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しんかがく 70

2012-09-13 09:00:00 | colloidナノ
第3章「外国艦隊と雄藩の衝突」

1863年2月7日

 私自身が荷積した、バタヴィア行きのカリプソ号がガスパル海峡で座礁しました。これでまた大金を失ったのですが、まあまあよかったと思います。スハウテン・ファン・ドルト青年をはじめ、15人の日本人が船客だったのです。
 全員の生命が助かったのは何よりの幸いでした。カルスト船長のテルテーナ号で、日本人一行は残りの航海を続行します。一行の中には何人かの医者が含まれています。学問を修めた者として、日本に留まり国のために尽くすべきなのですが、彼らはまだまだ学ばなければならないことが一杯あるのです。

1863年4月10日
 英国政府は15雙編成の艦隊を江戸へ派遣します。司令官が日本政府にリチャードソン氏殺害への謝罪賠償を請求する意向だそうです。その請求額は英貨の12万5千ポンドと聞きますから、日本も支払いを渋ることでしょう。
⇒中国派遣艦隊。司令官クーパー提督が率いる艦隊で、薩英戦争と下関事件に関係した。/英国公使オールコックは帰国中で、代理公使ニールが交渉にあたった。英国政府は日本政府に償金10万ポンドとリチャードソンの遺族や負傷者のために2万5千ポンドを要求した。


ポンペはヨーロッパに失望して、あのまま日本滞在を継続していた方がよかった、と書いてきました。

1863年4月28日
 日本の険悪な情勢に関する新聞記事を読むあなた方が、決していらない心配をしないように前もって注意するために、この手紙をしあためています。ニュースは誇張されるのが常で、必ずしも信頼できる筋から出るものばかりとは限りません。

1863年5月13日
 ここ2,3日間、日英間の戦争が勃発する危惧が拡大していると報告しなければならないのは、実に不愉快なことです。

 オランダ船のマリア・テレジア号が停泊しています。私はできるだけたくさん物資を積み込み、出島の住民たちと弾丸の届かない中国へ渡ろうとしています。中国で事の成り行きを観測しましよう。

 この手紙の本志はあなたに日本の実情を諒解していただくこととです。新聞のむだ口に惑わされないでもらいたいのです。珍事が突発しないかぎり、私たちオランダ人は悠々と身の回りの荷物をまとめる余裕が与えられています。そのうち中国からお便りします。


1863年6月1日
 あなたの手元の新聞は日本の戦争、陸戦、海戦、砲撃を報道する記事を満載していることでしょう。しかし実際には、日本では一発の弾丸も発射されず、一本の日本刀も抜かれず、平穏無事だというのがこの瞬間の状況です。

 私たちは元気でいます。日英紛擾事件のおかげで、私の家財はまだ路上に野放しになっています。


1863年9月1日
 鹿児島で英国艦隊は薩摩の砲兵隊と衝突しました。英国側は戦艦乗組の大佐と中佐二人をはじめ、およそ50人の死者を出す損害を受けました。艦隊はいったん神奈川に撤退しましたが、この争いはまだ続行するでしょう。
⇒薩英戦争 8月15日砲撃が開始された。/11月に和議が成立し、両者は進んで親交を加えた。英国はそれまでの幕府支持の態度を捨て、積極的に薩摩藩を支援し、薩摩藩も攘夷論を捨て、開国進取の態度をとるようになった。

 8月16日に台風が襲来し、私の前歯4本が危うく喉元に引っかかるほど吹きまくりました。次の日は風向きを変えて、つけ上がって生意気なトーンを突き戻し、厳しくたしなめました。今は跡形を残さず引き揚げて、まるで何ごともなかったようです。その手際のよさに私も舌を巻きました。

1864年5月31日
 日本はちょこちょこ港を閉鎖するぞと脅かしますが、それは到底無理な話で、実行できるはずはありません。
2艘のオランダ軍艦が英国艦隊と行動を共にして、2,3ヶ月間瀬戸内海を通行する計画が立てられています。長門藩主を制裁する意図を持っています。日本側が自ら手を下して、適切な処置を取らない場合のことです。日本では日本刀や武器を使わない、文書面の格闘が盛んなようですから、計画実施の可能性もおおありです。
⇒毛利敬親藩内の尊攘派が主導権を握ったので、攘夷論を支持した。長州藩は、1863年7月8日に下関海峡通航のフランス艦キャン・シャン号、11日オランダ軍艦メデユサ号、15日アメリカ軍艦ワイオミング号を砲撃した。/英仏蘭米四国は連合艦隊を編成し1884年9月5日下関で報復砲撃を敢行した。いわゆる下関事件である。


1864年12月26日

 横浜の近郊で、2人の英国士官が日本刀を差す日本人にすこぶる残酷な手段で殺されたことを聞きましたか。

さて問題は、英国がこの殺人事件にいかに対処するかです。
今日まで20人のヨーロッパ人が卑怯な連中によって次々とあの世に葬られてきました。英国人の我慢にも限度があります。下手をすると、1865年の春には、この不穏な情勢が底なしの泥沼に突入して、際限ない動乱に発展する恐れがあります。
⇒ボールドウィン少佐とバード中尉が1864年11月21日に江ノ島遠乗りの帰途、浪人2人に襲われ、殺された。鎌倉英人殺害事件。/犯人清水清次は一ヶ月後捕まり、横浜で処刑された。もう一人の犯人間宮一は翌年10月に江戸で自首し、横浜で処刑された。










しんかがく 69

2012-09-12 09:00:00 | colloidナノ
第2章 「攘夷に揺れる在留外国人」 1860-1862

 去る12月25日と26日の夜長崎町内に大火が発生して、またも外国人が犠牲になりました。それから1月3日には、横浜と呼ばれるようになった神奈川でも外国人居留地が全焼しました。

1860年6月20日

 時々日本に関する大作の著者、P・F・シーボルト准男爵の訪問を受けます。彼の大著は厖大なエネルギーを消耗したものに違いありません。あまりにも嵩が大きいので、誰もが読みそうな本ではありません。
 シーボルト自身によれば、彼の来日は著作の完成のためであり、オランダ貿易会社の顧問だからだそうです。言い替えれば、私の職権は閣下の意見を強請することができるのです。閣下はオランダ政府と雇用関係を結んでいないので、政府の財政と資産についての発言権は持っていないのです。先生は自著の完成のために滞日している1民間人にすぎないのです。これがありのままの真実です。

 フォン・シーボルト氏は64歳で、決して鋼のように頑強な老人だとは言えませんが、復活祭の第一日目の休日に朝8時から夕方6時まで、出島の住人たちと一緒に山中を闊歩して、20歳の青年のような健脚を誇りました。
 先生は13歳になる息子を連れてきています。よい少年ですが、日本でパパと暮らすよりも、わが家でママの傍にいたい年齢です。老学者との滞日生活はあまり愉快ではないと思います。


