『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:44織田信長朱印状 天正九年九月四日

2021-05-25 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


44織田信長朱印状 天正九年九月四日

 丹後国の矢野藤一の知行分について、最前

申上があった員数(=軍勢)と四千五百石を

あてがったとのこと。残りの分があれば(貴

殿に)すべて進止(=差配)を任すので、

(今後も)戦功を抽んでるよう願う。


天正九年九月四日 信長(朱印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

   ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

前回の書状と同じ日付の書状です。矢野藤一

とは、信長公記に出てくる“矢野”という人物

と思われます。

<矢野>丹後国竹野郡吉永城主。1575年

8月信長越前攻撃の時、丹後を出発し海上か

ら攻め込む。

とのことですから、かなり長いこと織田家に

仕えてきた人物ですので、相応しい厚遇と思

われます。

以上

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信長から細川藤孝への手紙:43織田信長朱印状 天正九年九月四日

2021-05-10 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


43織田信長朱印状 天正九年九月四日

 (本年三月五日に朱印状で指示した“指出”

の結果)丹後国の一色(義有)が知行できる

分が出てきたとのこと。一旦、惟任日向守

(=明智光秀)に預け置くので相談されたし。

相談後、追って申し出るよう願う。


天正九年九月四日 信長(朱印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

   ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

前回の書状は八月二十三日付けでしたから、

この書状はおよそ二週間後の書状となりま

す。この二週間では、織田家では

・9月3日

 北畠信雄、伊賀攻めに出陣

くらいしかイベントがありませんでした。

実はこの手紙の三日後の9月7日付で信長公

から惟任日向守あての手紙が出されており、

その内容は、

「一色の知行地として今度出てきた分があ

り、前後の分を合わせると二万石になると

のこと。“検地”によってすでに員数(=軍

勢)はあてがってあるので、残った部分が

あれば長岡兵部大輔に遣わすように」

というものです。

 この手紙の雰囲気では、長岡藤孝は丹後国

/一色義有を「自分が差配する」と考えて

いるものの、信長公は「諸事惟任日向守

(=明智光秀)と相談して申し出するよう

に」と命じていますのでね、ちょっと三人

の意識のすれ違いが感じられますが大丈夫

でしょうか?

 また、信長公の組織構築の考え方は、領

土とは関係なく戦争・政治のプロセスで成

果を上げたものに俸禄を与えるという、現

代でいう“部門を超えたプロジェクト制”に

近いので、歴史的に“本領安堵”が染みつい

ている家臣たちが十分理解してくれたかど

うか・・本能寺の変まであと9ヶ月ですが・・


注記)ウィキペディアでは、一色満信=一

色義有=一色義定となっていますので、そ

の説を採用します。

以上

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信長から細川藤孝への手紙:42織田信長黒印状 天正九年八月廿三日

2021-03-25 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


42織田信長黒印状 天正九年八月廿三日

 (そちらからの)二十日(付けの)注進状

が、本日二十三日に到着し見させて頂いた。

「しきりに丹州方面の敵が罷り出でてくるの

であれば、出陣すべき」と(こちらからも)

申し伝えていたが、(注進状によれば)油断

なく用意しているとのことで、最もしかるべ

きと考える。その様子については惟日(これ

ひゅう=惟任日向守光秀)から申上があった。

猶もって(討伐を)専一に心掛けていただき

たい。

 次にこの度のそちらの国の賊船に関して、

(貴方で)

