『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

木下秀長(きのしたひでなが)

2016-12-06 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
木下秀長(きのしたひでなが)

〔現代かなづかい〕きのしたひでなが

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


小一郎・羽柴秀長。秀吉の異父弟。

1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、

    信長の軍勢として早尾口の先陣を

    つとめる。つづいてしのはしの一揆

    を撃退。

1577年10月秀吉の播磨・但馬進攻に帯同し、

    但馬竹田城の城代として置かれる。

1580年4月羽柴秀吉の姫路攻めに帯同。英賀

    を攻略して姫路にはいった羽柴秀吉

    は、木下秀長に軍勢を預け但馬の国

    へ乱入。すぐに平定し秀長は小田垣

    に城を造営し方々に軍勢を置く。

但馬出石城主となる。1582年の本能寺の変後、

山崎の戦いに軍功があり、従五位下美濃守に

叙任。播磨・但馬の領主として姫路城に居住

した。

1583年の賤ヶ岳の戦い、1585年の紀伊根来

寺征伐に戦功をあげ、紀伊・和泉を領し、

さらに同年四国平定に大功を立て、大和の内

で加増され郡山城主となった。

1587年の九州征伐に一万六千の兵を率いて

出働。同年8月従二位大納言に叙任。大和

大納言と称された。

1590年正月ごろから病にかかり、翌1591年

正月大和郡山城で死去。



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