1861年1月28日

 ドクトル・ポンペは日本人のために長崎に病院を建設中です。彼がトーンの検眼鏡を引き取ります。検眼鏡も補給物質もまだ就いていません。

1862年5月24日

 フォン・シーボルト氏があなた方を訪問するでしょう。先生はたいへん礼儀正しい人ですから、丁重に迎えてください。彼は老獪な古狐ですから、用心してください。

 今トーンの返事を待っているところです。
あなた方はトーンの離国の話には乗り気になれないでしょうが、これは彼がよい収入を得る絶好のチャンスです。

注)ポンペは自分の後任に海軍軍医ファン・マンスフェルトを推挙したが、総領事デ・ウィットの勧告にもとづき、蘭印総督府はこの任命を拒否した。アルベルトは兄トーンの来日意志の有無を打診した。フォン・シーボルトがボードウィン家を訪問する主な要件と考えられる。


1862年6月21日

 5月2日付けのトーンの返事の趣旨は、つまり休職が認容されたら、1862年11月1日までにご来臨を期待してよいと解釈します。小生はまことにかたじけない光栄と存ずる次第でございます。
 さて、このご来駕は彼自身のためにも絶好の機会であることは確かです。3年の歳月は瞬く間に過ぎ去るでしょう。彼が命を全うしてくれたら、貴重な金の塊のように、私が責任を持ってあなた方のもとに彼を送還してあげますよ。・・・・トーンは私よりも時間の余裕が得られるはずです。

1862年9月8日

 最近ドムスが帰国したけれども、それは到底一緒に暮らしていたトーンが残していく空虚さを埋めるものではない。トーンの離蘭は大きな痛手である。彼には家に留まっていてほしい。この気持ちは私もよく理解できます。
 しかし、トーン自身の立場も考慮に入れて、違った観点から考察してみましょう。彼の年収は2200フルデンで、生活費に僅かな余裕があるだけです。彼が昇給の階段を上りつめると、年収3000フルデンになります。ここまでは順調です。そして彼は55歳になり、1500フルデンの恩給を貰います。この額は、生活がどうにかやっとできるという程度です。
 ここであなたに冷静に考えて貰いたいのです。
3年間日本に滞在することによって、トーンは小さな財産を手に入れることができます。晩年にはその利息と恩給で、経済的に束縛を受けず、独立した収入を楽しめるでしょう。トーンのためにこれは何と明るい前途ではありませんか。このような好機はめったに到来するものではありません。もしトーンがこの話を断っていたら、私は彼を絶対に勘弁しなかったでしょう。
 私もまた彼の来日の長・短所について熟考してみました。
トーンの渡航があなたにどんなに大きな打撃を与えるかもよく承知していました。しかし、トーン自身が享受できる福利を思って、ためらわずに、日本政府の要請を彼に伝えたのです。彼のそろそろ小金を稼ぐ時期になったのです。

・・・男一匹の3年間の自立生活を取り持つか否かは、私の一存にかかっていました。その時私がまず第1に顧慮したことは、もちろんトーン本人の福利でした。あなたも周知のように、3年の歳月などは瞬く間に過ぎ去ります。ある日ドクトル殿は、大判小判をポケットにぎっしり詰めて、あなたのもとに帰っていくでしょう。・・・・
3年後に、トーンの帰郷に直面した時に、私はちょうど今あなたが体験している辛い思いを味わうことになるでしょう。しかし、これは人の世の定めというものです。現世を生きるには、ある程度の諦観を必要とします。それが持てないと、この世は真っ暗闇になってしまうでしょう。
 カトーちゃん、しっかりしてください。力を落とさないでください。あなたが今懸念してよりも、すべてうまくいくでしょう。・・・・


1862年10月12日
 今度の郵便でトーンの出港予定日が決まった通知を受け取りました。
10日以内に彼と対面できるので、ほんとうに嬉しくてたまりません。あれこれすったもんだのあとで、他人様の費用で、最良の手段で、トーンの広い世界の一角を見聞する希望がやっとかなったのです。彼もさぞ本望でしょう。1865年11月には、健康美に溢れ、ロシアの勲章のほかにお金の入った袋を抱えたトーンを、母国のあなたのもとへ返上いたしますよ。

1862年10月31日
 ドクトル・トーンは今日中に手紙を書く暇が見つけられるがどうか分かりません。
明日出立するポンペと引き継ぎや打ち合わせで忙しくしています。私がトーン代わって彼の日本到着を短い手紙でお知らせします。
 去る10月28日午後3時に、上海から蒸気船コロンビア号で、クルースとボルスというもう一人の男と一緒に元気に到着しました。
現在わが家は泊り客で満員です。私は急場をしのぐ応急ベッドで寝ています。クルースは明日ポンペを連れて上海へ引き返します。

彼は来週から講義を始めます。

1862年11月15日

 トーンの大佐の軍服の支払いは他の債務清算と一緒に送金します。これで金銭問題はすっかり片付いたわけですね。

明日新任の奉行が病院見学に来訪するので、トーンは優美な軍服に礼装して光り輝くことでしょう。普段にはお目にかかれない景観です。


しんかがく 68

2012-09-11 08:41:29 | colloidナノ
 幕末からの御一新は複雑系。いまだに定説があるわけでもないのだからその相転移過程は、私感というよりも史観によっている。


 「坊ちゃん」劇場では「幕末ガール」の公演が行われています。
その年表の一部を抜粋して見る。

1859年 安政6年 シーボルトが再来日し、再会。ポンペに入門  32歳 安政の大獄

1861年 文久1年 シーボルト、幕府の顧問となり、周三を通訳に上京するが程なく解任。周三は幽閉

1862年、おイネさんが娘のタダ(高子)を伴い、宇和島の宗城を訪れた際、宗城はタダを高と名付けたうえ、猶子夫人のもとに置き、16歳で嫁入りするまで大切に育てました。




「オランダ領事の幕末維新」(A・ボードウィン著 フォス美弥子訳;新人物往来社)その第一章は「開港直前の長崎来航」1859年


4月4日  3日目の航海を経て、昨日の午後日本に到着しました。
 航海2日目が数時間長かったならば、その夜すでに長崎湾に入港していて、夜半の嵐を免れていたことでしょう。
・・・・晩の8時に強風が立ち始め、やがて船は一片の木の実の殻さながら、天まで届くかと思われる激浪に翻弄されて、散々な目にあいました。怒り猛った暴風雨は翌朝の10時まで吹き荒び、船内の什器一切が振動し、船室の椅子やソファーは独楽のように飛び回りました。おかげで私は一睡もできませんでした。

・・・去る3月8日に出島の目抜きの場所が火事の餌食になりました。そして一切合切が焼けたり盗まれたのです。外国人の大半は路上に放り出されて、身の振りかたに対処するのにおおわらわです。そういう私も同じ境遇に立たされています。屋根裏の片隅なのですが、夜には屋根の裂け目から差し込む、月光の輝きを鑑賞することができます。・・・

 一本の橋で長崎と結ばれている出島は、なんの変哲もない小島です。全島が大通り一本からなっていて、幅は6ヤード、ちょうどあなたの家の玄関前の小公園の幅と同じくらいです。・・・

 日本では水が安いのでいくらか助かります。かなりうまく焼けたパンと上等な鶏肉はありますが、じゃが芋は乏しく、1ピクルが27フルデン50セントもします。いろいろな野菜が入手できるそうですが、果物の季節がちょうど過ぎてしまったと聞きました。