・主要な味方の城々に兵粮を十分に入れてお

 く

・そのほか敵船等を灘に深々と(退却できな

 いよう)追込めるように
準備しておく

など申付けている旨であるが、これまた肝心

である。松井(康之)の折帋(=手紙)を見

させて頂いたところ、いよいよ手勢を入れる

との由、簡要に申し聞いた。また、南方での

活動についても聞き届けた。


天正九年八月廿三日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

   ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

前回の書状は七月二十八日付けでしたから、

この書状はだいたい一か月後の書状となりま

す。この一か月、織田家では以下の出来事が

ありました。

・8月1日

安土で馬揃えの興行

・8月6日

会津の屋形(蘆名盛隆)から、愛相駁の馬が

進上される。

・8月12日

織田信忠、尾張・美濃の諸侍を召し寄せ、長

良川の河原に馬場を作り、乗馬を行う。

・8月13日

「因幡に毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が

鳥取の後巻きとして出陣」との風説が流れる。

信長はすぐに「先手陣は参陣の用意を油断な

くするように」と指示。

丹後からは長岡藤孝・忠興、丹波からは惟任

光秀、摂津からは池田恒興を大将として高山

重友・中川清秀・安倍二右衛門・塩河吉大夫

らに発向を命じる。

長岡・惟任は、船で兵糧を送り込む。

・8月14日

信長、高山重友を使いとして羽柴秀吉に馬三

匹を送り遣わす。

*重友には鳥取の状況をつかんで報告するよ

うに指示。

・8月17日

信長、高野聖数百人を成敗。

*高野山が攝津の牢人たちを多数抱えており、

その中から1~2名召しだしたいものがおり、

それを朱印状つきで使いを向かわせたところ、

高野山側が使いの十人ほどを切り殺してしま

ったため報復したもの。

・8月某日

前田利家、能登国四郡(鹿島・羽咋・鳳至・

珠洲)を領地として下される。

・8月某日

3月28日七尾城代として越中に派遣されてい

た菅屋長頼は、能登・越中の城々の破却を終

え安土へ戻る。

 おそらくこの手紙は、8月13日の

⇒「因幡に毛利輝元・吉川元春・小早川隆景

 が鳥取の後巻きとして出陣」との風説によ

 る対応に関し、丹後からは長岡藤孝・忠興、

 丹波からは惟任光秀に発向を命じる。

⇒手紙にある“南方での活動”というのは、「摂

 津からは池田恒興を大将として高山重友・

 中川清秀・安倍二右衛門・塩河吉大夫らに

 発向を命じる。

に関する信長公と長岡藤孝のやり取りにあた

ものと思われます。


(追記1)しかし、この時期秀吉は鳥取方面に

出張っているはずなのですが、毛利水軍が丹後

まで攻めだして海路を塞がれたらどうするつも

りなんですかね・・


(追記2)しかし、公用に近い書状で以前は“明

十(あけじゅう)”今回は“惟日(これひゅう)”

などと呼ばれているのを光秀本人が見たら激怒

するんじゃないですかね、これ~!本能寺の変

まであと十か月ですが・・

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信長から細川藤孝への手紙:41織田信長黒印状 天正九年七月廿八日

2021-03-10 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


41織田信長黒印状 天正九年七月廿八日

 両方の便りを見させていただいた。八朔の

祝儀として帷(かたびら)二つ、袷(あわせ)

