Ring-A-Ding 日々ロック,R&B,そしてゴスペル〜💋

おばちゃんがココロに浮かぶ由無し事を、気ままにつぶやく。ロックな時間。

SOWETO GOSPEL CHOIR

2017-10-26 04:25:49 | 音楽



実は先日真夜中に救急車で搬送された🚑

のたうちまわるほどの胃痛と下痢と吐き気で、初めは晩のおかずに自分で〆たシメサバを食べていることからアニサキスを疑われてCT撮影まで行われたけど、痛み方がどうも違うらしく、私の場合は「急性胃腸炎」ということだった。
夜の10時頃から痛み始めて、救急車に乗ったのは12時頃。病院の救急から戻ったのは、夜も開けて朝の6時くらいになっていた。
クタクタでフラフラ…。
心配して付き添ってきた夫と息子も一睡もしておらず、丁度土曜日で休みだった息子はそのまま爆睡。
夫も私も、今日は商売は休みにして「臨時休業」の札を貼るとやはり倒れこむように眠ってしまったのだった。


思い当たる節はあった。

その週末は私は予定が3連チャンで入っていた。
土曜日はゴスペル仲間と飲み会、日曜日は昼から私のいるゴスペルクアイアが毎年招待されているお祭りで3曲ほど歌うことになっており
そして、翌月曜日は川崎スポーツセンターにて行われる
「SOWETO GOSPEL CHOIR」のコンサートを観に行くことになっていた。もちろん日曜以外はすべて仕事が終わってからだ。しかし日曜も朝は早くから起きて、店の掃除をし、月曜日の準備を万端整えてから歌いにいくのだ。
私の日常の中で、それはいつものことで、今更何が大変ということもない…はずだった。

しかし私は見栄っ張りなのである。
要するに、全てが滞りなく進まなければ気が済まない。私の予定に誰にも文句を言わせたくないのだ


であるから、金曜から土曜の夕飯の材料まで買い込み、飲み会には家族の夕飯の支度まで済ませて出る計画を立てる、夫に「メシは無いのか!」と文句は言わせない。そして
飲み会の翌日でも日曜日は早く起きなきゃならない、月曜日の仕事の段取りはキチッと済ませて、余波を与えたく無い。後髪引かれたくないし。安心して、歌うときは全てから解放されて歌いたい。
昼は夫にも外食してもらうにして、早く帰って夕飯は簡単でも何にしようか、何か買って帰るか?
そして月曜日は19:00開演に間に合うように川崎に行かなきゃだから、仕事で支障があって遅れては困る、注文するものは土曜日のうちに持ってきてもらおう。何か番狂わせが無ければ良いが…。

…という風に、傍目から見れば何食わぬ顔で淡々と生活しているようだが、頭の中は滞りなく全てが進行するように我ながら涙ぐましいくらい気を配って週末を迎えようとしていた矢先だったのだ。


結局は飲み会は欠席、日曜日のフェスは迫り来る大型台風の影響で中止、と、蓋を開けて見れば、忙しいはずの週末は一歩も外に出ずの、家で炊いた新米のお粥を啜る引きこもりの結果に終わったのであった。
気負い込みというのはロクな結末を産まないのだなぁ…

開けた月曜日にはさすがに体調は蘇り、仕事もし
夕方にはSOWETOのコンサートを観るために川崎へと出かけることができた。

ふー、やっと本題ですが、

この南アフリカからやってきたゴスペルグループは
そのパワフルな歌声が全世界から絶賛され、グラミー賞、トラディショナル・ワールドミュージック・アルバム賞、アメリカ・ゴスペル・ミュージック・アワード・最優秀ゴスペルクアイア…などなど数々の賞を受賞された実力派の方々なのであります。

その名のとおり、後にアパルトヘイト政策を揺るがし、終焉させるきっかけとなった「ソウェト蜂起」の勃発したヨハネスブルグ東南にある南アフリカ最大の旧黒人居住区からやって来た。


舞台の上には小さなキーボード一台(ほとんど、最初の音合わせと、イントロを奏でる程度しか使われない)あとはアフリカンドラムと数種のパーカッションのみでほとんどアカペラで歌い踊られる2時間は…それはそれはほとばしる迫力!アフリカのビートそのものだった!