 日本政府お雇いできている、軍医のJohannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoortポンペ・ファン・メールデルフォールトに会いました。まだ2,3年滞在する予定だそうです。
・・・・
⇒安政6年(1859年)には人体解剖を行い、このときにはシーボルトの娘・楠本イネら46名の学生が参加した。


4月27日
 学者先生のフォン・シーボルト氏もやがて来航するそうなので、出島はそのうちにお偉方で満員になり、楽園の観を呈することになるかもしれませんよ。


8月19日
 トーンと私についての日本人の見解についてお話します。
ドンデルスとトーンが共訳した本が講義に使われています。
 先日医学所の監督はポンペに私の名前を尋ねました。
 「この紳士はドクトル。ボードウィンの弟ですよ」とポンペが返事すると、この日本人学者は飛び上がって叫びました。
「あの偉い学者の弟さんですか。商人のような低い身分に成り下がっているのをそのまま見捨ておくのですか。もっとふさわしい地位をお世話できなんでしょうか。とんでもないことです。このままにしてはおけません。ドクトル・ポンペ、あなたはドクトル・ボードウィンに弟が商人になっていることをお知らせにならなければなりません。一家の兄弟のうち、一人は偉い学者、もう一人は商人だというのは困りものです。直ぐに何かの手を打たなければなりません」(この学者は松本良順とされている)

9月23日
 フォン・シーボルト氏は長崎の寺に住んでいます。私はそこをたびたび訪問しています。(8月4日に長崎に再来、始めは本蓮寺に住み、ついで鳴滝に移った。)



(5)敬作の長崎再遊学とシーボルトの再来日

 安政6年(1859年)、国禁(追放令)を解かれたシーボルト(63歳)は長男アレキサンデル(14歳)を伴って30年ぶりに再び日本の土を踏んだ。
出迎えたのは、53歳の滝、33歳のイネ、8歳のタダ、さらに、中風で体が不自由ながら鳴滝塾門弟唯一人の56歳の敬作と甥の三瀬周三等であった。「迎えるもの迎えられるもの感慨無量、只涙につぐ涙で挨拶の言葉も途切れ途切れで」あったという。(①)



 開国後の激動する情勢下、シーボルトは文久元年(1861年)3月幕府の外交顧問に任じられ、周三を通訳として伴い江戸に上った。
周三は、幕府の通訳とは比較にならないほどの正確な通訳として活躍する一方で「日本国民文化的発達史」。「日本歴史」。「幕府建設史」などのオランダ語訳に努めた。
 しかし、文久年間は尊皇攘夷運動がますます高まった時期であり、シーボルトを排斥する傾向が強まる中で翌年幕府の外交顧問を免ぜられ長崎に帰った。

1862年10月12日抜粋

 8月6日木曜日付けのカトーの便りを入手しました。
この手紙から推すと、おなた方はもう日本が未開国だと思っていないようなので嬉しく思います。
 日本人はヨーロッパ人と同様に自由で、拘束されずに暮らしています。かって存在した悪弊は1859年以降完全に廃止されていて、今や昔話になりました。それでなければ条約締結の意義がないではありませんか。

しんかがく 67

2012-09-10 09:00:00 | colloidナノ
 その誕生日を遡る事、十月十日と言われるように、事始めにおいてもその始点を見定めるのは難事である。

 コンサイス「科学年表」湯浅光朝(三省堂)を紐解いてみると、西洋史における時代区分は、歴史におけるヒューマニズムの理念に根拠づけられて、歴史を古代、中世、近代の3つの時代に分ける3分法がほぼ確立している。とか、日本史においては、原始、古代、中世、近世、近代の5区分法が一般に採用されている。等と指針が与えられている。


 私(湯浅)は、1974年に日本で開かれた第14回国際科学史会議の特別講演において、次の4区分法を提案したのだ。
①古代(Old)
②中世(Middle)
③擬近代(Pseud-Modern、Pre-Modern)⇒1543年鉄砲伝来
④近代(Modern)          ⇒1774年「解体新書」
⑤ポスト・モダン(脱工業社会)

 注目されるのは「近代科学の移植」その時代区分である。
第1期 1774-1823 「解体新書」の出版
第2期 1823-1856 シーボルトの渡来
第3期 1856-1886 蕃書調所の設立
第4期 1886-1917 帝国大学令の公布
第5期 1917-1948 理化学研究所の創立
第6期 1948-?  日本学術会議の創立

 ここでは第3期の素描を引用しておく。

①蕃書調所、長崎海軍伝習所、沼津兵学校などにおいて、洋学の教授が開始される。和算、蘭学が没落し、これに代わってアメリカ、ドイツ、フランスなどの近代科学が輸入され始める。
②1872年に学制制度頒布・・・・小学・中学・大学の学校制度が確立される。東京大学およびその前進が近代科学移植の根拠地となる。大量の外国人教授が日本に渡来、日本人海外留学生による近代科学の移植が始まる。
③数学、物理学、化学、生物学、地学、地震学、植物学、気象学、人類学など、専門学会の形成が始まる。
④試験研究機関の創立が始まる。水路局、東京司薬所、京都・大阪司薬所、東京気象台、地質調査所、陸地測量部など。



 蘭学から英学への転換 青木昆陽と野呂元丈とが、幕府の命令によって、オランダ語を正式に学習し始めたのは1740年のことであった。
それから幕末まで百年以上にわたって、オランダ語は最も重要な語学であった。それが、明治時代になると英語が主となり現在に至った。

 その転換は1854年に開国してからわずか10年ほどの間に、決定的なものになったと考えられる。


 開国直後の1850年代後半から1868年まで、明治新政府が成立する前に、幕府の招聘その他によって渡来した外人教師は、それほど多くない。
長崎医学校において西洋医学教育の学科課程を初めてつくったポンペ、イギリス公使館付きとして渡来し東京大学病院長になったウィリス、実業家として函館において23年間も鳥類の研究を行ない、ブレーキストン、幕府から招かれて東海道の鉱山開発に従事したパンペリー、幕府の開成所に招かれ、維新後は大阪舎密局の教師となり西洋化学の移植に貢献したハラタマ、薩摩藩に招かれて鉱山調査を行ない、後に工部省鉱山局で活躍したコワニエなどが代表者である。

 明治新政府の殖産興業、文明開化、富国強兵のかけごえとともに、多くの外人がかなり計画的に招かれたそのピークは、1870-1880年代の10数年間である。



 万延元年の開港後、初めてアメリカに派遣された外交使節は、新見正興を正使とする一行80名の大所帯であった。
つづいて1862年竹内下野守、1863年池田筑紫守を首班とする外国奉行の一行は、いずれも30~40名にのぼる人数でヨーロッパに渡航した。福澤諭吉などもこれらの一行に加わっている。

 学術研究の目的で幕府から派遣された最初の留学生は、1862年オランダに向かい、1867年帰国した内田恒次郎(正雄)を隊長として林研海、伊東玄白、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良、田口俊平、津田真道、西周はか6名で、内田は地理学、林と伊東は医学、津田と西は法学、榎本・沢・赤松は海軍の学術を修めた。赤松則良は西洋の高等数学を深く学んだ最初の留学生であり、西周は西洋哲学研究の最初の人となった。