一つが到来した。遠路はるばる懇志を送るこ

とは容易ではないと思われ、かたがた入悦至

極である。次に丹州(丹後国)方面の賊船の

活動に対し、(貴方で)松井(康之)を添え

て(軍勢を)差し遣わせたとの由、もっとも

しかるべき判断である。そのほかのことは、

今度見参したときにお伝えすることにしよう。


天正九年七月廿八日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

   ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

「八朔」というのは、旧暦八月一日のことで、

この日に武家や公家の間で日頃お世話になっ

ている(頼み合っている)人にその恩を感謝

する意味で贈り物をする習慣があったそうで

す。“両通”と書かれているのは、書状にある

通り長岡藤孝から信長公への“八朔のお祝いの

送り状”と“丹後方面の活動連絡”と思われます。

 前回の書状は三月五日付けでしたから、こ

の書状は四か月半後のものであり、この間に

以下の出来事がありました。

・3月ごろ

前年8月、丹後に封ぜられていた長岡藤孝・

忠興・昌興が、青竜寺城を信長に返上

3月25日 信長が、矢部家定・猪子高就を城

代として派遣し、長岡藤孝が丹後の知行地の

検地を指示。

・3月25日

徳川家康、高天神城を攻陥。

・4月10日

信長公、竹生島参詣のエピソード。片道十五

里あるところから安土の女房たちは「信長公

は長浜で宿泊するだろう」とたかをくくって

いたところ、当日戻ってきてしまった。勝手

な桑実寺への外出で安土城を開けた女房たち

とそれをかばったの長老が成敗された。

・4月21日

安土で相撲の興行

・5月10日

槇尾寺での検知拒否騒動の後、織田信澄・蜂

屋頼隆・堀秀政・宮内卿法印・惟住長秀が、

槇尾寺を焼き尽くす。

・6月5日

北条氏政、信長に馬三匹を進上。取次ぎは徳

川家康方の滝川一益。

・6月25日

羽柴秀吉、因幡国へ乱入。吉川経家の籠もる

鳥取城を攻囲開始。

・7月15日

信長、安土城天主と惣見寺に提燈をつりさげ、

馬廻り衆には船の上で松明をともさせ、盂蘭

盆会の興行。

・7月17日

信長、信忠へ秘蔵の「雲雀毛の馬」を下す。

使いは寺田善右衛門。

・7月21日

秋田の屋形下国(安東愛季)から、黄鷹・白

鳥が進上される。

うち一つは巣入りの鷹で、信長は愛蔵する。

お礼に小袖・緞子が送られる。使いの小野木

には黄金2枚が下される。

・7月25日

信長、安土で三人の子息に脇差を授ける。

*信忠には正宗

*信雄には北野藤四郎

*信孝にはしのぎ藤四郎

・8月1日

安土で馬揃えの興行

 信長公も最近は軍に出ることはなく、イベ

ントばかりやったり、来客の応対をしたり、

かなりヒマそうです。その間に家臣団は、

⇒丹羽長秀

 信長公の暗殺部隊あるいはや特殊任務のチ

 ームとしての活動

⇒長岡藤孝

 丹後国の領知活動

⇒徳川家康

 北条氏家を信長に会わせるなど相模方面と

 の連携により甲信の武田家への圧力を強化

⇒羽柴秀吉

 因幡国への乱入開始

など絶好調です!惟任光秀は丹後の国にいる

はずですが、この頃どういう活動していたの

かがわかりません。本能寺の変まであと1年・・

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信長から細川藤孝への手紙:40織田信長朱印状 天正九年三月五日

2021-02-25 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
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1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


40織田信長朱印状 天正九年三月五日

 丹後の国の領知について、国中残すところ

なく糾明を遂げ、諸給人に対し面々が差出

(検地で報告)してきた員数と相違ない俸禄

をあてがうこと。(あてがった)余りは其の

方(藤孝殿)に任せる覚悟である。(差出検

地に関して必要な)軍役などがあれば、速や

かに申付けていただきたい。


天正九年三月五日 信長(朱印)

 長岡兵部太輔(藤孝)とのへ

   ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

天正八年(1580年)の前回の書状(八月

廿二日)から7か月後の書状です。丹後方面

では、

三月ごろ 天正八年八月丹後に封ぜられてい

た長岡藤孝・忠興・昌興が、青竜寺城を信長

に返上

三月二十五日 信長公は、矢部家定・猪子高

就を城代として派遣する。長岡は知行地の検

地を指示する。

という動きがあった模様なので、この手紙は

この差出検地に関するものと思われます。

 この間の主な出来事を振り返ります。

<天正八年>

・八月

 石清水八幡宮修造完成

・九月二十六日
 
 信長、大和国内で差出をおこなう

<天正九年>

・一月十五日

 安土で爆竹(さぎちょう)の興行

・二月二十三日

 宣教師バリニヤーノがオルガンティーノ・

 フロイス・ロレンソをつれて、信長を正式

 訪問。「黒坊主(弥助)」を進上。

・二月二十八日

 信長、上京内裏の東に馬場を作り馬揃えを

 興行。名馬集合の上考えられる限りのきら

 びやかな衣装。

・三月五日

 信長、禁裏からの所望により、再度馬揃え

 を興行。前回の馬揃えの中から五百余騎を

 そろえ今度は上から下まで黒づくめ。

・三月十日

 信長、京都から安土へ戻る。

となっています。

 書状の差出し日“天正九年三月五日”といえば、

ちょうど京都で二度目の馬揃え興行中です!ど

んなに忙しい時でも長岡藤孝には返書を送ると

いう信長公の気持ちが微笑ましいですね。また

禁裏から馬揃えのリピート発注があった時に、

一回目と趣向を変えた“全身黒づくめ”の装束に

するなど、イベントプロデューサーとしての信

長公の面目躍如です!

