goo blog サービス終了のお知らせ 

『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

三好義継(みよしよしつぐ)[2/2]

2019-09-06 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
三好義継(みよしよしつぐ)[2/2]

<現代仮名遣い>みよしよしつぐ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1570年8~9月の野田・福島の戦いで信長が退却

    した後、信長方として若江城を守備。

1572年4月畠山昭高に反発し、昭高の臣安見新七

    郎の守る交野城に向けて取手を築くも、

    信長軍に攻められ退却。若江城に篭城する。

1572年8月石山本願寺と組み、摂津中島の細川昭

元を攻撃。

1573年3月将軍義昭から義輝弑逆の罪を許され入

京。再度信長に背反。

1573年7月真木島の戦いに敗れ秀吉に連行されてき

た将軍義昭を若江城で保護。


1573年11月城中の家老衆多羅尾右近・池田丹後守・

野間左吉が背反し、城中一の重臣金山駿河を殺害の

うえ、信長方佐久間信盛を呼び入れる。天主まで追

い詰められた義継は女房・子息を刺し殺した後、腹

十文字に掻き切って果てる。


 ※細川家とついたり離れたり、将軍家とつい

  たり離れたり、信長公とついたり離れたり、

  応仁の乱からこのころまではそういった生

  き残り戦略が効果的だったかもしれません

  が、松永久秀同様、信長公が政治・経済・

  文化の三部門を掌握するスピードを見誤っ

  てしまったようですね。諸行無常でござい

  ます!


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へにほんブログ村


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三好義継(みよしよしつぐ)[... | トップ | 六笠彦三郎(むかさひこさぶ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

信長公記の蔵:人物篇」カテゴリの最新記事