『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

丹羽氏勝(にわうじかつ)

2018-08-29 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
丹羽氏勝(にわうじかつ)

〔現代仮名遣い〕にわうじかつ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


源六・右近。丹羽氏識の子。尾張岩崎城の将。

父についで信長に仕える。

1555年6月信長の弟喜六郎秀孝誤射殺事件の後、

    守山城に籠る。

1568年信長上洛の戦いで、観音寺城を攻撃。

1569年8~10月の伊勢攻略戦に参加。

1570年8~9月の野田・福島の合戦に参戦し「川

    口」を守備。

1570年6月姉川の戦いに参戦。

1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、

    下坂本の香取屋敷を守備。

1577年3月信長の雑賀攻めに参戦し、根来口か

    ら小雑賀・紀伊川の山手に陣取る。

1580年4月信長が伊庭山の御鷹野に出かけたとき、

    丹羽氏勝の普請中の現場から信長の目の

    前に大石を落としてしまう。信長は担当

    の中から年長のものを一人召し出し手討

    ちにする。

1580年8月信長は大坂で佐久間信盛・信栄父子の

    国外退去を命じた後京都へ上り、林秀貞、

    安藤守就・尚就父子、丹羽右近の国外退

    去を命ずる。

1597年11月死去。


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