(追記)伴天連が連れてきた「黒坊主(弥助)

は、信長・信忠父子の武田氏征伐の時に同行さ

せた記録があるらしいので、「本能寺の変の時

も信長公記には書いてなかったものの同行して

いたのではないか?」と純野は想定して連続読

み物のプロットとする予定です。

以上


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信長から細川藤孝への手紙:39織田信長黒印状 天正八年八月廿二日

2021-02-10 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
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2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


39織田信長黒印状 天正八年八月廿二日

 一昨日(二十日)の午後付けの(貴方から

の)注進が本日到着したので見させていただ

いた。そちらの(丹後の)国の(吉原山城の)

吉原西雲が出仕せず、野心を持って動いてい

たので悉く討ち果たしたとの由。もっとも然

るべき次第である。これからも、万事油断な

く調略することを専一にされるよう願う。

天正八年八月廿二日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

 惟任日向守(光秀)殿

   ※天正八年=1580年


**純野のつぶやき**

天正八年(1580年)の前回の書状(八月

廿一日)の翌日の書状です。八月二十日に丹

後の国から送られた書状が、京都にいる信長

公のもとに二十二日にはついていますので、

信長公が形成した情報通信網はものすごいス

ピードで機能していたことになります!また、

「何月何日に送られた書面を何月何日に見た」

という記録を残す信長公が現代の電子メール

を見たら、「ふむふむ、なるほど!」と喜ん

だかもしれません!

 ただ細かい話ですが、天正四年四月三日の

大坂攻撃中の二人に信長公が送った書状の宛

名では惟任→長岡の順序でしたが、今回の書

状では長岡→惟任の順序になっています。こ

れは信長公か右筆が間違えたのか、あるいは

わざとこの順序であて名を書いたのか・・

以上
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信長から細川藤孝への手紙:38織田信長黒印状 天正八年八月廿一日

2021-01-25 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
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2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


38織田信長黒印状 天正八年八月廿一日

 折帋(お手紙)見させていただいた。その

(貴殿ら父子が入封した丹後の国の)方面に

ついて、変わったこともないとのことでもっ

とも珍重である。なお、居城について、“宮津”

を指定して拵えたい旨心得た。(貴殿が決め

たのであれば)きっとしかるべき場所なので

あろう。(居城の)普請を急ぎたいとのこと

であるが、同時に惟任(光秀)の方にも朱印

状を遣わしてあるので、よくよく相談の上(

普請の)申付けを行うことが肝要である。

 次に(当方のことであるが)去る(八月)

十五日に大坂へと罷り越した。畿内にある

(大坂本願寺方の)諸城は大略破却せしめた

ので、ようやく(大坂から戻り)上洛するこ

とになった。また後音(=のちの便り)をお

送りするつもりである。謹言。

天正八年八月廿一日 信長(黒印)

 長岡兵部太輔(藤孝)殿

   ※天正八年=1580年


**純野のつぶやき**

天正八年(1580年)の前回の書状(八月

十三日)の八日後の書状です。長岡藤孝父子

が丹後の国に入封され「特に異常ありません

が“宮津”に居城を構えたい」という書状への

返信のようです。

 この前後では、

・八月二日

 四月九日から大坂に篭城していた本願寺教

 如光寿が大坂から退出

 *勅使 近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
  
  及び下使荒屋善左衛門

 *信長方使い 宮内卿法印・佐久間信盛

 *大坂城を受け取る検使 矢部家定
 ↓
 大坂方は信長の来訪を予想し、整然と片

 付けて置いたが、火事が発生し焼け落ちる。

・八月十二日

 信長、京都から宇治橋を通り大坂へ
 ↓
 ここで佐久間信盛・信栄父子に対して、十

 九条の折檻状を自筆でしたためる。

・八月十七日

 信長、大坂から京都へ
 ↓
 ここで、林秀貞・安藤(守就・尚就)父子・

 丹羽右近が国外退去を命じられる。

といった動きがありました。

 もしかしたら、長岡藤孝からこの手紙の前

に大坂本願寺が焼け落ちたことの責任に関す

る手紙が信長に送られ、信長公がそれに応じ

て佐久間への折檻状を書き起こしたとすれば、

この時点で長岡藤孝は、丹後の国にいながら

織田家中に多大な影響を及ぼしていたと見る

ことができます。

以上
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信長から細川藤孝への手紙:37 下 織田信長黒印状 天正八年八月十三日<天正八年の出来事の解説>