 幕命によるイギリス留学の最初の一行は、1866年12月に出発した。
菊池大麓、外山正一、中村敬宇、林菫、平岡盛三郎、岸本一郎、川路寛堂、鳴瀬錠五郎、岡保義、湯浅源次、安井真八郎、杉徳三郎、福澤諭吉などであった。


 明治新政府の成立とともに、海外留学生の数はぐんと増えた。
官費、公費、私費いろいろで、1872年の調査によれば、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、オランダ、中国などへの留学生は約380名もあった。
 ところが、1873年に文部省から九鬼隆一が留学生の状況視察に派遣され、多くの留学生が学業品行ともに思わしくないことがわかり、一時全部の留学生を帰国せしめ、改めて文部省から素養あるものを選抜して留学させることになった。





 終わりに、「化学革命の主内容」の項目から抜粋しておく。

 アボガドロの仮説は、ドルートンの原子・分子論についての最後の仕上げをするうえに、決定的に重要なものであった。
にもかかわらず、1811年から1860年ころまで、約50年間も無視されつづけていた。
 これを再評価したのは、1858年、イタリアのカニッツアーロである。1860年にドイツのカールスルーエで開かれた、化学についての最初の国際会議で紹介されるまで、約半世紀も空しく埋もれていたのである。

 カールスルーエの会議は、化学界が原子量の不統一に悩んでいる時期に開かれた。
そして大した成果もなく散開しようとしている時、カニッツァーロのパンフレットが配布されたと伝えられる。
 後に元素の周期律を発見したメンデレーエフはL.マイヤーもこの会議の出席者で、このパンフレットに開眼されて正しい原子量を求めることができ、それらが彼らの発見につながったと言われている。

 空に輝く星は、どんな物質からできているのであろうか。
この秘密を解くための最初の鍵を発見したのは、ニュートンであった。1666-1667年ころ、万有引力の法則を発見したニュートンは、同じころに太陽の光をプリズムを通して分散させるスペクトルの実験をしている。


(フランホーファ線)スペクトルの発散と吸収の原理を発見し、黒線の秘密を解いたのは、ドイツのブンゼンとキルヒホフであった。1859年のことである。

 1862年に「太陽スペクトルおよび化学元素のスペクトルに関する研究」という論文を発表した。
恒星の中では、太陽スペクトルの研究がもっとも早くおこなわれ、太陽の中には30種以上の元素があることがはっきりした。鉄・ニッケル・マンガン・クロム・コバルト・炭素・カルシュウム・マグネシウム・ナトリウム・ケイ素・ストロンチウム・バリウム・アルミニウム・亜鉛・銅・銀・錫・鉛・カリウム・水素・ゲルマニウム・白金・タングステン・酸素・窒素・その他多くの元素が発見された。



しんかがく 66

2012-09-07 09:00:00 | colloidナノ
「指導者としての先生の半面」中谷宇吉郎


 先生の臨終の席に御別れして、激しい心の動揺に圧され乍らも、私はやむを得ぬ事情の為に、その晩の夜行で帰家の途に就いた。
同じ汽車で小宮さんも仙台へ帰られたので、途中色々先生の追想を御伺ひする機会を与えられた。30年の心の友を失われた小宮さんは、ひどく力を落とされた御様子で、ポツリポツリと思い出を語られた。
 常磐線の暗い車窓を眺め乍ら、静かに語り出されるお話を伺っている中に、段々切迫した気持ちがほぐれて来て、今にも涙が零れ相になって困った。小宮さんが先生危篤の報に急いで上京される途次、仙台のK教授に御会いになったら、その由を聞かれて大変愕かれて、「本当に惜しい人だ、専門の学界でも勿論大損失だろうが、特に若い連中が張合いを失って力を落とす事だろう」と云われたと云う話が出た。
 其の話を聞いたら急に心の張りが失せて、今迄我慢して居た涙が出て来て仕様が無かった。

 先生の直接の指導を受けた門下生は誰でも皆、先生の死にあってすっかり張合いを失って、何をする元気も無くなってしまった様に見える。
此の事が指導者としての寺田先生の全貌を現して居るのではないかと自分には思われる。・・・或る時先生はS教授に、「君、若い連中を教育するには、無限に気を長く持たなければいかんよ」と云われた由を、同教授から聞かされたことがある。

 先生を失って弟子達は何をする張合いも無くなる、そのような意味での指導が出来たのは、勿論先生の比類なき頭脳の力によるものであるが、今一つ、先生の心の温かみと云うものが非常に重大な役割をして居ると切に思われるのである。
 冬彦集の鼠と猫の中に、誰にも嫌われたある猫の下性を直す為に、土を入れた菓子折を作って「何遍となく其処へ連れて行っては土の香を嗅がして」やられる先生の姿が書かれて居る。
之を読んだ時に、現代の東京の生活の中で、しかも忙しかった先生のお仕事を思うと、此喩等と云う意味を全く離れて、先生の暖かいそして静かな心が実感をもって身に沁みたのであった。
 指導者としての先生の温情の一つの現れは、常に弟子達の為と云う事を第一に考えられて、御自身の仕事の都合は何時でも第二の問題とされて居た事である。先生のレーリー卿の伝記の中に、卿がゼーゼー・トムソンを指導したやり方に就いて「自分の都合丈け考へる大御所的大家ではなかった」と書かれて居るのは、私共には全く先生の姿の様に見えるのである。

 若い仲間の集まりに有り勝ちな事として、時には熱情的な興奮をもって誰かの行為に対して避難がましい話をする様な事もあった。その様な話が先生の耳に入ると、よく先生は、「相手の人の身にもなって考えなくっちや」と云われたものであった。
 其の様な一言半句にも先生は極めてプラクチカルな指示を与えられた。相手の身になって一応考えて見る事によって、つまらぬ心の焦燥を霧散させ得た経験はその後限りなくある。

 私が理研の研究室を辞して今の所に赴任した時に、先生から戴いた訓えはこうであった。
「君、新らしい所へ行っても、研究費が足りないから研究が出来ないと云う事と、雑用が多くて仕事が出来ないと云う事は決して云わない様にし給え」といわれた事であった。

 教室の創設当時の雑用に追われて居る中にも、時々先生の此の言葉が閃光の様に脳裏に影をさして自分を救ってくれた事も算へられない位である。又時には先生は極めて抽象的な言葉を用いられる事もあった。
 その時にも「それから、時々根に肥料をやる事も忘れないで」と付加された。其の様な言葉にも実は前から十分に其の意味を理解し得る様な準備はさせて戴いてあったのである。それは、雑誌許り読まずに時々本も読む事、そして出来たら専門以外の本も読む事を折に触れて注意されてあっての事である。

 私が理研に居た三年間の間に、先生の仕事を手伝った主な題目は火花放電の研究であった。
・・・「ねえ君、不思議だとは思いませんか」と当時まだ学生であった自分に話された事がある。此の様な一言が今でも生き生きと自分の頭に深い印象を残している。

 先生の論文の緒言にある様に、「フランクリンが電光の研究をして以来、その後の火花の研究は、電気計測器の発達につれて、電圧、容量、抵抗その他計測し得る量に関する研究が先立ち、火花自身を問題とする事が少なくなった」のである。



