『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:山名氏

2016-12-25 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【山名氏の歴史】

*清和源氏新田義重の末裔。室町幕府内談衆

 頭人・侍所頭人などを歴任し、御相伴衆に

 列する。上野国多胡郡山名郷を伝領した

 ことに始まり、新田山名氏を称するも、

 当初から独立指向であり、惣領家は足利

 尊氏に従った。

*八代時氏の時代、上洛し足利尊氏に従い、

 伯耆国守護に補任され史上に名をあらわす。

 のち時氏は、足利将軍家に背き南朝を助け

 たことで錦旗を賜い、桐文を許される。が

 時氏は丹波・丹後・因幡・伯耆・美作五カ国

 の守護を幕府が許すことを条件に、二代将軍

 義詮と和解し、応安元年評定衆に列する。

*山名氏は時氏の死後も領土を拡張し、一族

 で12(11)カ国を数えるにいたり、「六分

 の一殿」「六分の一衆」と呼ばれた。

*三代将軍義満の画策により、山名一族の内紛

 発生。一族が幕府方と南朝方にわかれる。

 義満は山名氏討伐を細川・畠山・大内諸氏に

 命ずる。(明徳の乱)以後山名氏の領土は

 3カ国だけとなる。

*時熙の時、将軍義満・義持のもとで重用され、

 幕府の侍所頭人を務めるまでに至った。これ

 で赤松・一色・京極氏と並ぶ四職の家格と

 なった。時熙没後、家督は持豊(宗全)の兄

 持熙が継ぐべきであったが、将軍義教の勘気

 を蒙り退けられた。

*山名一族の守護領国は、持豊の時9(8)カ国

 にまで回復。すっかり勢力を回復し、幕府

 最高職にあった管領家の細川氏と肩を並べる

 までになる。回復した原因は、1441年嘉吉の

 乱で将軍義教を弑逆した赤松満祐方を討伐

 したことによっている。弾正少弼持豊、法名

 宗全。『赤入道』の異名で足利幕府で威を

 ふるい、一休和尚から『鞍馬の毘沙門の化身』

 と評せられる。

*ところが、細川勝元は赤松氏の再興を願い

 種々策動を行なってきた。そしてこの山名・

 細川両氏の権力争いと、斯波・畠山両管領家

 の家督継嗣問題・将軍家の継嗣問題が複雑に

 絡み合い、日本を二分する「応仁・文明の

 大乱」が引き起こされた。宗全は日野富子

 の依頼で義尚派となり、西軍の大将として

 戦った。

*持豊の子教豊は1467年陣没。1473年持豊・

 勝元が相次いで没した時点で、各々の子孫

 山名政豊と細川政元が講和を結ぶものの、

 その時点では持豊9カ国のうち播磨・美作・

 備前は赤松方の軍勢に奪われてしまっていた。

*政豊の時、将軍義政は「弟義視を継嗣とし、

 男子が生れても釈門に入れる」という契約

 を破り生れたばかりの義尚を将軍にさせる

 策動を起こし、義尚を政豊に保護させた。

 その縁で、政豊は御相伴衆に列せられた。

*以後勢力を失い、致豊(三位、毛氈の鞍覆・

 白笠袋(国主を意味する)、網代の輿)が

 但馬・因幡の守護を任ずるが、一族の内紛

 (但馬対因幡)を経て豊臣秀吉に屈すること

 になる。


 ※しかし山名宗全はニックネームがかっこ

  いいですね。『鞍馬の毘沙門の化身』とか

  『赤入道』とか・・“毘沙門天の化身”

  という例えは上杉謙信のものと思って

  いましたが、かなり昔に先例があったと

  いうことになります。


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