2020-06-18 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


37 下 織田信長黒印状 天正八年八月十三日

**純野のつぶやき**

 天正七年の出来事の記事に続き天正八年

の出来事を記事にまとめます。

・正月一日 信長公、昨年冬からのお触れにより、

 安土への出仕免除

・一月 羽柴秀吉の別所攻め

・二月二十六日 信長公から「二条妙覚寺から本

 能寺へ御座を移す」との仰せがあり、普請を

 村井貞勝に命ずる

・三月 石清水八幡宮の御神体を下遷宮する

・三月 禁中から大坂(石山本願寺)へ「信長方

 と講和を結ぶよう」使者が送られる。勅使/

 近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保、信長方目

 付/宮内卿法印・佐久間信盛

・三月十日 北条氏政の御使い衆が信長にお

 礼に参着。披露/佐久間信盛、氏政の使者/

 笠原康明、氏照の使者/間宮綱信・下使/原

 和泉守。関東衆から「信長との縁を深くして、

 関八州を信長の分国にしても構わない」と奏上。

 執奏/滝川一益・下使/牧庵、聞き手/二位

 法印・滝川一益・佐久間信盛。信長公、「滝川を

 案内者として京都見物し、安土に寄り候え」と

 勧める。

・閏三月十六日 信長、安土南方の土地を造成し、

 伴天連に屋敷の土地として下す。奉行/菅屋

 長頼・堀秀政・長谷川秀一

・四月九日 大坂の本願寺顕如光佐、子の教如

 光寿に門跡を渡し、雑賀の舟で大坂退出。教如

 光寿は約束に違背し、大坂に籠る。

・四月二十四日 信長公、伊庭山でお鷹野。
   ↓
 この時丹羽右近の手の者が、普請中の

 現場から信長の目の前に大石を落とし

 てしまい「不行き届きである」と年長者

 一人を手討ちにする

・四月 羽柴秀吉、但馬進出

・五月 信長、加賀の柴田勝家を心もとなく思い、

 木下祐久・魚住隼人の両使を送る
   ↓
 柴田が能登・加賀を平定した旨報告すると、

 信長は喜び二人に服・帷子を下す。勝家も

 二人に馬を下した

・五月二十六日 石清水八幡宮の御神体を上

 遷宮する

・五月~六月 安土で相撲興行

・六月 羽柴秀吉、因幡・伯耆の国境まで進出

・六月二十六日 土佐の長宗我部元親、惟住光

 秀を取次ぎとして、鷹十六連・砂糖三千斤を

 進上。信長はすぐに、馬廻りに砂糖を下す

・八月二日 四月九日から大坂に篭城してい

 た本願寺教如光寿、大坂から退出。勅使/

 近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保及び下使

 /荒屋善左衛門、信長方使い/宮内卿法印・

 佐久間信盛、大坂城を受け取る検使/矢部

 家定。
   ↓
 大坂方は信長の来訪を予想し、整然と片付

 けて置いたが、火事が発生し焼け落ちる

・八月 石清水八幡宮修造完成

・八月 長岡藤孝・忠興・昌興父子三人は、丹後

 国に入封される。長岡藤孝が一色義定の籠も

 る弓木城を攻めたが、堅固な守りのために攻

 めきれず、義定は惟任光秀のあっせんで藤孝

 の女を娶り、藤孝と和睦

・八月十二日 信長、京都から宇治橋を通り大

 坂へ移動。ここで佐久間信盛・信栄父子に対

 して、十九条の折檻状を自筆でしたためる

・八月十七日 信長公、大坂から京都へ移動。
  ↓
 ここで、林秀貞、安藤(守就・尚就)父子、丹羽

 右近が国外退去を命じられる


**純野のコメント**

1)信長公は、今年の正月一日も安土への出仕を

免除しました。これからあと、在所に詰める替え番

の者に暇を与えたり、替え番を短期(1か月程度)

に抑えたりしますので、信長公も「家臣が連戦に

継ぐ連戦で、かなり疲弊してきている」と感じ始め

たようです。

2)二月に信長公は「二条妙覚寺から本能寺へ御

座を移す」と仰せ下し、普請を村井貞勝に命じて

います。「なぜ御座を移す先を本能寺にしたか?」

背景を研究する必要がありますが、ウィキペディ

アでは「本能寺は早くから種子島に布教していた。

このことから鉄砲・火薬の入手につき戦国大名と

の関係が深かった。織田信長は日承に帰依して、

この寺を上洛中の宿所としていた」と記述されて

いますが・・

3)その本能寺に御座を移す奉行に選ばれた村

井貞勝ですが、尾張の頃から島田秀頼とコンビ

で信長公に使え、数々の作事を奉行し、京都所

司代を十年近く勤め、本能寺の変で主の後を追

い果てるという・・この人の物語が小説化・映像

化されていないのはおかしいと思います!

