第3章「外国艦隊と雄藩の衝突」
1863年2月7日
私自身が荷積した、バタヴィア行きのカリプソ号がガスパル海峡で座礁しました。これでまた大金を失ったのですが、まあまあよかったと思います。スハウテン・ファン・ドルト青年をはじめ、15人の日本人が船客だったのです。
全員の生命が助かったのは何よりの幸いでした。カルスト船長のテルテーナ号で、日本人一行は残りの航海を続行します。一行の中には何人かの医者が含まれています。学問を修めた者として、日本に留まり国のために尽くすべきなのですが、彼らはまだまだ学ばなければならないことが一杯あるのです。
1863年4月10日
英国政府は15雙編成の艦隊を江戸へ派遣します。司令官が日本政府にリチャードソン氏殺害への謝罪賠償を請求する意向だそうです。その請求額は英貨の12万5千ポンドと聞きますから、日本も支払いを渋ることでしょう。
⇒中国派遣艦隊。司令官クーパー提督が率いる艦隊で、薩英戦争と下関事件に関係した。/英国公使オールコックは帰国中で、代理公使ニールが交渉にあたった。英国政府は日本政府に償金10万ポンドとリチャードソンの遺族や負傷者のために2万5千ポンドを要求した。
ポンペはヨーロッパに失望して、あのまま日本滞在を継続していた方がよかった、と書いてきました。
1863年4月28日
日本の険悪な情勢に関する新聞記事を読むあなた方が、決していらない心配をしないように前もって注意するために、この手紙をしあためています。ニュースは誇張されるのが常で、必ずしも信頼できる筋から出るものばかりとは限りません。
1863年5月13日
ここ2,3日間、日英間の戦争が勃発する危惧が拡大していると報告しなければならないのは、実に不愉快なことです。
オランダ船のマリア・テレジア号が停泊しています。私はできるだけたくさん物資を積み込み、出島の住民たちと弾丸の届かない中国へ渡ろうとしています。中国で事の成り行きを観測しましよう。
この手紙の本志はあなたに日本の実情を諒解していただくこととです。新聞のむだ口に惑わされないでもらいたいのです。珍事が突発しないかぎり、私たちオランダ人は悠々と身の回りの荷物をまとめる余裕が与えられています。そのうち中国からお便りします。
1863年6月1日
あなたの手元の新聞は日本の戦争、陸戦、海戦、砲撃を報道する記事を満載していることでしょう。しかし実際には、日本では一発の弾丸も発射されず、一本の日本刀も抜かれず、平穏無事だというのがこの瞬間の状況です。
私たちは元気でいます。日英紛擾事件のおかげで、私の家財はまだ路上に野放しになっています。
1863年9月1日
鹿児島で英国艦隊は薩摩の砲兵隊と衝突しました。英国側は戦艦乗組の大佐と中佐二人をはじめ、およそ50人の死者を出す損害を受けました。艦隊はいったん神奈川に撤退しましたが、この争いはまだ続行するでしょう。
⇒薩英戦争 8月15日砲撃が開始された。/11月に和議が成立し、両者は進んで親交を加えた。英国はそれまでの幕府支持の態度を捨て、積極的に薩摩藩を支援し、薩摩藩も攘夷論を捨て、開国進取の態度をとるようになった。
8月16日に台風が襲来し、私の前歯4本が危うく喉元に引っかかるほど吹きまくりました。次の日は風向きを変えて、つけ上がって生意気なトーンを突き戻し、厳しくたしなめました。今は跡形を残さず引き揚げて、まるで何ごともなかったようです。その手際のよさに私も舌を巻きました。
1864年5月31日
日本はちょこちょこ港を閉鎖するぞと脅かしますが、それは到底無理な話で、実行できるはずはありません。
2艘のオランダ軍艦が英国艦隊と行動を共にして、2,3ヶ月間瀬戸内海を通行する計画が立てられています。長門藩主を制裁する意図を持っています。日本側が自ら手を下して、適切な処置を取らない場合のことです。日本では日本刀や武器を使わない、文書面の格闘が盛んなようですから、計画実施の可能性もおおありです。
⇒毛利敬親藩内の尊攘派が主導権を握ったので、攘夷論を支持した。長州藩は、1863年7月8日に下関海峡通航のフランス艦キャン・シャン号、11日オランダ軍艦メデユサ号、15日アメリカ軍艦ワイオミング号を砲撃した。/英仏蘭米四国は連合艦隊を編成し1884年9月5日下関で報復砲撃を敢行した。いわゆる下関事件である。
1864年12月26日
横浜の近郊で、2人の英国士官が日本刀を差す日本人にすこぶる残酷な手段で殺されたことを聞きましたか。
さて問題は、英国がこの殺人事件にいかに対処するかです。
今日まで20人のヨーロッパ人が卑怯な連中によって次々とあの世に葬られてきました。英国人の我慢にも限度があります。下手をすると、1865年の春には、この不穏な情勢が底なしの泥沼に突入して、際限ない動乱に発展する恐れがあります。
⇒ボールドウィン少佐とバード中尉が1864年11月21日に江ノ島遠乗りの帰途、浪人2人に襲われ、殺された。鎌倉英人殺害事件。/犯人清水清次は一ヶ月後捕まり、横浜で処刑された。もう一人の犯人間宮一は翌年10月に江戸で自首し、横浜で処刑された。