一人一人はほとんど無名のシンガーでありながらその歌声はまさにティナ・ターナーであり、ダイアナ・ロスであり、果てはマライア・キャリーである!まさに全てのブラックミュージックの源流はここにあるのだなぁー
歌詞はほとんど現地語なので、何を言ってるのかはわからないながら、ゴスペルなのだから神を称えているのだろうそして、解放され、自由を謳歌し、神に祝福され感謝するのだろう…という程度の認識で聴いていたのだが、彼らの人懐こい笑顔、全身から弾ける 彼らの生まれ持ったリズム、ビート、声量に圧倒され、最後は立ち上がって観客全員歌い踊る…というゴスペル波に乗りに乗ってしまった。
隣の夫に「今ここに、3日前に救急車で運ばれた者はお前の他にまず居ないだろう」と皮肉られながら。
(⌒-⌒; )まあねー。


私らの若い頃には(と言ってもそれ程大昔では無いが)女や妻が働く(外に出る)となると
「家事に支障が出ないのなら許す」
と言った夫や家族の上から目線の理屈がまかり通る時代があった。よく女性週刊誌などの人生相談コーナーなどでも「外で働きたいのだが、夫が許してくれません、家事が疎かになるのではと、反対されているのです…云々」などと言った相談をよく見かけたものだ。
今からしてみたらびっくりポン!(古っ)の理屈である。
が、私の意地っ張りの根底にはこんな時代の慣習が未だに刷り込まれているのではと我ながら感じる。昔の女なのだな、もはや私は。
そもそも、ゴスペルを始めた動機がこれだった。
押圧された自由。日々の生活のなかで、そこかしこで感じる差別や偏見を吹き飛ばしたい!
全ての人種の中のマイノリティである女性として!

とはいえ、家族にとってははた迷惑な見栄っ張りであるなぁ。
それでも、たまには心配かけてみるものではある。
ははっ!

https://youtu.be/wBqHWjGWN6U

不味い給食

2017-10-14 04:34:05 | 料理

不味い学校給食問題が世間を騒がせている。
私は都心で生まれ育って、小学校1年生から中学3年生まで給食で育った。
私は地元で結婚して子育てもしたので、子供達は私と同じ小学校、中学校を出た。昔も今も変わらず
給食は各学校の給食室で作られ、現在は委託された民間会社がはいっているようだが、つい10年くらい前までは「給食のおばさん」達は区の職員だった。うちの子供らは「給食の先生」と、呼んでいた。

午前中、早いうちから給食室は忙しそうで、お昼前にはいい匂いがしてお腹が"ぐー"となったものだ。
温かいものは温かく、冷たいものはまあまあ冷たかった。私達の時代にご飯は滅多にでなかったが、息子達の給食はパン食、麺、ご飯とバラエティに富み、美味しかったおかずを「家でも作って」と、どのようなものか説明されたこともある。給食の職員の方で調理上手な方まで見分けられ、その方が年度の移動で他所に移られると残念な気もしたものだ。
とにかく、献立に好き嫌いはあっても全体的に学校給食には「美味しい」という印象がある。
それだけにニュースになった学校の給食には絶句した。そして、それを食べさせられている子供達には本当に気の毒〜!あれくらいの年頃の子供はみーんな食べても食べても腹減らしなはず!それがあんなに残すなんて尋常ではない。
息子達のころ、自分の分だけでは到底足りないお代わり部隊は毎日熾烈な闘いを繰り広げていたくらいだったのに。