 理研時代になっての先生の火花の研究は、以前からの先生の考えを纏められる様な仕事が多かった。空気中での長い稲妻形の火花の写真を千枚以上も撮って、其の空間に於ける屈曲の角度の統計的研究は、「空気の割目」の説となったりした。
 其の中でも興味ある発見は、通常火花の形として見えるものは、火花の全貌の中で可視光線を出して居る部分だけであって、其の外に眼に見えぬ線を出して居る部分があると言う事であった。
 それは紫外線を出して居る部分であって、之は眼には勿論見えず、又普通の硝子の鏡玉で写真に撮っても写らない。然し水晶と蛍石から出来ている鏡玉を使って写真を撮って見ると、普通に見える火花の形に付加して、紫外線を出して居る複雑な形の放電路が広い範囲に亙って存在している事が見られたのである。

 先生は此の問題を更に進めて、イオン化作用(此の場合では放電作用)は起きているが、光も紫外線も出していない様な放電路が更に広い範囲に亙って存在して居る筈で、それが即ち火花の全貌であると考えられたのであった。
 所が丁度イオンの存在を目に見える様にする装置にウィルソン霧箱と云うものがある。先生は之を用いて火花の全貌を見る事を私に指図されたのであったが、自分の不勉強と留学の都合で、之は遂に実験途中で中止の形となって了った。

 最近其の写真を撮る事が出来る様になった。
結果は一番大切な点に於いては、全く先生の予期されて居た通りであった。其の結果の発表後数ヶ月の中に、殆ど同時に亜米利加と独逸とで全く同じ様な研究の発表があった。其の後先生に御目にかかった時に「あの時もう少し勉強して居ましたら、今になって数ヶ月のプライオリティ等を争わなくても、外国の連中よりも5,6年位先にあの仕事が出来て居ましたのですが」と申し上げた事があった。
 其の時は先生は余程御機嫌の良い時だったと見えて、「何、それに限らないさ、僕の所の仕事は、どれだって十年は進んで居るつもりさ」と久し振りで先生の気焔を聞く事が出来た。
 先生は小宮さんに或る時、「僕の一生は何もしなかったかも知れないが、只一つ丈安心して云える事がある。それはかうと見当を付けた事は大概はづれなかったと云う事だ」と云う意味の事を洩らされた事がある相である。直接指導を受けた門下生としては、何もかも深い思い出の種となる事許りである。

 色々の瓦斯の中での火花の形の差も、ひどく先生の興味を惹いた問題であった。実際に或る瓦斯中の火花の写真を撮って、他の瓦斯中のものと比較して見ると、多くの場合何処が違って居るのかと云う事を指摘する事は困難であるにも拘らず、火花の形全体としては、明白に区別が出来るのである。先生は之はどうも「形の物理学」が出来ていないのだから仕方がないとよく云われたのであった。

 「ルクレチウスと科学」の中にも書かれた様に、現在の科学の考え方はギリシャ時代の思考の形式と殆ど変わって居ない、もっと他の形式の物理学が成立しても良い筈で、特に全く異った文化に育まれた日本人にはそれが不可能であるとは思えないという風の意味の事を始終考えて居られたのでは無いかと思われるのである。
 近年ひどく興味を持たれていた割目の研究等も其の顕著な現れの一つでは無かろうか。その様に考えると、何だか一番大切な仕事が先生の頭の中に蓄えられた儘、永久に消えて行って了った様な気がしてならない。

 静かに先生の科学者としての生涯を思ひ、最後迄飛躍する事を休まれなかった業績を考えると、ポアンカレの場合とは少し異なるかも知れないが、吾等の船は舵を失い、吾等は明日から再び手探りの研究を初めなければならないと云う嘆きに沈むのも亦やむを得ない事と思われるのである。


 
なお、中谷宇吉郎はその意志を受け継いだかのように、「科学の方法」等の著書をもって知られている。

しんかがく 65

2012-09-06 09:00:00 | colloidナノ
「いごっそう寅彦の教え」須藤靖

 今回の東日本大震災ほど「天災は忘れた頃にやって来る」という有名な言葉を思い知らされたことはない。

 寅彦本人が書いた文章のなかで、それにもっとも近い記述は以下であるとされている。
文明が進むほど天災による損害も累積する傾向があるという事実を十分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないので、・・・

 たとえばやや大きな地震があった場合に都市の水道やガスがだめになるというような事は、初めから明らかにわかっているが、また不思議に皆がいつでも忘れている事実である。

 夕刊を見ながら私は断水の不平よりはむしろ修繕工事を不眠不休で監督しているいわゆる責任のある当局の人たちの心持ちを想像して、これも気の毒でたまらないような気もした。

 私が断水の日に経験したいろいろな不便や不愉快の原因をだんだん探って行くと、どうしても今の日本における科学の応用の不徹底であり表面的であるという事に帰着して行くような気がする。このような障害の根を絶つためには、一般の世間が平素から科学知識の水準をずっと高めてニセ物と本物を鑑別する目を肥やしそして本物を尊重しニセ物を排斥するような風習を養うのがいちばん近道で有効ではないかと思ってみた。


 今後いつかまたこの大規模地震が来たとする。そうして東京、横浜、沼津、静岡、浜松、名古屋、大阪、神戸、岡山、広島から福岡へんまで一度に襲われたら、その時はいったいわが日本の国はどういうことになるのであろう。そういうことがないとは何人も保証はできない。・・・


 富士の噴火は近いところで1511、1560、1700から8、最後に1792年にあった。今後いつまた活動を始めるか、それとももう永久に休息するか、神様にもわかるまい。しかし16世紀にも18世紀にも活動したものが20世紀の千九百何十年かにまた活動を始めないと保証しうる学者もないであろう。

 昔シナに妙な苦労性の男がいて、天が落ちてくると言ってたいそう心配し、とうとう神経衰弱にったとかいう話を聞いた。この話は事によるとちょうど自分のような人間の悪口をいうために作られてのかもしれない。この話をして笑う人の真意は、天が落ないというのではなくて、天は落ちるかもしれないが、しかし「いつ」かがわからないからというのであろう。


 しかし「地震の現象」と「地震による災害」とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても「災害」のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性があるのである。

 多くの場合に、責任者に対する咎め立て、それに対する責任者の一応の弁解、ないしは引責というだけでその問題が完全に落着したような気がして、いちばんたいせつな物的調査による後難の軽減という題目が忘れらるのが通例のようである。これではまるで責任というものの概念がどこかへ迷子になってしまうようである。



 著者の言葉も記しておこう。
我々のすぐ目の前にたちはだかっている未来に生かすべき「いごっそう」寅彦の教えは決して少なくない。
といっても高知県民以外の方々に「いごっそう」の意味を正確に理解していただくのは難しかろう。
 「理屈っぽく、人と違うことをやりたがる頑固者」と評されることもある。しかし「当たり前とされていることでも一度は疑ってみる。みんなが言っているから、ではなく自分自身の頭で納得するまで信じない」と表現するほうがよりぴったりするような気がする。」とすれば、これ自身、実は立派な科学的態度であるように思えてくる。
 寅彦は時流におもねることなく、独創的な研究を縦横無尽に展開した。ずっと後になって初めて、その先駆性が評価されたことのほうが多い。これらの事例については本書においても他の方々が様々な角度から紹介されている。・・・






