三好義継(みよしよしつぐ)[2/2]
<現代仮名遣い>みよしよしつぐ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1570年8~9月の野田・福島の戦いで信長が退却
した後、信長方として若江城を守備。
1572年4月畠山昭高に反発し、昭高の臣安見新七
郎の守る交野城に向けて取手を築くも、
信長軍に攻められ退却。若江城に篭城する。
1572年8月石山本願寺と組み、摂津中島の細川昭
元を攻撃。
1573年3月将軍義昭から義輝弑逆の罪を許され入
京。再度信長に背反。
1573年7月真木島の戦いに敗れ秀吉に連行されてき
た将軍義昭を若江城で保護。
1573年11月城中の家老衆多羅尾右近・池田丹後守・
野間左吉が背反し、城中一の重臣金山駿河を殺害の
うえ、信長方佐久間信盛を呼び入れる。天主まで追
い詰められた義継は女房・子息を刺し殺した後、腹
十文字に掻き切って果てる。
※細川家とついたり離れたり、将軍家とつい
たり離れたり、信長公とついたり離れたり、
応仁の乱からこのころまではそういった生
き残り戦略が効果的だったかもしれません
が、松永久秀同様、信長公が政治・経済・
文化の三部門を掌握するスピードを見誤っ
てしまったようですね。諸行無常でござい
ます!
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村
<現代仮名遣い>みよしよしつぐ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1570年8~9月の野田・福島の戦いで信長が退却
した後、信長方として若江城を守備。
1572年4月畠山昭高に反発し、昭高の臣安見新七
郎の守る交野城に向けて取手を築くも、
信長軍に攻められ退却。若江城に篭城する。
1572年8月石山本願寺と組み、摂津中島の細川昭
元を攻撃。
1573年3月将軍義昭から義輝弑逆の罪を許され入
京。再度信長に背反。
1573年7月真木島の戦いに敗れ秀吉に連行されてき
た将軍義昭を若江城で保護。
1573年11月城中の家老衆多羅尾右近・池田丹後守・
野間左吉が背反し、城中一の重臣金山駿河を殺害の
うえ、信長方佐久間信盛を呼び入れる。天主まで追
い詰められた義継は女房・子息を刺し殺した後、腹
十文字に掻き切って果てる。
※細川家とついたり離れたり、将軍家とつい
たり離れたり、信長公とついたり離れたり、
応仁の乱からこのころまではそういった生
き残り戦略が効果的だったかもしれません
が、松永久秀同様、信長公が政治・経済・
文化の三部門を掌握するスピードを見誤っ
てしまったようですね。諸行無常でござい
ます!
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
