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Thomas Graham ⑩

2011-08-19 09:00:48 | colloidナノ
この時代に生まれた他の研究からはリン化水素に関するりっぱな研究と、シュウ酸、硫酸、リン酸および硫酸塩、塩化物の組成についてのみごとな研究とを述べるだけにしておこう。前者においてはHeinrich Roseハインリッヒ・ローゼによって既にしらべられた自然発火性のない気体と同じ組成をもっているリン化水素ガスの自然発火性が他の化合物の存在に関係があること、およびこの気体の自然発火性を除いたり再び与えたりできることを証明した。
事実、その後Paul Thenardポール・テナールの液体リン化水素に関する注目すべき研究においてその明確な証明が得られた。

塩類についての研究で、グレーアムがさきに行った観察が、なかでもマグネシウム属のリン酸塩と硫酸塩とについておしひろめられた、すなわちかれは多数の塩類の結晶水の測定を行ったのである。今日われわれが考えているようなこれらの属の塩類の形に関する資料の大部分はこの重要な研究のなかに含まれている。

1840年代には、この略伝では題目だけしかあげられないほど多くの小さな研究が行われた。
新しい測熱的研究によってなされた硫酸塩の組成についての報告、塩素酸カリの製法についての報告、化合熱の研究、ガス工場の石灰残渣の利用についての論文、Newcastleニューカースルの炭坑の中の可燃性蒸気の組成について、新しいユーデイオメトリー法について、そして最後にややおくれて発表されたエーテルについての研究、等はかれの研究がいかに多方面にわたっているかを示すものである。


グレーアムの最大の研究であって、この研究者の特異な才能、自然観察のすばらしさ、かれの方法のしっかりした理論、強靭であって困難にあってくずれない不屈不ぎょうさを特にはっきり反映している研究が分子化学の分野で行われた。
30年以上ものあいだ継続されたこの分野での一連の数多くの実験的研究は、それらの一つ一つにやがておのずからなるみのりが約束されていて、グレーアムがそこに打ち立てた記念碑に刻まれたかれの名にはずっと後世の子々孫々も賞賛を惜しまないであろう。



これらの研究の大部分は気体および液体の拡散現象がその対象となっているが、それらは輝かしさによって幻惑させたり、複雑さによって悩ましたりするような種類のものではぜんぜんない。

しかし、いわゆる生命現象もすべて究極においては化学変化にもとづかにものはないということ、生きている動植物体のすべての点において間断なく大なり小なりはっきりした化学作用がおこなわれていると、、すなわち生命そのものが物質の授受であって、これらの授受が筋肉と上皮細胞組織によって仲介された物質の移動すなわち拡散によるものであるとみなされることなどを考えるならば、実験科学のこの分野の非常な重要性がわかる。このように植物や動物の生理学が十分に進展すれば必ず拡散現象につきあたり、その背後には組織成分の内部における変化があるだけであって、いつでもこの点でグレーアムが画期的な開拓をして後世に残した重要な足跡にであうであろう。いつの日か生体内の分子現象を解明しつくすような生理物理学や生理化学の完成が実現するときがあれば、そのときは、そのなかでグレーアムの名はだれよりもまず第一の先駆者としていつまでも残ることであろう。

これに属する研究の先駆けは、既に1836年にだされた気体の拡散についての有名な報告に始まっている。水素を満たしたひびのはいった円筒を水槽の中へ倒立させるとその円筒内の液面は外側の水面よりも高くなることを発見したDoebereinerデベラネイルのただそれだけの経験を基にして、グレーアムは水素および酸素が細いすきまを通って薄い膜になって真空中へ流れ込む(奔出effusion)速さと、もうひとつ、やはり二つの気体を用いて多くの二つの研究は同一の結果に到達した。すなわち同じ物理的条件の下では、水素は4×4=16倍重い酸素よりも4倍速く動く。したがって二つの気体の流動速度はそれらの容積重量の平方根に逆比例する、それは水素は同じ容積でも16倍重い酸素分子よりも4倍速く運動することが認められるわけである。ついで、水素と酸素とについて認められたことが、他の気体にも成り立つことが知られた。