しんかがく 64

2012-09-05 09:00:00 | colloidナノ
「道の手帖」を拾い読んでいる


 寺田の「科学者とあたま」には、直感が大事であると書かれていますね。
直感や違和感みたいなものは、科学の世界から馬鹿にされる傾向にあるのではないですか?」

「科学者とあたま」では、科学者は頭がいいことも必要だけど、悪いことも必要であると。

「金平糖は本当に不思議ですね。あの角の数が揃うのはなぜか、今はもう解明されているのですか?」

「烏瓜の花と蛾」をあらためて読み直しましたが、枚数制限がなかったら、どこまでも連想が展開してしてしまい、どこまでも続いていきそうな感じですね。」

「寺田は奥さんを2人を次々と病気で亡くしてしまうんですね。」

「音楽を聞きはじめたのも、最初の奥さんが亡くなったあとですね。寺田は寂しがり屋でしたから、科学という存在はとても大きかったんだろうと思います。」


「蛆の効用」という随筆に、嫌われ者の蛆虫には人間や自然がつくった汚い物を浄化する力があると書かれていますが、これを読んだ時、寺田のいった発想の転換が、・・・」


(「銀座アルプス」において、「20世紀の終わりか21世紀の初め頃までには、もう一度関東大地震が襲来するはずである」と書いています。」)
「津波と人間」にも「自然ほど伝統に忠実なものはない」

「あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えを、もう一辺ひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものである・・・」


「原発事故はなぜくりかえすのか」を読んでいると、即刻停止を声高に要求しているわけではに。自然の法則に逆らって人間が非常に巨大な能動的な装置を持ち込み、自然界を制御する方法はいずれ古くなる。近い将来収束していかなくてはいけない。」

「電車の混雑について」で、すぐに乗る人と満員電車を乗り過ごす人など性格の違いがあると書いていましたけれど、科学というのは“待ちの姿勢”で、一歩引いたところで見るのがいいのかな・・・。」


「母なる土地であると同時に、厳父としての役割・・・。宗教学者の山折哲雄さんが、「日本人の自然観」を受けて、日本人とは自然の不安定感から、無常観を自分の中に刻みつけてきた民族ではにいかと仰っておましたね。」

「地震研究とは噂や文学なども含まれる、すごく可能性のあるすそ野の広い世界ですね。」



 ここに残されているのは女性の言葉である。
その表題は「本当は怖い寺田寅彦」(八代嘉美)
「好きなもの イチゴ珈琲 花 美人 懐手して宇宙見物  物理学者・寺田寅彦が詠んだというこの句を見ると、得もいわれぬ浮遊感に襲われる。・・・以下には「寺田の“宇宙”と複雑系」さらには「物質と生命をつなぐもの」「世界は部品に分けられるか」「還元主義は旧いのか?」そして「寺田が見ていた世界とは」

 その最後には著者の希いが見え隠れしている。
「きっと寺田は待っている。私たち世界の、私たちのなかに居座る常識がひっくり返るその時を、その時に、鬼が出るか蛇が出るか。あとは見てのお慰み。そう嗤う寺田の姿が、なんだか目に浮かぶ。


「寺田寅彦の懐疑と情熱と」(内田麻理香)
「寺田の姿が立体的に映るようになった契機は、彼と三人の妻たちとの関わりを知ったときだ。寺田が最初に所帯を持ったのは、20歳のときである。

 最初の妻である夏子とは5年という短い婚姻期間であった。結婚当初、寺田は熊本、夏子は地元の高知と離れて暮らし始めた。寺田が東京帝国大学に入学したのちに同居を始めたが、間もなく夏子は結核を発病し、地元に引き取られた。夫婦が共に暮らすことができたのはわずか1年。しかし、この結婚は互いに愛情を持ち、一女をもうけるという深い縁を見せた。結核に冒された夏子は、寺田を残してこの世を去る。

 二人目の妻、寛子と一緒になったのは、夏子の死の三年後である。寛子との間には2男2女に恵まれた。そして寺田もこの間、研究者として脂ののった時期であり、物理学会の最高峰を極めた。しかし寛子も11年余ののち、病没してしまう。


 三度目の正直か、今度は妻に先立たれるという悲劇に見舞われることはなかった。しかし、別の意味で運命の女神の挑戦を受けることになる。・・・その一部には既に触れた




「才能を活かしきった人 寺田寅彦のあれこれ」米沢富美子

 「寺田寅彦の没後半世紀を経た一九八〇年代に、「複雑系の科学」が一躍世界的な注目を浴びた。
複雑系に対する厳密な定義はないが、要素に分解できないもの、分解することで本質から離れてしまうものなどを研究対象とする。生命、気象、経済、言語などが、複雑系研究で取り上げられている。

 複雑系モデルから引き出された結果が従来の“いわゆる単純系”から得られるものと違う点は、“要素”や“相互作用”のみからは予想もされなかった質的な変化が生ずることである。「質的変化の積み重ねが質的変化を生む」という部分は、唯物論的弁証法を彷彿とさせる。・・・

 複雑系の対象である気象や生命や経済については今でも十分に予測したり説明したりできないが、これはコンピューターにかけるべき“要素”や“相互作用”や“条件”
が十分につきとめられていないのが原因である。

 ドイツの物理学者マックス・プランクが量子仮説を提唱し、量子力学への第一歩を踏み出したのは1900年。
寺田が東大の物理学科を卒業したのは、その三年後の1903年だった。
 寺田はそのあと大学院に進み、「尺八の音響学的研究」で理学博士となり、1909年に東大助教授に就任。ドイツに留学し、その後ヨーロッパ各国およびアメリカを訪問して、1911年に帰国した。
 寺田は翌年からX線の結晶透過の実験に着手し、その研究結果を1913年に英国と日本の学術雑誌に発表した。この論文では、一般に「ブラック条件」と呼ばれるものに相当する結果が導かれていた。・・・・
 ブラッグ父子はこの業績に対して、1915年にノーベル物理学賞を受けた。


 デンマークの物理学者ニールス・ボーアが原子構造に関するモデルを提案したのが1913年、量子力学構築への足固めが進んでいた。アインシュタインが一般性相対性理論を出したのが1915年で、日食観測による裏づけもなされつつあった。


 私の仲間の物理学者がこれを読んで、笑いながら私に言った。「いやあ、あなたがあのように彼のために切なく思う必要はないのですよ。寺田寅彦は彼なりに自分の選択を肯定し、自分の人生に満足していたのですから」この指摘はおそらく正しい。・・・・






⑦「寺田寅彦 妻たちの歳月」山田一郎(岩波書店)


 三人の妻----肺病で一児を遺して夭逝した夏子、四児をもうけ寅彦が科学者として大成するのを支えるも、一夜にして肺炎で急逝した寛子、そして悪妻と一説には言われていた紳との歳月を、多くの資料をもとに辿り、知られざる寅彦の内面までを鮮明に照射した評伝。・・・紳は寅彦を看取った後、日記にはこう書いている。「生真面目一方の人であったが、後年大いに飄逸洒脱になったのは私のおしこみによるものだ」