セントラルキッチンで作られた給食が弁当箱に詰められ
低温保存状態で運ばれてきて、それを再加熱することもなく食べるんだよね?冬もだよね?安全性重視とか?…でも酷すぎる。
ニュースの取材による子供達の話では、「弁当箱の蓋を開けるともう凄い臭いでそれだけでイヤだ」という。
「臭いメシを食う」というのは刑務所に入れられることを意味するのだよ。
いや、あれに比べたら今時は刑務所のほうがましかも(^^;)
罪もない子供達にそんな思いをさせて「食べる事→食事」に対するイメージはどんな風に影響を受けるのか心配になる。


私は子供達の弁当をのべ6年間作った。
弁当作りは嫌いではない。しかし、毎日の事となるとそうそう特別誂えも出来ず、晩ご飯のついでに弁当のおかず分も多めに作ったりして、手数を省いたりしたものだ。
詰めた当初は温かくキチッと彩りよく詰められていて、我ながら回心の出来!としても、実際子供達が食べる時にはどうなっているか。
何度か自分で作った弁当を自分で食べる事もあった。
例えば、作ったものの弁当のいらない日だったりとかして…。そして食べてみるべきだな…と思った。
自宅で食べる場合は電子レンジで温められる。しかし、あえて温めずに食べてみると…思いの外不味い。
食べ物の温度というのは大事なことなんだ。
温かい食べ物はあったかければなんとか食える。それを冷めても美味しいと感じさせるには、かなりの腕とアイデアが要る。

海苔段々のご飯も、毎日では飽きるだろう。おかずの汁気がご飯に染みるのも、種類による。脂っこい汁気は冷や飯を固まらせる。冬場は嫌だな。ウインナーなんかも意外と硬い。
食べる人の身になって作る…というのを意外と忘れてしまうんだ。よし、美味しそう!という自己満足型か、作ってやってるんだから文句言うな!という上から目線型か。
大人になると弁当なんかはコンビニでも温めてもらえるから忘れてしまうんだな。冷めても美味しいというのは難しいもんだ。


毎日の弁当というのは行楽弁当とは違う。
日常の"ご飯"なのだから。
今時は、キャラ弁とか"インスタ映え"なんかも意識するんだろうけど、忙しいお母さんに色々と期待するのもハードルが高すぎる。
いずれにせよ食事というものにはすべからく必要なのは作り手の"愛"だなって思う。
「今日、お母さんやる気ねえなぁ」っていうのだって日頃の愛情があればこそ許せるってもんだし。

この給食業者に一番欠けているのは愛情。
それを込められないのなら飲食業などやめてしまえ
どんどんこういう業者は淘汰されて然るべきだ。
そうでなければ、業者とのなんらかの"しがらみ?(今流行りの)を疑われても仕方ないよー!

そおいえば、先日、うちのファミ吉が入院した時の病院食も酷かったなぁ。

コンビニのお弁当とかスイーツとかって昨今のはホント、美味しいよね⁈それは「大抵不味いと相場が決まっているもの」に対するイメージに、たゆまぬ努力をしてきた成果だろうと感じる。そこに感動が生まれる。あれは愛情のなせる技?
確かに、あの業界は皆んなに一番愛されたものが勝ち残る世界なのだから必死になって愛されようと努力しているんだろう。働いている人達が、会社を盛り上げよう、自分や自分の家族を養うためにと、日々努力している愛情の連鎖には違いない。企業としての「愛」ってそういうもんでしよ。

弁当はまず、自分で食べてみる。
それが大事。
食べる人の身になるってことが大事なんだ。

写真は私の「夏のお茶漬け」。

ノーベル文学賞に寄せる思い

2017-10-08 20:37:24 | その他


今年のノーベル文学賞にカズオ・イシグロ氏が選ばれて世間を騒がせている。
彼は日系ではあるが、英国人だ。
私は全然知らない人だし、別に興味も持たない。ただ、ノーベル文学賞…と聞いて思い出した。
"ルビンドラナート・タゴール"
1913年(昭和16年)アジア人で始めてノーベル文学賞を受賞したインドの詩人だ。