グレーアムがこの実験に用いた美しい簡単な装置は今日もなお化学の講義で一般に使われていて、気体の運動現象を学ぶ際に、空気圧力タンクに水が水素を満たしたグレーアムの拡散管のなかへ上昇していくのをみるとき、実際に、化学の入門でこの偉大な英国の学者の名に接することになる。

もう一つの、これよりもずっと後にグレーアムが行った長い毛細管と短い毛細管とを通じての気体の流失transpirationについての研究が、この気体の奔出および拡散と密接な関係をもっている。きわめて短い管からは、気体の奔出および拡散に対して成立した密度に関する法則にしたがって流出するに過ぎないが、管がだんだん長くなるにつれて、管壁の抵抗によって現象がますますはっきりしなくなり、管の長さがある一定の限界に達しはじめて、種々な気体の流速のあいだに再び一定の関係がみいだされるようになる。このような条件の下では気体の流失性は、気体の性質に関する一定不変の関係にある、すなわち気体の通過に対する毛管の抵抗は管の長さに比例することを示す。この場合、結局同一量の気体の速度は密度に直接関係するのであって、圧縮とか膨張とかによって、あるいは冷却とか過熱とかによって密度が増減するかどうかということにはぜんぜn関係しないのである。その後の重要な、O.Meyerマイエルの種々の気体の摩擦係数に関する研究やL.Meyerマイエルの種々な物質の分子容についての研究は、よく知られているグレーアムの気体の流出についての研究を根拠にしている。

放射性物質の拡散予測
ドイツ気象庁は、時間の経過とともに放射性物質が拡散する範囲などを予測、日本を中心とした東アジアの地図上で色分けして示している。

Thomas Graham ⑨

2011-08-17 09:00:25 | colloidナノ
グレーアムの化学及び物理学の分野における研究は四十年以上の長い期間にわたっている。
かれがこの期間に、Transactions of Royal Society of Edinburghをはじめとして、主としてPhilosophical TransactionsおよびProceedings of Royal Society of London、Memoir of Chemical Society、Journal of Chemical Societyに、そして最後にはPhilosophical Magazineに公表した多数の研究は、内容についてはいわずもがな、その名前を列挙するだけのことさえとてもできかねるほどである。しかしたとえ急ぎ足にすぎなかろうとも、幾つかの比較的重要なものについては一応の紹介はしておきたいと思うのである。  


グレーアムの最初の研究は古く1826年にまでさかのぼり、当時21歳の青年であったかれは、液体による気体の吸収に関する論文を発表した。
この論文につづいて、摩擦熱に関する研究、大気の有限なひろがりについて、硝石に生成について、塩類が冷水よりも温水に多く溶解するという法則の例外について、塩類溶液の結晶化に及ぼす空気の影響について、などが発表された。

 グレーアムの最初の大きい化学的研究はTransactions of Royal Society of Edinburgh、
1831年に発表された。したがってこれはまさにグラスゴウのアンダソニアン大学の実験室でのかれの研究の初なりの果実に相当するものに他ならない。

これは塩類が水と化合物を生ずるのと同じように、ある種の塩類がアルコールと化学的化合物を生成することを取り扱ったものである。この研究によって、現代の化学で一般に信じられている非常に重要な事項の一つとなっている水とアルコールとの類似性の考え方に始めてわれわれは接したのである。グレーアムはかれのこの研究のもつ大きい影響をおぼろげに感じていたかも知れないが、ユニバーシテイ・カレッジにおけるかれの後継者のProf.Williamsonウィリアムスン教授の手によってこの考えがさらに発展せられ、20年後に化学の進歩に影響を及ぼすであろうとはまさか考えなかったであろう。



