった。
ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、ニールス・ボーア、ジョン・フォン・ノイマン、ハンス・ベーテ、リチャード・ファインマン、ユージン・ウィグナー。

 当時、あるオブザーバーは、それを古代アテネ以来の知者の大集合と呼んだ。
以来、それがロス・アラモス研究所の研究アプローチになってきたのである。

 上司の大きな仕事は、しかるべき科学者どうしが互いに話し合っているように気を配ることだった。
「ときどき自分が結婚仲介屋みたいに思えた」と、コーワンはいう。 

 唯一の問題は、コーワンが頭に描いた大統合が、ロス・アラモス研究所の基本的な使命とは関係がないということだった。
それが核兵器開発とはまるでかけ離れていた。
 研究所の使命と関係がないとなれば、研究基金を受けるチャンスは実質的にゼロだった。
なるほどロス・アラモス研究所は、それまでつねにそうしてきたように、複雑性の研究に寄せ集め的には取り組むだろうが、それ以上に力を入れてということはあるまい、とコーワンは思った。

 いや、たった一つ方法があると、彼は思った。
コーワンは、独立した新しい研究所を考えはじめた。
 理想としては、その研究所は二つの世界の長所を結びつけたものである。
つまり、一方では大学の広範な設立精神を有し、また一方では分離した学問分野を混ぜ合わせるロス・アラモス研究所の能力も留めている、そんな研究所だった。

 たぶんそれは、ロス・アラモス研究所から物理的に離れている必要があった。
しかし、もし可能なら、ロス・アラモス研究所の何人かの人間やコンピュータの力を貸してもらえる程度には近接しているべきだと、彼は思った。
 となればたぶんサンタフェだ。

 サンタフェはわずか三十五マイルしか離れていなかったし、市としてはどこよりも近かった。
だがどこにつくるにしても、この研究所はとくに優れた科学者たち----それぞれがそれぞれの分野の問題を本当によく理解している者たち----を連れてこられるような場、そして、普通よりずっと広範なカリキュラムを提示できるような場、でなくてはならなかった。
 あるいは、上級研究者が同僚に嘲笑されることなく独創的なアイデアに取り組むことができる場、そして、十分な自信を与えてくれるような世界的な人物のそばで、頭の切れる若い科学者たちが研究できるような場、でなければならなかった。

 要するにそれは、第二次世界大戦以後すっかり姿を消してしまったような科学者を教育できる場でなければならなかった。
「いわば21世紀のルネッサンス的人間。一方では科学を学んでいながら、優雅とはほど遠くまた科学にはまったく手に負えないこのごたごたした世界も扱えるような人間だ」と、コーワンはいう。

 ちょっと無邪気では?
もちろん。
 しかしコーワンは、「信じられないほどの科学的挑戦」というビジョンで人々を魅了することができれば、かならずうまくいくだろうと思った。

 彼が自問したように、「では1980年代と90年代の聡明な科学者たちにどんな種類の科学が説かれるべきか?」

それで、だれが耳を貸してくれるだろうか?だれがこうしたことを動かす影響力をもっているだるだろうか?ワシントンに出かけていたある日、彼は試みにこの研究所の話を、科学顧問のジェイ・キーワース、それに科学委員会のメンバーでヒューレット・パッカードの創設者の一人デイヴィッド・パッカードに説明した。

 驚いたことに、彼らは笑わなかった。それどころか、2人の反応はとても励みになるものだった。
そこで1983年の春、コーワンは毎週昼食を共にしているロス・アラモスの上級特別研究員たちにそのアイデアを披露する決心をした。
 そして彼らは好意を示した。



備考
Niels Henrik David Bohr 1921年にコペンハーゲンに理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を開き、外国から多くの物理学者を招いてthe Copenhagen Schoolコペンハーゲン学派を成することになる。