『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:土岐氏

2016-10-16 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【土岐氏の歴史】

*清和源氏頼光の一流。美濃国土岐郡が本願

 の地。鎌倉時代から美濃国守護を世襲する。

*南北朝の内乱期は尊氏と行動を共にし、

 武名をあげて尊氏の信頼を得た。そのため

 頼遠の時、光厳上皇の行列に狼藉を働き、

 処罰されても、土岐氏の勢力が揺らぐことは

 なかった。

*観応二年(1351)には尾張国守護も兼任し、

 宿老として幕政に重きをなした。明徳元年

 (1390)には美濃の乱が起こり、守護の康行

 は美濃を没落したが、翌年には伊勢国守護に

 復帰した。

*康行に代わって美濃国守護となったのは、

 一族の頼世である。頼世は美濃守となり、

 以降美濃国の支配を深めていった。応仁の乱

 には西軍として参加。1474年には土岐成範が

 延暦寺衆徒や多賀高忠を撃破。1477年には

 成頼が斎藤妙椿の仲介により、足利義視・

 義材父子を擁して美濃へ下国するなど活躍は

 あったものの、守護代斎藤氏の伸長により

 支配力を弱めていく。

*明応四年(1495)継嗣問題と家臣の勢力争い

 が絡んで船田合戦が起き、頼武・頼芸の兄弟間

 の争いには外部から朝倉孝景・佐々木六角定頼・

 織田信秀らの介入を許すと、実権は斎藤道三が

 握ることとなり、頼武の子頼純は道三の婿に

 取られたのち殺害され、頼芸は天文二十一年

 (1552)斎藤道三に美濃を追われ没落した。

 その子孫は江戸時代には旗本として存続した。



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