グレーアムの最もりっぱな研究の一つで、この著者の名をたちまちあまねく広い世界に銘記させたものは、リン酸についての歴史的な研究であって、これは1833年に発表せられた。
この研究の全価値は直ちにそう簡単には評価できない。グレーアムが種々なリン酸の研究において発展させた見解は、われわれがはじめて化学を学ぶときに教えこまれるある種の考え方であって、酸および塩の性質に関する現今の考え方の大部分はこれによっている。これは非常に簡単であって、かってはそれ以外の考え方が存在し得たとはとうてい考えられないほどである。
しかし、グレーアムが研究した当時に立ちかえって考えてみなければならない。そのころは、リン酸の化学的性質について多くの互いに矛盾した観察がなされていて、化学者はリン酸については分析によってさえその差異を知ることができなかった。そこへグレーアムの研究があらわれて一挙にして快刀乱麻を断って解決した。

すなわち、リン酸の同一の酸化物3つの違った割り合いで水と結合すると組成の全く違った3つの酸になることがわかった。リン酸、ピロリン酸、メタリン酸の3つが三和音のように調和した響きをはじめてわれわれの耳に伝えた、そしてこれらの一部では既に以前から用いられていた名称の代表物が、こんどはさらに酸とその酸に塩を従属させた大きいグループの原型となった。それはあたかも化学者の目の前にたれさがっていたヴェールを取り除いたようであった。
それを解明しようとするすべての化学者を愚弄していたかのような現象、たとえば中性の硝酸銀をアルカリ性のリン酸ソーダと混ずると酸性の液体を生ずるようなあらゆる学者は直ちに知れる現象も、リン酸の新しい理論の簡単なしかも必然の結果となった。

グレーアムの見解のなかには、酸と金属の代わりに水素のはいった塩に他ならないという、すぐ後に一般に採用されるようになった考え方のきざしが既に認められたと信じる。すなわち当時は水素酸の理論の再喚起の前夜の状態にあったのである。

リン酸についての研究はいつまでも模範的な研究であって、原報についてそれを学ぶことは学会の若い会員たちにはどのように熱心に推薦してもなおたりない。他方またわれわれ年をとったものは、その研究の簡単さと論理的解釈とのいずれに大きい賞賛をおくるべきかに迷いつつ、時折ふりかえっては、このとうとい創造に新しい喜びを感ずるのである。
グレーアムがその際に用いた記号法は、その後多年顧みられなかったが、それと同じ記号法を、確かに幾らか異なった意味にではあるが、現代の化学で再び採用していることは今日の読者にも注意をひく。


Thomas Graham ⑧

2011-08-09 09:00:39 | colloidナノ
1850年代の中ごろに、このあくことを知らない研究者のこれまでの比較的単純であった生活条件に大きい変化が起こった。

このころ(1854年)にSir. John Hershelジョン・ハーシェル氏は英国の造幣局長の位置からしりぞいた、そして、一般の世論は、その有名な物理学者のあとにふさわしい後継者として、直ちにユニバーシテイー・カレッジの人望ある化学者グレーアムを指名した。グレーアムはかれの愛惜する地位と別れることを好まなかったけれども、政府がかれに決めた重要な名誉ある任務を回避することはできなかった。



もっともかれがついた位置は英国の学者にはふしぎな魅力をもって考えられるものであって、この位置は非常にすぐれた人材が占めたものであり、Sir Isaac Newtonアイザック・ニュートンが就任してからは常に名誉ある地位とされてきた。

グレーアムがかれにゆだねられた、その高い地位で働いためざましい活動を、この狭く限られたわくの中で示すことは困難であろう。
新しい造幣局長は、展望、専門知識、実行力、エネルギーおよび必要な場合にはゆるがせにしない厳格さを発揮して、世間の人々ばかりでなく造幣局の多数の官吏をも驚かした。このような監督もなされなかった。多くの人々にほとんど堪えがたいかにみえた。学者の造幣局長の新しがりや改革計画は、あらゆる力で反対されたに違いなかった。この伝記の筆者はそのころ英国の造幣局の公職をゆだねられていて、このようにしてグレーアムがかれの新しい位置において戦いとらねばならなかった闘争を遠方からではあたが目撃したのであった。

