goo blog サービス終了のお知らせ 

『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

稲葉典通(いなばのりみち)[1/2]

2016-02-05 20:15:07 | 信長公記の蔵:人物篇
稲葉典通(いなばのりみち)[1/2]

〔現代かなづかい〕いなばのりみち

 ※記事は2回に分けて投稿です。

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


彦一。貞通の長男。母は斎藤道三の女(むすめ)。

1567年生れ。

1575年7月良通は京から下る信長を曾根城に迎え、

    孫典通たちに能をさせて接待する。

1582年父貞通の譲りを受け美濃国曾根城主となる。

1582年4月森長可が川中島海津に在城し稲葉貞通

    が飯山に陣を取っていると、芋川親正が

    一揆を蜂起させ、飯山を取り囲み大蔵城に

    立てこもる。信長方から稲葉重通・稲葉

    通明・稲葉典通・国枝、信忠方から団忠直

    が遣わされる。森長可が切り崩し、飯山に

    在陣し、稲葉貞通は諏訪本陣に戻る。稲葉

    重通・稲葉通明・稲葉典通・国枝は安土へ

    戻り、この次第を安土城勢に報告する。

1582年の本能寺の変後は羽柴秀吉に属す。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 稲葉重通(いなばしげみち)... | トップ | 陶磁器の世界:中里嘉孝作『... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

信長公記の蔵:人物篇」カテゴリの最新記事