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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻三の三 信長、小牧山城へ移ること。ならびに元康、修羅の道に入ること

2025-06-29 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2008年の再掲です>

巻三の三 信長、小牧山城へ移ること。ならびに元

康、修羅の道に入ること

 永禄六年(一五六三)夏、織田上総介信長は先だ

って手を付けた「於久地城攻略」につき、家臣から

の「早く攻城戦を」との意見を抑え、まずは今期の

稲の生育状況を丹羽長秀・柴田勝家に聞く。彼らは

松井有閑・木下藤吉郎の報告をもとに「今年の作柄

は非常に良好」と上申する。どういうことかという

と、作柄不良の場合は米単価が安くなるため秋口に

コメを販売して稼げる利益が少なくなり、美濃への

進軍のための戦費がなくなるという理屈である。費

用もないのに軍を起こしては、国が疲弊し民を豊か

にすることはできない。

 信長は、五郎左衛門と黒田城:和田定利との情報

交換により、「直接於久地城を攻めなくとも、織田

一行が城替えするだけで連中は驚いて退城するだろ

う」という確定に近い予想を得ていた。七月小牧山

城へと城替えをおこなうと、敵勢は予想通りそれを

見ただけで驚き、降参退城の上犬山城へと移動した

のであった。まるで『源平盛衰記』に出てくる「平

家の聞き逃げ」と同じである。

 尾張方では想定通りの進行が続いていたが、三河

のほうでは信長以下が心配した通り、「軍を起こさ

ず戦費を蓄えておくべき元康」が「わけのわからな

い勝手」を行ってしまう。この年の三月、信長の女

『五徳』と元康の嫡男『竹千代(のちの信康)』の

婚約が成ったところまではよかったが、その後、信

長が小牧山城に移動しバタバタしている間に、

*今川氏真と手を切る

*松平家康に改名

と連続して進める。ここまでも、まだ悪くはないか

もしれないが、「戦費のないときに軍を起こしてし

まった軍将」は、手をつけてはいけない領域に手を

つけてしまう。すなわち、三河の産品であるきわた

(木綿)や唐納豆(麹菌を使った粘らない納豆)・

志都呂焼き・甲斐の紙・伊豆江川の酒など、各農家

や各商家が売買をし、敬虔な信者がその儲けの一部

を寺院に寄付していたのだが、当然寺院におさめた

金額は非課税である。松平家康一派はこの商流に絡

み、松平一派を通して課税しようとしたからおさま

らない。農家・商家・武家と檀家・寺院が複雑に絡

む内戦へと発達した。これが世にいう『三河一向一

揆』の発端であり、実はこれは「宗教戦争」ではな

く「経済戦争」だったのである。

 三河の戦況に関して、以前尾張の信長以下が決定

した通り、「三河での家康の動きには関知していな

い」ことを確認済みで、干渉するつもりは全くない。

尾張勢の加勢をあてにして内戦を始めてしまった家

康がこの『三河一向一揆』をおさめるのは、半年後

の永禄七年(一五六四)二月のことであった。

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

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