これらの困難を克服して完全な勝利を得て、グレーアムがかれの愛する研究室への復帰のために必要な余暇を再び見いだすようになりるまでには、数年の年月が流れた。しかし、この長く渇望していた時節もついに訪れてきた。そしてこんどは生涯における幸福な幾年かが続いた。時を移さずして、この単純なひとりもののグレーアムは、造幣局に附設されている局長官舎のなかの華麗な大広間を、いちども使わずに、直ちに適当な実験室の設備をして、そこで昔の研究に新しい熱意をもって再び着手した。

グレーアムの最もみごとな研究の幾つかはこの時代に行われた。それは全くかれのもって生まれた科学への真の愛情である。
グレーアムはもう少しも名声も地位も得ようとはしなかった。それらは早くから誰も争うことのできないかれのものとなっていた。かれの若かりし日に、極度の窮乏と最大の辛惨とに対しても不平もいわず堪えさせた自然観察だけが、今もないかれを奮起させて新らしい戦いをいどますのであった、それはかれの公職の地位や輝やかしさから、またその地位のためにさけることのできない社会的ならびに公的のわずらわしさから、かれの科学的研究をあくまでも育てあげさせたものであった。


造幣局における位置にグレーアムは死ぬまでとどまっていた。そして時間と力とを、かれの職務上の骨身を削るような仕事と、少なからず興味をひいたむずかしい科学的の問題の研究とにわけて、それらの解決をかれは自らの人生の課題とした。社交にはごくわずかな時間しかあてなかった。またこの絶間ない活動を旅行や地方へでかけることなどによって中絶するようなことも滅多になかった。かれがめぐまれたいたよりもさらにつよい健康のものでも、このような努力には長いあいだはたえられなかったであろう。

8月の始めころにはGustav Magnuグスタフ・マグヌスは既にかれが病気になっているのを知っていた。しかしかれはやはりたゆまずに働いた。かれの病状は悪化した。そこでかれはMalvernマルヴァーンの山のからだによい空気のなかに、休息を求めた。9月のはじめに、14日間の旅行の終わりに、かれは旧友Dr.Henryヘンリー博士をHerefordshireハーフォードシャーの別荘にたずねた。私はヘンリー博士からグレーアムについての最後の報告をうけとった。かれは休息と自由な空気のなかでたびたび運動して驚くほど元気になったのを知った。
 

そこで計画をつづけてスコットランドの故郷へ向かって旅をのばした。しかし、それは、消えなんとする燈の最期の輝きであった。その数週間後には早くも、光栄に満ちたグレーアムの一生は終わっていたのである。
次の時代の貨幣制度の方面で行われるべき大きい改革に関する不断の仕事のさなかに、またその最後の結果をほとんど世に知らせるに至っていなかった科学的研究のさなかに、かれは死んでいった。

Thomas Graham ⑦

2011-08-08 09:00:41 | colloidナノ
かれは熱心にかれの職責に生き、文筆的労作も行ったが、さらにそれよりも多くのみごとな実験的研究に続いて従事した。それらはその後急速にあいついで行われたが、それでもなお、きわめて多方面にわたって、かれの専門の狭い範囲以外の研究にも関与するだけの時間と力をもっていた。

どのような公衆衛生の問題も、化学的原理を含む財政上の問題も、人びとはかれに相談せじにはいなかった。
また重要な化学工業の利益をかけている大きい訴訟事件でなんらかの方法でグレーアムの領分に属していないものはなかった。
さらにまた物理学や化学のみでなく、他の自然科学を関連している学会でかれの助言や活動的な助力を受けなかったものはなかった。



