『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

武藤舜秀(むとうしゅんしゅう)

2019-09-13 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
武藤舜秀(むとうしゅんしゅう)

<現代仮名遣い>むとうしゅんしゅう


宗右衛門・惣左衛門・惣右衛門。若狭衆。のち

信長の臣。

1574年1月越前守護代前波長俊が府中富田長繁

    に攻められ自刃すると、敦賀まで差し向

    けられる。

1575年8月岐阜を進発した信長軍は、敦賀では

    武藤のところに布陣。

1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。

1575年9月戦後敦賀郡の経営を任され、在地。

1577年3月信長の雑賀攻めに参戦し、根来口か

    ら小雑賀・紀伊川の山手に陣取る。

1578年6月信忠播磨攻めに参戦し、神吉城を攻撃。

1578年11月信長の荒木成敗に参戦し、太田の北

    の山に要害造営を命じられる。太田取手

    の造営が終わると、伊丹まで進出。家臣

    の足軽が活躍し頸四つをとり、あまの信長

    の目にかける。伊丹近辺に放火し城勢の

    働きを押え、刀根山に布陣。

1578年12月毛馬取手に布陣。

1579年4月昆陽野古城の城番をつとめる。

1579年6月伊丹方面在陣の滝川一益・蜂屋頼隆・武

    藤舜秀・惟住長秀・福富秀勝に対し、信長

    から青地与右衛門を使いとして、はいたか

    三足・このり二足が送られる。

1579年7月3日伊丹の陣中で病死。


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