『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

水野忠重(みずのただしげ)

2019-07-17 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
水野忠重(みずのただしげ)

〔現代仮名遣い〕みずのただしげ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


宗兵衛。水野忠政の三男。

兄信元に従って織田信長に仕え、1561年から徳川

家康の臣。1575年12月一兄信元が徳川家康に暗殺

され、二兄信之が謀叛の嫌疑で自殺。弟の小河城の

忠守が追放され、刈谷城も没収されたが、1580年

9月嫌疑が晴れ、忠重が家督を継ぎ刈谷の旧領を返

還された。


1581年1月遠州横須賀城の番手として、水野直盛・

    水野忠重・大野衆が送られる。

1582年2月織田信忠は、滝川一益・河尻秀隆・毛利

    秀頼・水野直盛・水野忠重を率い、土田→高野

    →岩村と進軍。

1582年4月信州から戻ってきた信長を、知立に屋形

    をたてて一献進上。

1584年小牧・長久手の戦いに参戦。その後徳川氏の

許を去り、一時秀吉に属し武者奉行に任ぜられる。

1590年小田原の役に参戦。のち伊勢神戸四万石。

1592年朝鮮派兵に際して肥前名護屋に駐留し、同城

を守備。

1595年旧領刈屋城主に復帰。秀吉没後は家康に従う。

1600年7月関ヶ原合戦を前に、石田三成の与党加々野

江重政に刺殺される。



 ※水野家といえば、尾張と三河の間でうまく

  立ち回って財を成し、家柄を継いできた系譜

  なのに、なんで家康公も水野信元を暗殺しま

  すかね。信長公→秀吉公→家康公と仕え、最後

  は石田三成の手のものに命を奪われるという・・

  諸行無常でございます。


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