かれはロンドンへ移ってきてまもなく、1836年にはThe Royal Society 王立協会の会員になった。


ところが、当時、実験科学の全部門と数学とのための大きい学会の中には、個々のますます独立に発展する各部門の特殊な問題を活発に飛躍させるのに必要なさらに細かい専門の代表団体がなかった。
母国から植民地ができるように、母団体から多数の分団体が分かれはじめた。
ちょうどわれわれが2年前に集まって、われわれの美しいドイツ化学協会をめでたく創立したときにベルリンにおいてわれわれが感じたのと同じ要求が、当時ロンドンの化学者のあいだに起こり始めていた。
1841年2月23日に英国の化学者はSociety of Arts美術協会の会議室で催された会合で、Chemical Society of Londonロンドン化学協会の創設を完了した。
そして同年3月30日に学会を構成し、グレーアムは初代会長に選ばれた。


この学会の創業と建設とに、かれがどのような重要な役を受け持ったか、また、創業間もない学会に対してかれが絶えず細心の注意をもって準備した地盤から、いかに多くの花を芽ばえさせはぐくんだか、化学協会のずっと古い雑誌を通読したものはだれでも認めるにちがいない。

2年後にグレーアムは二つ目の自然科学の学会の創立に関係した。
1846年にキャヴェンデッシュ協会と命名されて生まれた学会の仕事は、その規模の大きいことにより、あるいは、挿絵の費用のかさむことによって、出版業者の手に負えない貴重な出版、特に翻訳の費用を学会によって得ることにあった。
りっぱな全書として17巻にもおよぶGmelinグメリンの古典的な著作の翻訳はこの協会の活動を示すものであって、この協会は成立の最初のときから、その運命を常任会長のグレーアムの手にまかせていた。


Thomas Graham ⑥

2011-08-07 09:00:05 | colloidナノ
現在はUniversity Collegeユニバーシティ・カレッジと称せられているが、その前身のUniversity College London ロンドン大学が新たに創設されてからまもなく、1837年のはじめに化学の教授Edward Tuenerエドワード・ターナーが死去した。
空席になった教授の位置をめぐって多数の候補者があったが、そのなかからトマス・グレーアムが選ばれた、そして同年の秋には早くもかれはテムズ河畔の世界的都市へ移って行った。この優秀な若い学者は、こんどは最初にかれのほんとうの専門領域を発見した。

その影響はまず授業に現れた。この知識欲に燃えた青年はかれがユニバーシティ・カレッジで担当していた講義の中にそれをとり入れて、そのなかで化学の基礎を厳密にしかも明瞭に、これまでに到達されていなかったところまで発展させた。この講義は雄弁に何か無用なことばを使ったり、形式にみがきをかけたり丸みをつけたりすることによって、人をひきつけることができたのではなく、またそういうことはグレーアムのほとんど考えてもみなかったことであって、かれはおよそ他人の追随をゆるさぬ方法で行ったのである。

すなわちそれは強い魅力をもって聴衆をとらえる全く哲学的な方法であって、思想の厳密な表現、材料の論理的な配列など、一言にしていえば今もなおわれわれがかれの「化学綱要」からふきこまれるところの真の科学的精神にほかならぬのであった。


著者の名を世界のすべての国々にたちまち伝えたこの著作はドイツ化学協会の会員にも非常によく知られていて、今さらかれに賛辞を呈する必要もないほどであって、この書物は数版出たが、その各版が英国で出版されるごとに、それがアメリカで忠実に翻刻して普及せられ、さらにほとんどすべての各国語に翻訳出版せられたということを指摘すればたりる。

わがドイツにおいてはFr.Jul.Ottoオットー夫人によるすぐれた翻訳がFriedlich Vieweg u.Sohnフィーヴェク書店からきわめて良心的なりっぱな書物となって刊行された。今なお最も広く普及せられかつ最も尊重せられる教科書であることは、この書物はほとんど毎年どこかの部分を改定して出版されたことや、Koppコップ、Buffブッフ、Zamminerツアミネル、Adolph Wilhelm Hermann Kolbe コルベおよびFehlingフェーリングのような人々がこの書物を重視して、その後の翻訳や補遺に力をつくしたような事情からも明らかである。