そもそもこの人物を知ったのは医学のターミナルケア(末期医療)の分野で"聖書"といわれるE・キューブラー・ロスの著書「死ぬ瞬間(中公文庫)」を読んでいてのことである。
(何故この本を読むに至ったのかといえば、姑を在宅で看取るにあたって、当時の私は異常に「死」と、「死後」について興味を持っていたからだ。今から思うと私自身、介護による鬱とヒステリーの繰り返しで非常に参っていたのだと思う。これについてはまた別の機会に書くこともあろうから譲るとして、ここでは語らない。)

その「死ぬ瞬間」の各章ごとのとびらにこのタゴールの詩篇が綴られているのだ。


危険から守られることを祈るのではなく
恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。
痛みが静まることを祈るのではなく
痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。
人生という戦場ににおける盟友を求めるのではなく
ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。
恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、
ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。
成功のなかにのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、
自分が失敗したときに、あなたの手に握られていることを感じるような、
そんな人間になれますように。
タゴール「果実採り」より

このような長いものから

「人びと」は残酷だが、「ひと」は優しい。
タゴール「迷える小鳥」より

のような名言のようなものまで、章を読み進めるごとに本の内容もさることながら私はこのタゴールの詩篇に引き寄せられていったのである。


姑を看取った後、1年後くらいから親友Yの病状が深刻になった。同じ癌 サバイバーとはいえ、これ程の末期の友人と何を語り合い、はたして何を言ってはいけないのか?手探るようにこの「死ぬ瞬間」のページを繰った。その頃には私はもうタゴールの詩集「ギタンジャリ」をも手にしていた。
1人早朝の静寂の中で、彼女の心境を想うにつけ、何もできない自分の無力感と、彼女の亡き後に訪れるであろう孤独について想いを馳せる…。
その度にタゴールの言葉は私に寄り添ってくれるようだった。


戦前の日本で、このタゴール氏のノーベル文学賞受賞は大変な話題になり、大勢の人々が歓喜したという。
タゴール氏自身も非常に親日家で、5度にわたって来日している。しかし、当時の日本の軍国主義的な思想が濃くなるにつれ、氏は日本を批判し、憂い、そして日本側も批判を跳ね返し、とうとう決別してしまったようだった。
そんなこんなだから、戦中以後、タゴールを語ることはタブーになっていったのかも知れない。
しかし、時代は変わり、平和国家となった日本。
広島の平和公園の「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という碑文は偽りでは無いはず。


ノーベル平和賞が"活動の主導的役割を果たした"と、「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に授与された。
日本政府は米国の同盟国として「核抑止力」を全面否定する核兵器禁止条約の交渉会議には不参加、採択もしていない。
タゴール氏の愛した日本はやはり戻ってきてはいない。

原発事故が起きても、また原発は再稼働へと進む。
戦争はまた起きるのかも知れない。
知る人ぞ知るかもしれないが、今回の日系の人のノーベル文学賞受賞の話題に、かつてアジア人で初めてノーベル賞を受賞した人物の話題が端にも登らないのは私には残念でならない。

マヨラー

2017-10-07 08:46:32 | 料理


マヨネーズ好きという人がいる。
”マヨラー”とかいうんでしょ。
私はそれ程でもない。というか、むしろ余り使わない方。
この間、冷蔵庫の整理をしていて、マヨネーズの収納に疑問を感じた。
それ程使わない調味料になんか場所を取られている様な気がする…と。