1863年2月7日
私自身が荷積した、バタヴィア行きのカリプソ号がガスパル海峡で座礁しました。これでまた大金を失ったのですが、まあまあよかったと思います。スハウテン・ファン・ドルト青年をはじめ、15人の日本人が船客だったのです。
全員の生命が助かったのは何よりの幸いでした。カルスト船長のテルテーナ号で、日本人一行は残りの航海を続行します。一行の中には何人かの医者が含まれています。学問を修めた者として、日本に留まり国のために尽くすべきなのですが、彼らはまだまだ学ばなければならないことが一杯あるのです。
1863年4月10日
英国政府は15雙編成の艦隊を江戸へ派遣します。司令官が日本政府にリチャードソン氏殺害への謝罪賠償を請求する意向だそうです。その請求額は英貨の12万5千ポンドと聞きますから、日本も支払いを渋ることでしょう。
⇒中国派遣艦隊。司令官クーパー提督が率いる艦隊で、薩英戦争と下関事件に関係した。/英国公使オールコックは帰国中で、代理公使ニールが交渉にあたった。英国政府は日本政府に償金10万ポンドとリチャードソンの遺族や負傷者のために2万5千ポンドを要求した。
ポンペはヨーロッパに失望して、あのまま日本滞在を継続していた方がよかった、と書いてきました。
1863年4月28日
日本の険悪な情勢に関する新聞記事を読むあなた方が、決していらない心配をしないように前もって注意するために、この手紙をしあためています。ニュースは誇張されるのが常で、必ずしも信頼できる筋から出るものばかりとは限りません。
1863年5月13日
ここ2,3日間、日英間の戦争が勃発する危惧が拡大していると報告しなければならないのは、実に不愉快なことです。
オランダ船のマリア・テレジア号が停泊しています。私はできるだけたくさん物資を積み込み、出島の住民たちと弾丸の届かない中国へ渡ろうとしています。中国で事の成り行きを観測しましよう。
この手紙の本志はあなたに日本の実情を諒解していただくこととです。新聞のむだ口に惑わされないでもらいたいのです。珍事が突発しないかぎり、私たちオランダ人は悠々と身の回りの荷物をまとめる余裕が与えられています。そのうち中国からお便りします。
1863年6月1日
あなたの手元の新聞は日本の戦争、陸戦、海戦、砲撃を報道する記事を満載していることでしょう。しかし実際には、日本では一発の弾丸も発射されず、一本の日本刀も抜かれず、平穏無事だというのがこの瞬間の状況です。
私たちは元気でいます。日英紛擾事件のおかげで、私の家財はまだ路上に野放しになっています。
1863年9月1日
鹿児島で英国艦隊は薩摩の砲兵隊と衝突しました。英国側は戦艦乗組の大佐と中佐二人をはじめ、およそ50人の死者を出す損害を受けました。艦隊はいったん神奈川に撤退しましたが、この争いはまだ続行するでしょう。
⇒薩英戦争 8月15日砲撃が開始された。/11月に和議が成立し、両者は進んで親交を加えた。英国はそれまでの幕府支持の態度を捨て、積極的に薩摩藩を支援し、薩摩藩も攘夷論を捨て、開国進取の態度をとるようになった。
8月16日に台風が襲来し、私の前歯4本が危うく喉元に引っかかるほど吹きまくりました。次の日は風向きを変えて、つけ上がって生意気なトーンを突き戻し、厳しくたしなめました。今は跡形を残さず引き揚げて、まるで何ごともなかったようです。その手際のよさに私も舌を巻きました。
1864年5月31日
日本はちょこちょこ港を閉鎖するぞと脅かしますが、それは到底無理な話で、実行できるはずはありません。
2艘のオランダ軍艦が英国艦隊と行動を共にして、2,3ヶ月間瀬戸内海を通行する計画が立てられています。長門藩主を制裁する意図を持っています。日本側が自ら手を下して、適切な処置を取らない場合のことです。日本では日本刀や武器を使わない、文書面の格闘が盛んなようですから、計画実施の可能性もおおありです。
⇒毛利敬親藩内の尊攘派が主導権を握ったので、攘夷論を支持した。長州藩は、1863年7月8日に下関海峡通航のフランス艦キャン・シャン号、11日オランダ軍艦メデユサ号、15日アメリカ軍艦ワイオミング号を砲撃した。/英仏蘭米四国は連合艦隊を編成し1884年9月5日下関で報復砲撃を敢行した。いわゆる下関事件である。
1864年12月26日
横浜の近郊で、2人の英国士官が日本刀を差す日本人にすこぶる残酷な手段で殺されたことを聞きましたか。
さて問題は、英国がこの殺人事件にいかに対処するかです。
今日まで20人のヨーロッパ人が卑怯な連中によって次々とあの世に葬られてきました。英国人の我慢にも限度があります。下手をすると、1865年の春には、この不穏な情勢が底なしの泥沼に突入して、際限ない動乱に発展する恐れがあります。
⇒ボールドウィン少佐とバード中尉が1864年11月21日に江ノ島遠乗りの帰途、浪人2人に襲われ、殺された。鎌倉英人殺害事件。/犯人清水清次は一ヶ月後捕まり、横浜で処刑された。もう一人の犯人間宮一は翌年10月に江戸で自首し、横浜で処刑された。