もちろんこのようにしてこの書物はその原著の性格がすっかり変わった。非常に慎重に毎年補充した材料はおびただしい量であって、そのことはとりもなおさずこの書物の価値を高めるものではあるが、そのために、原著の簡単明瞭さがぜんぜん失われないではなかった。それでこの書物がはじめて刊行されたときに示した偉大な印象を推しはかろうとするには、実際に1840年代の当初に立ちかえって、この本の初版を手にとることが必要である。


Thomas Graham ⑤

2011-08-06 09:00:28 | colloidナノ
エジンバラの滞在は努力家の青年グレーアムにとっては大いに意義があったに違いない。当時、大学の化学の教授は、Dr.Hopeホープ博士がなっていた。かれはStrontiumストロンチウムの発見者として有名な化学者であり、講義がよくわかるのと、講義実験が巧妙で精密なのとで、あらゆる点で学生の一部には評判がよかった。



グレーアムは、この名高い教授の講義に2年間も出席した。そのかたわらかれは数学と物理学をも勤勉に学んだ。そのうえ、かれはスコットランド人の有名な物理学者Leslieレスリーと交友関係を結んでいたので、それにによってかれの物理学の勉学は少なからず助けられた。
そしておそらくこれらの学者との交際が、かれが後に物理学と化学とのあいだの限界領域を特に好んで専攻したことに対して決定的な影響を与えることになったのであろうと思われる。
物質生活の外部的条件もこのころにようやく好転しはじめた。豊かな知識の資本が少しずつ利子を生みはじめたのである。

文筆的な仕事や、実際的に工業の利益を導くような研究がわずかな収入をつくった。
そしてそのころもなおやはり困窮に悩んでいた青年グレーアムが最初に得た6ギニーを母と妹への贈りものとしてグラスゴウへ送ったという感激的な物語もあったのである。

青年グレーアムは生都へ帰ったが、やはりほとんど不安定な収入によっており、それを化学や数学の個人授業でどうにか保証することができた。しかし、この若いつかれるいことを知らない勤勉な学者の仕事に早くも一般の注意が向けられはじめて、1829年にかれはポートランド街にみずから建てた小さな私立研究所を去り、それまでDr.Thomas Clarkトマス・クラーク博士が占めていたグラスゴウのMechanics Institution力学研究所の化学講師の地位についたが、もうその翌年にはグラスゴウのAndersonian Universityアンダソニアン大学の研究室に化学教授として元気一杯に働く身となった。

この地位にグレーアムは7年間とどまった。それはかれの一生の最も重要な時代に数えられる。ここでは、この時から一連の真珠のように相次いで行われた大きい実験的研究に着手するための条件が満たされた。またここで化学工業のあらゆる分野をよく知り、後年非常に都合よく利用されるようになったあの豊かな実際的経験を積む機会と余暇とをみいだした。更に、ここで最後に、数年後にようやく刊行された実にりっぱなElements of Chemistry「化学綱要」の最初の輪郭がつくりあげられたのであって、この書物からは多数の年若い化学の学徒が、はじめて化学現象というものについての概観を教えられた。



Thomas Graham ④

2011-08-05 09:00:53 | colloidナノ
家族の人びとや友人は父と子のあいだの意見の相違を調停しようと努めたが、ふたりが少しも妥協しようとしないので徒労に終わった。
そして、はじめは嘆かわしい不和の程度であったのが、やがてほんとうに絶交するまでになったので、青年グレーアムはグラスゴウでマスター・オブ・アーツの学位を得てから数年後、自然科学の研究を続けるためにEdinburghエデインバラへ移った。


このころ父はむすこから完全に手を切ったようであった。グレーアムはスコットランドの首府で圧迫と貧困とをきわめた境涯にいたが、とおとい母の献身的な心尽くしと妹の犠牲とによってようやく破滅におちいらずに済んだのであった。かれに狂信的な愛情を傾けていた妹のMargaretマーガレットは、幼いころの貯金と日々のこづかいをすっかり尊敬する兄に役立てた。


