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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻三の一 信長、於久地の戦いに臨むこと

2025-06-15 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2008年の再掲です>

巻三の一 信長、於久地の戦いに臨むこと

 永禄五年(一五六二)初頭、織田上総介信長は三

河の松平元康と対等同盟を組んだあと、周辺諸国に

「あの国は戦費不足で身動き取れない」

と思われないように、見栄えのよい軍を行なう必要

があった。がしかし、

「できれば今は軍はしたくない。するにしても戦費

は最小限で抑え、秋口の米収穫時の相場形成により

美濃侵攻に要する費用を稼いでおきたい」

というのが信長の本音である。

 このとき、実働部隊の頭『柴田勝家』、諜報活動

部隊の頭『丹羽長秀』、経済活動部隊の頭『松井友

閑・木下藤吉郎』の活躍目覚しく、本当は美濃の斎

藤家を内側から崩壊させる準備は整っており、

「美濃侵攻を早く!」

と進言されていたのだが、もとより慎重な信長は九

割がた確実になるまで皆に「行け!」と命じない。

調子に乗って美濃へ進軍し、帰陣のときに斎藤山城

守から追い討ちをかけられ何度も死にそうな目にあ

った父織田信秀の姿を幼い頃から見ており、信長は

「儂は備後守殿と違い確実な戦いを続けていく」

と心に決めていた節がある。

 丹羽五郎左衛門長秀は、以前と同様、困ったとき

は黒田城の和田定利と相談することにしていた。今

回も

「軍は起こしたいが戦費を使うのは困る」

というわがままな相談であったが、定利からは、

「岩倉城が解放された現在では犬山城の織田信清が

唯一の残った障害。妾も簡単に調略できると思って

いたがなかなかの頑固者なので、『犬山を攻めるぞ

!』という姿勢を具体的に見せてはどうか?たとえ

ば一度、小牧・於久地の周辺まで進軍されては如何?」

という提案があった。早速松井友閑・木下藤吉郎に

費用対効果を計算させたところ、

「たいした軍費もかからず世間の聞えも悪くない」

という結論である。信長もすぐに承諾し進軍の下知

を出す。

 軍自体としては、これまでの経緯でわかるとおり

大して勝つつもりもないため、特筆すべきことはな

かったが、こういう気のない戦いに限って有力武将

の命が失われることがある。六月下旬のこの戦いで

は攻め方・守備方全んど犠牲者が出なかったが、信

長方の犠牲者の中に”岩室長門守”という名前があっ

た。実は岩室は信長の若衆の一人であり、桶狭間の

戦いのときから少なからぬ因縁がある。桶狭間に赴

くとき、信長は若衆五人を従えていた。長谷川橋介・

佐脇藤八良之・山口飛騨守・加藤弥三郎・岩室長門

守の五人である。信長にとって桶狭間の戦いは、

「たまたま駿河の太守今川治部少輔義元殿を討ち取

ってしまったが、恐れ多いことであり他意はない」

という低姿勢で語るべき軍であったため、主従六騎

で進発したことなどどうでもよいことであって、し

いて表ざたにすることはなかった。ところが戦後、

周辺諸国が信長のことを高く評価し始め「桶狭間主

従六騎駈け」などといいはじめて持ち上げたため、

信長は「それならば」とあえて否定せず噂話にまか

せていたものである。

 於久地の戦いの前まで五人は桶狭間で大した戦功

もあげなかったくせに、これら周辺諸国の評判を真

に受けてわがままに振舞ったため、家内で顰蹙を買

い信長からも疎まれていた。現実は信長が疎んだ家

臣が命をなくしただけであったが、信長・勝家・長

秀合議の上、周辺諸国への評判を考え、

「桶狭間主従六騎駈けの一人岩室長門守を失い、信

長は嘆き悲しんだ」

と発表することにしたのであった。

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

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