私はマヨネーズはいつもドアポケットの中段の、色々な調味料やドレッシングの瓶類などを置きがちな場所に設定している。
マヨネーズの容器は私が買うのは大抵ポリ容器のもので瓶ではない。使っていくうち中身が減って来ると、逆さまにしてキャップを下に向けて置く。みんなよくやるよね。
すると、不安定なので周りの瓶類に挟まれ、瓶類が少ないと、寄りかかったり、倒れて横になったりする。横に倒れてしまって見えない時、あーれー?どこに置いたか?と一瞬探してしまうこともある。
この容器、日本のマヨだけらしいけど、ホント、便利なんだか不便なんだかよくわからん。


昔、子供の頃(1960年代後期)、同い年のいとこ姉妹の家によく泊まりに行った。そこのお母さんである叔母は、アメリカのマヨネーズを使っていた。青いラベルのベストフーズという会社の「リアルマヨネーズ」だ。もちろんいまも大手スーパーやデパ地下などで見かける。
私が子供だった頃、輸入食品を常用しているのなんてまだ珍しかった。輸入でないと手に入らない調味料ならともかく、マヨネーズはもはやキューピーが席巻していた日本で、当たり前のものになっていた。そのマヨネーズをあえてアメリカ製品を選ぶ叔母はなんかちょっと粋な感じがしたものだ。
この叔母の家は金持ちでは無いのだが、なんかちょっと違うのだった。叔母は当時専業主婦で、夏休みに泊まりに行くと、お昼ご飯のおかずにインゲン豆を茹でて、このマヨネーズを瓶からスプーンですくって乗せたのなんか作ってくれたのを良く覚えている。

当時は今のようにティッシュペーパーをパッぱか使う時代じゃなかった。でも、叔母の家の押入れには現代の様な5個パックの箱ティッシュが入っていて(銘柄はスコッティかクリネックス)、同い年のいとこ姉妹は現代の子供のように食事の時などにもパッぱかパッぱか、ティッシュを使って口や手を拭いていた。
私のウチでは、ティッシュなんて母の鏡台の横に1つだけ置かれていて、一箱づつ買ったものだった。
そういうものだと思っていた。


それから数十年。オトナになって結婚した私は、新婚の冷蔵庫を少し気取ってみたくてこの「リアルマヨネーズ」を買った。
改めて食べてみると、普段食べているキューピーよりちょっと油っぽい感じがする。少しプルンとして酸味も少ない。私はキューピーの酸っぱさが好きだなぁ…と感じて、間も無く普通にキューピーに戻ってしまった。

今は、マヨネーズもカロリーハーフとかディフェ…とかっていろいろある。AJINOMOTOとか松田のマヨネーズ、創健社の有精卵や…エゴマ油を使ったもの…などなど。だけど、私はそんなに使わないんだよね。マヨは。
パッケージをよく見てみると、「開封後の保存目安は1ヶ月です」と、ある。
えっ、普通の大きさの400gのやつ、みんな1ヶ月で消費しているの?えーっ?ほんと?
まぁ、マヨネーズが腐る程使わなかったことはいまだかつて無いが、私は毎月マヨネーズを買うことは無い。
考えてみると2〜3ヶ月にいっぺんくらいかな?
多分それでも大丈夫なんだろうけど、冷蔵庫の中で邪魔なことだし、この際、半分量の200gのにしてみる事にした。しかし、それが何とも悩ましい。というのも、値段が400gよりすこーし高いか、おんなじくらいなのである!なんでやねん⁉︎
確かにね、1kgの業務用サイズが割安ってのは分かる。でも、この程度の大きさのものでこんなに割高ってのはなんか不満!じゃ、エゴマ油製の高級な300gのやつは、というと普通の400gの物より倍くらい高い。
この値段設定、悩ましい〜(≧∀≦)要するに、沢山使ってじゃんじゃん食べる人がお得ってことね。

でも、みんな知ってるのかしらマヨネーズの開封後の保存目安って?それに、みんなそんなにマヨネーズ使ってるの〜?みんなマヨラーなんだなぁ。


何となくレトロな。