4)長年にわたって続けられた大坂方(本願寺)

との戦いも、三月に両陣営に禁裏からの勅使が

あったこともあり、四月にほとんどが退城。残っ

ていた本願寺教如光寿も八月二日に粛々と退

城しましたが、何らかの理由で出火があり焼け

落ちてしまったようです。

5)八月に石清水八幡宮修造が完成します。父

信秀の時代から、帝の御所・御座所や関連する

神社(熱田神宮・伊勢神宮など)の修復には惜

しみなく費用を振り当てています。

6)四月~六月ごろは、羽柴秀吉/但馬進出→

因幡・伯耆の国境まで進出、柴田勝家/能登・

加賀を平定、など家臣団は絶好調です。

7)ただ好ましくない傾向としては、

*四月二十四日に信長公が伊庭山でお鷹野を

 行ったとき、丹羽右近の手の者が、普請中の

 現場から信長の目の前に大石を落としてしま

 い「不行き届きである」と年長者一人を手討

 ちにしました。

*八月十二日に信長公は京都から宇治橋を通

 り大坂へ移動しますが、ここで佐久間信盛・

 信栄父子に対して、十九条の折檻状を自筆

 でしたためます。

*直後の八月十七日に信長公は大坂から京都

 へ移動しますが、ここで林秀貞、安藤(守就・

 尚就)父子、丹羽右近が国外退去を命じられ

 ます。

という風に「長年活躍してくれた人に対してな

んでそういう仕打ちかな?」と首をかしげたくな

ります。

8)三月十日に北条氏政の御使い衆が信長に

お礼に参着します。この時に関東衆から「信長

との縁を深くして、関八州を信長の分国にして

も構わない」との奏上がありました。信長公も

"上総介”を名乗った時期があることから"平氏”

を標榜していますし、北条氏も開祖伊勢盛時

(=北条早雲)は伊勢平家の出自ですし、平家

つながりで気安い部分があったのかもしれま

せん。間に挟まれた徳川家康は源氏を名乗っ

ていますので、はげしく爪を噛む様子が目に

浮かぶようです。

以上

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信長から細川藤孝への手紙:37上 織田信長黒印状 天正八年八月十三日<天正七年の出来事の解説>