それでもやはり父との不和のこの時代は、かれにとって確かにつらい時代であった。そして後年、グレーアムが最も親しい友との打ち明け話にきわめてまれに、しかも実にいいにくそうに、若い日のこの不幸な時代追想して物語った。かれの父との完全な和解はずっと後になってはじめて成功したのであったが、それでも年老いた父にむすこの名誉を純粋な喜びをもって楽しんでもらうことはできた。


エディンバラ市街

Thomas Graham ③

2011-08-04 09:00:49 | colloidナノ

トーマス・グレーアムは1805年12月21日にGlasgouグラスゴウに生まれた。かれの父はJames Graham ゼームス・グレーアムは事業に成功した富裕な商会主であって、かれのむすこにりっぱな教育を授ける資力をもっていた。


トーマス・グレーアムの最初の教育はグラスゴウのハイ・スクールで施された。そこでかれは基礎学科の知識と数学と古典語とを身につけて早くも1819年University of Glasgow グラスゴウ大学へはいった。



われわれはほとんどことわざのようにわれらの生きがいの最も幸福な時代としている学生時代はこの早成な青年には苦悩をあたえ、それが以後の人生行路に影響を残さずにはいなかった。

子供のすぐれた才能を見のがさなかった父は、わが子を Church of Scotlandスコットランド教会へ身をささげさせたい希望を年来いだいていた。



しかしながら、青年グレーアムは早くから自然を深く観察し、既に化学と物理学にすっかりうちこんでしまっていた。かれは有名なThomas Thomsomトマス・トムスンと多くの業績をあげたWilliam Meiklehamウィリアム・マイクレアム教授との指導の下に、熱心にそれらに専念していて、かれにとってはそれらは何ものにもましてとおとく、それらを離れて生きていくことができなくなっていたので、いよいよきびしくいい渡される父の希望をみたすことができるとはとうてい思えなかった。


かくして父と子の離反という苦しい時が訪れる結果となり、そのためにそれまではあまりにも幸福であった家庭に痛ましい悲しみをひきいれてしまった。



しかし、それは実際には、後年、一家庭や狭い祖国ばかりでなく、すべての国々の自然科学者たちがその真価を認めてあらゆる賞賛を惜しまなかった偉大な業績への動機となったわけであって、それをむしろ喜ばずにはおけない。


Thomas Graham ②

2011-08-03 09:00:46 | colloidナノ
A.W.Hofman;Nekrolog.Ber.d.Deutsch.Chem.Ges.2.
753-780(1869)

これはホフマンが当時のドイツ化学会の会長として、またかつてのかれの長い滞英中の旧友としての、グレーアムの偉大さをしのびつつものしたものである。
                           (立入 明訳 櫻田一郎校閲)


トーマス・グレーアム  

マイケル・ファラデーの死によって英国の科学がこうむった大きい損失のための嘆きがまだ静まらないのに、またもや英国の学界は新たな悲しみにみまわれた。



その名声は既にわれわれの耳になり響いており、かれが世に贈った多数の重要な発見の思い出はいつまでも消えることのない偉大な学者トマス・グレーアムが本年(1869年)9月16日にロンドンにおいて死去した。

外部的に目ざましい成果をあげたことだけについて個人の一生を物語ることは容易ではあるが、かれの特異な知的天性を詳しく述べようとすれば、結局かれの知識のひろくて多方面にわたっていたことやかれの研究の結果およびその影響など化学の進歩に貢献したものを追及することになるであろうし、またかれのとおとい性格を描き出そうとすれば、この短い略伝としては当然な時間と空間との狭い制限をこえなければならないことになる。


 

アウグスト・ウィルヘルム・フォン・ホフマン



Thomas Graham ①

2011-08-02 09:00:43 | colloidナノ
悲しみと運命に耐え抜いた目ートーマス・グレアムー


これまでの「科学者の目」は、いずれも希望にかがやいたひとみをもった人たちだった。貧乏やめぐまれない運命のなかにあっても、若わかしい夢にもえた目が、キラキラ光っていた人たちだった。
しかし、これからお伝えしようとする「科学者の目」は、その少年時代からずーと、うれいにしずんだままの持ち主であった。ひとときも苦しいなやみから晴れる間もなく、まゆをひそめたまま一生をおえた科学者の目をお知らせしましょう。