しんかがく 63

2012-09-04 09:00:00 | colloidナノ
 大正十二年九月一日午前十一時五十八分、寅彦は上野の東京美術館にて遭遇した。

 「続冬彦集」の序文に「大正十二年に漸く健康を回復して、自分の専門の仕事に手を付けはじめたところへ、あの関東大震災が襲って来て、目覚めかかった自分の活力に新しい刺激を与えた」

 九月一日は土曜日で、二科展の初日の招待日であった。
朝は低気圧模様で時どき豪雨が襲ってきた。九時過ぎ小雨になったので、麹町の家を出て十時半ごろ美術館に着いた。安井曾太郎の絵などをひとわたり見て、約束していた親友の津田青楓に会った。紅茶を飲みながら津田の出品作「出雲崎の女」の裸体画のモデルの話などをしていると地震がやってきた。

 「なかなか大きいなと思って見ていた。会場の屋根が波のように揺れるのが見えた」「急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足のうらを下から木槌で急速に乱打するように感じた。」「そのうち本当の主要動が急激に襲って来た。自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。子供の時、何度か母上から聞かされていた土佐の安政地震の話を思い出した」

 気がつくと食堂は野分が吹き荒れた跡のようにテーブル、椅子は散乱し、客はみんな逃げ出して一人もいない。津田青楓はとっくに逃げている。壁面の油絵の額は大部分が落ちたり引っかかたりしている。
 外に様子を見に出た寅彦は金を払うため帰ってくると、逃げ出していたボーイが戻ってきていた。紅茶代を出すとびっくりして寅彦の顔を見た。預けてあった洋傘をもらって上野公園へ入ると、東照宮の石灯籠が全部将棋倒しに北の方へ倒れていた。大きな桜の下に早くも避難した人が集まっている。上野の山下から根津へ抜けるのは危ないと思って、団子坂から千駄木へ向かい、曙町まで帰ってきた。


 隣家の境の大谷石の石垣が半分倒壊していたが、家は無事であった。
玄関に入ると志んがこぼれた壁土を掃除していた。壁に亀裂が入っていて、瓦が2,3枚堕ち、居間の唐紙は全部倒れたが、家全体には異常はなく怪我人もなかった。
 下町の方の空を見ると、火事の煙が渦を巻いて見る見る積雲になって湧き上がる。写真で見る桜島の噴火のようだ。大学の西田助手、藤田助手が来て図書館、法文科、山上集会所が全焼、理学部の数学教室も焼けているという。夜になって大学の赤門から入って行くと物理教室がまだ燃えていて、理学士が二人、バケツで水をかけていた。消防士は全く見えない。十一時過ぎ帰る。「電車通りは避難者の露宿で一杯であった。・・・・真赤な雲の上に蒼い月が照らしていた」


2日(日)曇。
 朝大学へ行く。
焼け跡を見て、本郷通りから湯島天神、松住町まで行くと浅草、下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と炎の海である。浅草茅町の志んの実家を見に行こうと思ったが到底行けそうにもない。お茶の水、駿河台、神保町、九段上、神楽坂、飯田橋、安藤坂と歩いて、地震と火事の惨状を詳しく見た。科学者と文学者の目と足である。
 帰ってみると、志んの叔父酒井米次郎一家が避難して来ていた。父の酒井清兵衛と娘の亭子も来た。何一つ持ち出す暇もなく、昨夜は上野公園で露宿したという。曙町一帯も火事に備えて立ち退きの用意を始め、国沢健雄の家からは寺田へ荷物を運び込んで来る。東一と正二も手伝った。寅彦は何も持ち出すものはないが、自分の描いた絵だけは少し惜しい気がした。往来は縄張りをして辻つじに見張りが立ち、鳶口や棒を持った人々が巡回し、流言が飛びかっていた。「とまった人は13人」

 寅彦一家は母の亀はじめ女中を入れて10人、避難の13人を入れて、総計23人が幾つもの部屋で雑魚寝をして、不安な一夜を明かした。志んの妹の健子は行方不明である。
コの字型の地震に強く、部屋数の多い家を造った寅彦の深慮がものをいった。

 「大震災は私(森貞子)が結婚する前の年でしたが、母はいかにも江戸っ子らしくテキパキとよく働きましたよ。おばあさん(亀)やあ私たちにも気を使って、20人以上のお食事の仕度やお洗濯やらで、働きづめでした。父も母をやさしくいたわっていましたよ」

 3日の朝、寅彦は大学へ出かける前に、東一に板橋へ行かせた。地主の白井辰五郎に頼んで白米や野菜、塩などを調達するためである。大学の帰り、寅彦はミルクや煎餅、ビスケットを買ったが、すでに食糧難が起きているのを見て、志んたちに片栗粉、鰹節、梅干、缶詰などを買わせる。「20余人の分だからこの準備はやむおえない」

 4時、白井が米、さつま芋、大根、茄子、醤油、砂糖などを車で持ってきた。隣家の高木、田丸教授宅などへお裾分けした。
酒井家出入りの植木屋が来て、志んの妹大谷健子が避難の途中、御成街道で行方不明になったという。

 「昂宿スバルが輝き秋風が吹き夜中は冷涼」

5日
 寅彦も健子の詮議に行く。彼女は妊娠9ヶ月で脚気だという。上野桜木町の交番、赤十字出張所、区役所出張所、上野警察署などを訪ねたが分からない。正二が白山の佐野病院に行って、看護婦に2日に上野で健子に会ったという話を聞いてきた。同時に今福忍夫妻が中新田の家で圧死したことが分かった。
 健子は無事、東京府庁に収容されていたが、今福夫妻の死は志んに大きな衝撃を与えた。夫人の琴子は志んの叔母だったのである。


大晦日の日記
 朝第9シンフォニーをかける。
銀座へ出て、十字屋で指揮棒を買う。日記の末尾に「大正十三年の主な事」を書く。

 メモで二十五件列記している。理科学研所員になったこと。中谷宇吉郎を助手に採用。地震研究所の設立、気象学講義をやめ実験だけ担当、海軍航空船爆発事件の究明などの他、小宮豊隆の帰朝、東一の一高入学、貞子の結婚、冬彦集、藪柑子集の再版、入れ歯の治療、栄養がよくなり元気回復、神経過敏が少なくなったなどの記述の後に次のように書いている。


 要するに今年は数年来眠っていた活力が眼をさまして来たような気がする。いつも元気で気持ちが明るかった。学校の食堂でもいつも愉快に人と話ができた。人の悪口などが気にならならなくなった。・・・

文献  「寺田寅彦 妻たちの歳月」山田一郎(岩波書店)


しんかがく 62

2012-09-03 09:00:00 | colloidナノ
 「もう7ヶ月を過ぎたというのに、地震と津波と原発事故に見舞われた3月11日の衝撃が念頭を去らない。山積する復興のための課題を前にして、たいしたこと何もできない自分を歯がゆく思っている。
 こんなときは寺田寅彦に相談するに限る。
彼の時代にも、浅間山が火山爆発を繰り返し、東京が関東地震に襲われ、三陸沖地震による津波で多数の死者を出すという天才が頻出した。彼はその1つ1つを点検しながら、「地震雑感」「津波と人間」「天災と国防」「災難雑考」など数々の文章によって警告を発してきた。・・・

