『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

吉良義昭(きらよしあき)

2016-12-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
吉良義昭(きらよしあき)

〔現代かなづかい〕きらよしあき

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


三河国守護。三河西尾の西条城主。

1556年4月上旬三河国吉良義昭に駿河衆が

    お伴、尾張国斯波義銀に織田信長

    一行がお供し、三河上野原で参会。

一時尾張にいたが、1560年5~6月頃石橋殿・

武衛公とともに、信長から国外追放される。

1561年東条城に移る。

1562年徳川家康と戦い降伏。

1563年三河一向一揆が起きるとまた家康と

争ったが、7月落城、逃亡した。のち摂津

芥川で没したという。


 ※吉良氏は清和源氏で足利氏の支流。

  足利一門の中でも家格が高く、嫡流は

  応仁の乱まで「御一家」と称され、

  室町幕府に出仕しました。「御所が

  絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば

  今川が継ぐ」といわれた名家です。

   上記のように西条吉良氏が滅びた

  一方で、東条吉良氏は義安の時今川

  義元に破れましたが、家康から東条・

  西条の併有を認められ、徳川氏の家臣

  となり江戸期には高家として存続しま

  した。

   そのほか世田谷吉良氏は、鎌倉公方

  一家として鎌倉府に出仕し、のち北条

  氏に従い、江戸期は旗本となり「蒔田

  (まいた)」と称しました。

   『忠臣蔵』で敵役として描かれる吉良

  上野介(義央)は世が世なら源氏の主流

  だったということです。


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