その人、トーマス・グレアムは、1805年12月イギリスのGlasgowに生まれた。
父はお金持ちの商人だったので、ちいさいときからなに1つ不自由なことはなかった。そのうえ、人一倍教育熱心で、息子がふつうの子よりもすぐれていることをいちはやく見ぬいた愛情深い父親だった。
ふつうだったら、こうしたことは子どもにとって幸福のもとになるはずなのに、グレアムにとってはそれが不幸のたねとなってしまったのである。


グレアムの父は、この自慢の息子を、もっとも尊い職業だと信じていた牧師にしようと思い、期待していた。
しかし15歳の若さでグラスゴウ大学にいくようになったグレアムは、もっともどろくさい身近なものにしだいに心をうばわれていった。自然のようすをじっと観察したり、物理や化学の実験をするだびに、こういうことを自分の一生の仕事にしようと、かたく心にきめてしまったのである。


いうことをきかぬ子を父はしかった。
毎晩のようにあらそう声やおこる声が、幸福だったグレアムの家庭をトゲトゲしいものにしていった。家族やまわりの人びとが何度もなだめ、思いなおすように努力したが、父もがんこならグレアムもその決心を少しもかえようとしなかった。
そしてとうとうグレアムは家をとび出し、おこった父は、学資の仕送りどころか、家に近づくこともさえも許さなかった。貧苦と悲しみにうちひしがれながら、グレアムは化学の勉強にすすんだ。
ともすれば心がみだれ、つらさにまけそうになることが何度もあった。しかしそれにたえられたのは、父にわからぬよう便りをくれる母の心づかいと、自分の貯金を全部ささげてはげました妹の力によるものであった。
のちになってこのことを友だちに話すグレアムの顔を苦痛にゆがみ、そのほりの深い二重まぶたの目はいつもうるんでいたということである。


苦難のうちに勉強をおえたグレアムは、しだいにそのすぐれた力を発揮していった。
多くの論文とひろい分野にわたるすぐれた研究をなしとげたが、とくに物理と化学の両方にまたがる新しい学問をきりひらいた。
気体が小さなところからふき出る速度の法則や、液体がひろがるはやさの理論をはじめて見つけ出したので、それには「グレアムの法則」という名がつけられている。またお菓子のゼリーや寒天のように、どろどろしたものの特別な性質をしらべ、それをもとに「コロイド化学」という化学の一つの分野をひらいたのもグレアムだった。
このコロイド化学は今日、霧やスモッグやマヨネーズのように、気体や液体のなかにごく小さな液や固体の粒がちらばっている状態をしらべる「コロイド科学」という学問に発展しひろがっているものである。

やがてグレアムは、ロンドン大学の教授として、またロンドン化学会の初代の会長として化学の発展に力をそそいだばかりでなく、いまも模範とされているすぐれた化学の教科書をつくり、化学教育に大きな功績をのこした。
こうしてグレアムはイギリス化学界の父として人びとから尊敬をうけるようになったけれども、がんこな父との仲なおりは、死にいたるまでえられなかったのである。


この文章を読んでくれている君も、ひょっとするとグレアムのようななやみを持っているかもしれない。
そんなときは、どうかグレアムの目を見つめてほしい。うれうにくもるその目は、君に「まけるな、君の最善をつくせ」とよびかけてくれるだろう。幸いそんななやみがないなら、君はその幸福に感謝し、グレアムにまけぬ勉強を、努力を、誠実をかさねてくれたまえ。



理研ニュース⑤2004
櫻井 錠二はロンドン大学時代に錠五郎から錠二へと名前を変え、グレーアムの下にあった化学者ウィリアムスン博士から学んだ。