 「地震雑感」において、「ただもし、百年に一回あるかなしの非常の場合に備えるために、特別の大きな施設を平時に用意するという事が、寿命の短い個人や為政者にとって無意味だと云う人があらば、それはまた全く別の問題になる」と記し、「この問題に対する国民や為政者の態度はまたその国家の将来を決定するすべての重大なる問題に対するその態度を伺わしむる目標である」として文章を終えている。・・・・」(池内了)




晩年における寺田もシニカルになって、「いつ災難が来てもいいように防衛の出来ているような種類の人間だけが災難を生き残る」・・・


「何かしら尤もらしい不可抗力に因ったかのうようにい付会してしまって、そしてその問題を打ち切りにしてしまう」(「災難雑考」)


 「天災は忘れた頃にやって来る」防災への警句としてあまりにも有名な言葉。
実際にはこの通りの記述は残っておらず、随筆「天災と国防」の一節を弟子の中谷宇吉郎が要約したとされる。
 寅彦は大正十二年の関東大震災時には震災予防調査会の震災特別委員として被災地を視察、その後も三陸地方を襲った大津波(昭和八年)や静岡地震(昭和十年)では現地の視察を行う等、自然災害に対して人がどのような意識をもつべきかを実地で学び、火災論の講義や防災に関する執筆を通じて警鐘を鳴らし続けた。


 「柿の種」にある「崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た」・・・担当編集者の小宮豊隆宛の手紙には「夜ねると眼の前に焼け跡の光景ばかり浮かんで焼死者や水死者の姿が見えて仕方がない」


 浅間山の噴火を書いた「小爆発二件」のなかで「正当に怖がること」・・・


 「銀座アルプス」において、「20世紀の終わりか21世紀の初め頃までには、もう一度関東大地震が襲来するはずである」・・・

「津波と人間」にも「自然ほど伝統に忠実なものはない」・・・

「災難雑考」「あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらかでも軽減しうるものだという考えをもういっぺんひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものである・・・」


 「日本人の自然観」「日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもってわれわれを保有する「母なる大地」であると同時に、またしばしば刑罰の鞭を揮って吾々のとかく遊惰に流れやすい心を引き堅める「厳父」としての役割をも勤めているのである」

文献  kawade「道の手帖」『寺田寅彦』いまを照らす科学者のことば

しんかがく 61

2012-09-01 09:00:00 | colloidナノ
まねかれてのオフ会に備え、道後村の事項を整理してみようと思ったものだ。

その象徴である道後温泉本館が完成した翌年、1895年に夏目金之助が着任した。
 日清戦争さ中の事である。        




 「当時にしてみればバリバリの学士で、大学でも評判のよかったという人が、何も苦しんで松山くんだりまで中学教師として都落ちをしなければならないわけはなかったらしいのです」と「漱石の思い出」にはある。


 小説「坊ちゃん」は、こう始まる。

「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る・・」

「どうせ嫌なものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛かったら生徒募集の広告が出て居たから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐに入学の手続きをして仕舞った。今考えると是れも親譲りの無鉄砲から起こった失策だ。・・・」


 卒業してから8日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出かけて行ったら、四国辺りのある中学校で数学の教師が入る。月給は40円だが、行ってはどうだと云う相談である。
 おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。尤も教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、此相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。是も親譲りの無鉄砲が祟ったのである。



 天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに癇癪に障らなくなった。
学校へ出て見ると、生徒も出ている。なんだか訳が分からない。それから3日ばかりは無事であったが、4日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。
此住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと10分ばかり、歩いて30分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊郭がある。おれの這いった団子屋は遊郭の入口にあって、大変うまいと云う評判だから、温泉に行った帰りがけに一寸食ってみた。・・・



 団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭いと云うのが評判になった。何の事だと思ったら、詰まらない来歴だ。・・・


 まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣かして、流しをつけて8銭で済む。其の上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へ這いった。すると40円の月給で毎日上等へ這いるのは贅沢だと云いだした。余計なお世話だ。
 まだある。湯壷は花崗岩を畳み上げて、15畳敷き位の広さに仕切ってある。大抵は13,4人漬かっているがたまたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺りまであるから、運動の為に、湯の中を泳ぐのは中々愉快だ。・・・


 学校へ出て見ると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるのには驚いた。何だか生徒全体がおれ一人を探偵して居る様に思われた。

くさくさした。・・・                                                        


                       

 さて、それにしても漱石自身の松山行は最大の謎だとされている。その謎解きは公案にあったらしい。



 円覚寺塔頭、帰源院に参禅したのは前年末からの15日間。つまり1894年12月も末からの15日間とされている。


 『父母未生以前の本来の面目如何』
禅問答の第一課題は己事究明、つまり自己とは何か?から始まるらしい。


 1895年1月7日の漱石を彷彿とさせる、それが「門」の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸の人であった。つまり山門までたっどりつきはしたが、その山門の閂は誰も開けてはくれないしそれを自ら開けるだけの知恵も持ち合わせてはいないとしったのだ。



 そんなことがあっての3ヶ月後に松山への赴任となるのには、菅虎雄の斡旋によったのだが。




 今境内には、「仏性は白き桔梗にこそあらめ  漱石」の碑が建立されている。  


 本堂には額装された漱石直筆の書簡と文人画がある。
その由来について富沢宗純住職は、漱石と帰原院の因縁について語る。「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」を読んだ親父が、漱石先生に手紙を送ったんです。


 宗純住職の父、珪堂(敬道)氏は兵庫県生まれ。
神戸の祥福寺で修行時代、手紙をきっかけに招待されるほどの仲になった。もっともそのきっかけをは鬼村元成が1914年4月に送った手紙から始まったのだが。
 1916年の10月に名古屋で行われた「雲水の修行会」の参加の機会を捉えて東京まで足を伸ばしたのである、漱石宅にて1週間過ごした。
 その頃の漱石は「明暗」の執筆と南画等を日課としていたのだが、あの『則天去私』もまたこの頃の作である。
 それから10年ほど後に、親父は帰源院の住職に就きましたが、漱石先生の参禅は全く知らなかったようです。

 玄侑宗久は、公案について「善悪、美醜、尊卑そして異同というような二元論を超えた絶対的自由の地」と説く。


 「渋柿」は『夏目漱石追悼号』(1917年2月)は発行した。
そこに寺田寅彦は14首の歌を詠んでいる。

或時は空間論に時間論に生まれぬ先の我を論じき


 寅彦は漱石への哀悼の気持ちを表す歌のひとつに、2年前、相対性理論について語り合った思い出を詠みこんだのである。
そして奇しくも、アインシュタインが「アナーレン・デル・フィジーク」に「一般相対性理論の基礎」を発表したのは、漱石が亡くなる1916年の事であった。


 参考記事  「愛媛新聞」2006年1月15日(21面)「坊ちゃん」百年