【細川氏の歴史】
*清和源氏足利氏の一門。足利義氏の一族
義季が、三河国額田郡細川を本拠とした
ことに始まる。嫡流は室町幕府管領家。
南北朝期には足利尊氏の挙兵に参じ、建武
三年(1336)四国へ派遣されたことによって、
四国を基盤とした。延文三年(1358)執事
に就任以降、康暦の政変で一時失脚したほか
は、常に幕政の中枢にあった。
*最盛期の守護国は摂津・丹波・淡路・和泉・
讃岐・備中・阿波・土佐の八ヶ国に及び、
守護を務めた各国に庶家が分立していった。
嫡流は当主が右京大夫を官途としたので
「京兆家」と呼ばれる。庶家として典厩家・
阿波守護家・淡路守護家・備中守護家・和泉
半国上守護家・和泉半国下守護家・奥州家
などが派出した。
≪京兆家≫
*京兆家が細川勝元の時、畠山家家督争い・
山名氏と細川氏の対立・足利義視と義尚の
家督争い・将軍義政と室日野富子の不和等
により応仁の乱が発生。管領職の地位を
利用し足利将軍の擁立・廃止を繰り返し
畿内政権を維持した。
*勝元の子政元も管領職の地位を利用し
足利将軍の擁立・廃止を繰り返し威勢を
張ったが、修験道に凝り妻帯せず三人の
養子(九条家から澄之、阿波守護家から
澄元、典厩家から高国)をとった為一家
内紛が起き、結局1507年養子の澄之一派
に追放され殺害された。飛行術の練習の
為沐浴中風呂場で斬殺されたとも言われる。
*政元の死後澄之が家督相続を強引に行なっ
たが、直後父政元を助力していた澄元が
家臣三好氏(之長)の軍事力を用い澄之
らを討ち取り、京兆家の家督を継ぐ。その
後澄元は高国と何度も家督を争いあい、
1520年阿波に逃れ没する。
*澄元の跡目は子の晴元が継ぎ、三好元長
等と将軍の擁立・廃止に関与し畿内政権を
牛耳る。高国は大物浦で晴元に敗れ自刃
する。ただその後、元長と反目して自刃
させたり、三好氏同士の抗争も続き家内
が安定しない。元長の子長慶は晴元に臣従
した。ところが晴元は別の家臣からの讒言
を受け、長慶を退けようとしたため、長慶
に攻められ義晴・義輝父子とともに近江へ
逃亡。晴元が出家して許され、義輝も上洛。
長慶は、高国の養子氏綱を管領職に据えた
上で、晴元の子細川昭元を摂津越水城に
入れた。
*その後幾多の紛争を経て、1553年の最盛期
芥川時代には、守護氏綱・管領昭元・守護代
長慶のもと、勢力は山城・摂津・丹波・和泉・
淡路・阿波・讃岐・播磨・伊予の九ヶ国に
及んだ。その後三好長慶・義継・三好三人衆・
松永久秀らの融合・離反の動きに翻弄され、
1568年信長が義昭を擁して上洛戦を戦う最中、
芥川城から退散。一旦は反乱軍にまわるも、
1572年信長傘下に入る。1573年義昭が信長
との戦いに敗れた後真木島城入り。その後は
信長の近臣として忠節を尽くす。1592年没。
≪庶家≫
*一家の中では、和泉半国上守護家の流れに
あたる藤孝が、将軍義昭と行動をともにし
織田信長との共同戦略で権力を維持し、
江戸時代の肥後国経営から現代まで細川氏
の命脈を保った。
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*清和源氏足利氏の一門。足利義氏の一族
義季が、三河国額田郡細川を本拠とした
ことに始まる。嫡流は室町幕府管領家。
南北朝期には足利尊氏の挙兵に参じ、建武
三年(1336)四国へ派遣されたことによって、
四国を基盤とした。延文三年(1358)執事
に就任以降、康暦の政変で一時失脚したほか
は、常に幕政の中枢にあった。
*最盛期の守護国は摂津・丹波・淡路・和泉・
讃岐・備中・阿波・土佐の八ヶ国に及び、
守護を務めた各国に庶家が分立していった。
嫡流は当主が右京大夫を官途としたので
「京兆家」と呼ばれる。庶家として典厩家・
阿波守護家・淡路守護家・備中守護家・和泉
半国上守護家・和泉半国下守護家・奥州家
などが派出した。
≪京兆家≫
*京兆家が細川勝元の時、畠山家家督争い・
山名氏と細川氏の対立・足利義視と義尚の
家督争い・将軍義政と室日野富子の不和等
により応仁の乱が発生。管領職の地位を
利用し足利将軍の擁立・廃止を繰り返し
畿内政権を維持した。
*勝元の子政元も管領職の地位を利用し
足利将軍の擁立・廃止を繰り返し威勢を
張ったが、修験道に凝り妻帯せず三人の
養子(九条家から澄之、阿波守護家から
澄元、典厩家から高国)をとった為一家
内紛が起き、結局1507年養子の澄之一派
に追放され殺害された。飛行術の練習の
為沐浴中風呂場で斬殺されたとも言われる。
*政元の死後澄之が家督相続を強引に行なっ
たが、直後父政元を助力していた澄元が
家臣三好氏(之長)の軍事力を用い澄之
らを討ち取り、京兆家の家督を継ぐ。その
後澄元は高国と何度も家督を争いあい、
1520年阿波に逃れ没する。
*澄元の跡目は子の晴元が継ぎ、三好元長
等と将軍の擁立・廃止に関与し畿内政権を
牛耳る。高国は大物浦で晴元に敗れ自刃
する。ただその後、元長と反目して自刃
させたり、三好氏同士の抗争も続き家内
が安定しない。元長の子長慶は晴元に臣従
した。ところが晴元は別の家臣からの讒言
を受け、長慶を退けようとしたため、長慶
に攻められ義晴・義輝父子とともに近江へ
逃亡。晴元が出家して許され、義輝も上洛。
長慶は、高国の養子氏綱を管領職に据えた
上で、晴元の子細川昭元を摂津越水城に
入れた。
*その後幾多の紛争を経て、1553年の最盛期
芥川時代には、守護氏綱・管領昭元・守護代
長慶のもと、勢力は山城・摂津・丹波・和泉・
淡路・阿波・讃岐・播磨・伊予の九ヶ国に
及んだ。その後三好長慶・義継・三好三人衆・
松永久秀らの融合・離反の動きに翻弄され、
1568年信長が義昭を擁して上洛戦を戦う最中、
芥川城から退散。一旦は反乱軍にまわるも、
1572年信長傘下に入る。1573年義昭が信長
との戦いに敗れた後真木島城入り。その後は
信長の近臣として忠節を尽くす。1592年没。
≪庶家≫
*一家の中では、和泉半国上守護家の流れに
あたる藤孝が、将軍義昭と行動をともにし
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江戸時代の肥後国経営から現代まで細川氏
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