2020-06-17 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


37-1 織田信長黒印状 天正八年八月十三日

<天正七年の出来事>

 (当方からの入封の指示に従い、丹後の)国

に早々と参着したとの由、もっともしかるべきこ

とである。その様子が惟任(光秀)の方からつ

ぶさに申上されてきた。ますます相談を密にし、

政道・かれこれを油断なく(手勢に)専一に申し

付けるよう。この方面から(当方への)見舞いが

遅々としていることは(そちらで心配しているよ

うだが)気にすることはない。かなり珍しいこと

があった時だけ注進してくれればそれでよい。

天正八年八月十三日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

   ※天正八年=1580年


**純野のつぶやき**

 天正七年(1579年)の前回の書状(正

月十二日)から一年七か月ぶりの書状です。

天正八年八月に丹後の国に長岡藤孝・忠

興・昌興父子三人入封という史実がありま

すので、この書状はこのことを指している

ものと考えられます。


**純野のコメント**

 前回の書状から二年近く経っているの

で、記事を2回に分けて天正七年・天正八

年それぞれ解説を加えたいと思います。

<天正七年の信長方の主な出来事>

・正月一日 信長公、諸卒が摂津・播磨出陣

 中の為、出仕は免除

・正月五日 九鬼嘉隆、年頭の挨拶に安土の

信長の御前へ参上。信長から暇を下され、伊勢

に戻る

・二月~三月 お鷹野と御狂

・四月一日 織田信忠の小姓、佐治新太郎と金

 森甚七郎が喧嘩。佐治は金森を刺し殺し、自

 らは切腹

・四月二十六日 信長、古池田で御狂。近衛前久・

 細川昭元が参加

・五月 安土宗論

・五月 羽柴秀吉、着々と播磨攻め

・七月 安土城で相撲

・七月 惟任光秀、丹後攻め

・七月二十五日 正親町天皇、惟任光秀に対し、

 馬・鎧・香袋を下賜。宇津頼重の横領した皇室

 領丹波山国荘を、光秀が七月十九日に宇津を

 討ち取り奪回した為

・八月二十九日 徳川家康、子息信康の弁明の為

 移動中の妻築山殿を殺害

・九月二日 荒木村重、五~六人の取り巻きを率

 い、伊丹から忍びだして尼崎に移る

・九月四日 羽柴秀吉、安土へ上り、「備前の

 宇喜多秀家が身方となる旨進上してきので、赦

 免の次第について打ち合わせをしておいた。

 ついては朱印状を頂ければ」と信長に申上。信

 長は、「儂の意見も聞かず物事を決めるとは曲

 事である」と追い返す。

・九月十一日 北条氏照、鷹三足を京都の信長に

 進上。徳川家康の築山殿暗殺を「徳川が反武田

 を明確にした」と了解した北条氏は、武田勝頼と

 の盟約を解消し、信長・家康との武田挟撃体制

 を模索し始める

・九月十五日 徳川家康、嫡子岡崎信康を自刃に

 追い込む

・九月十七日 北畠信雄、伊賀国へ出働するも、攻

 略失敗。柘植三郎左衛門討ち死に

・九月十八日 二条御新造で摂家・清華家・細川昭

 元らが蹴鞠を行なう。信長はこれを見物する

・九月二十二日~二十三日 摂津に向かう途中で

 雨が降り山崎に逗留。信長、ここで(北畠)信雄

 に対し、折檻の御内書を下す。計画的でない伊

 賀攻めを行い貴い武将の命を失ったため

・十月二十四日 惟任光秀、丹後・丹波両国を平定

 し、安土へ参上し信長にお礼を述べる

・十月二十五日 相模の北条氏政、信長の身方とな

 る旨表明。六万ほどの兵で甲斐に出働氏政が木

 瀬川を前に当て三島に布陣すると武田勝頼も

 三枚橋に取手を造り対陣。徳川家康も氏政と一

 手になろうと駿河へ出働

・十月三十日 備前の宇喜多秀家が信長方の身

 方となり赦免された件につき、宇喜多基家を名

 代として古屋野(こやの)の織田信忠にお礼に

 参上。取次ぎは羽柴秀吉

・十一月五日 信長、「二条御新造の普請が完成

 したので、禁裏に進上したい」と奏聞に付す

・十一月二十日 信長、一五七六年十月十二日誕生

 の正親町天皇の五宮を猶子にすることを許さ

 れる

・十一月二十二日 誠仁親王、二条新御所に移徙

 (わたまし)

・十二月十日 信長公、山崎へ移動

・十二月十一日 信長公、雨が降り宝寺に逗留。

 信長公はここで、石清水八幡宮の内陳・下陳の

 間のといを修理するよう指示。奉行は、山城の

 代官武田左吉・林高兵衛・長坂与一。恒例によ

 り修造開始の日取りを禁中に伺い、「十二月十

 六日開始」との勅定が下る。信長公、石清水の

 片岡鵜右衛門から「周光香炉」を召し上げ、銀

 子百五十枚を下す

・十二月十一日~十二日 信長公、「荒木一類

 の者は都で成敗する」と表明

・十二月十六日 京に送られた荒木一類を京都

 六条河原で成敗する。奉行は越前衆不破光治・

 前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近

【解説のポイント】

1)まず天正七年正月ですが、前年末から諸

卒が摂津・播磨方面へ出陣していたため、信

長公は年賀挨拶のための出仕は免除していま

す。

2)二月~三月は暇そうで、お鷹野と御狂(お

くるい)に興じています。ただ、諸卒の緊張感

もゆるんだか、「織田信忠の小姓佐治新太郎

と金森甚七郎が喧嘩。佐治は金森を刺し殺し、

自らは切腹」という事件が起きています。

3)四月二十六日に信長公は古池田で御狂

(おくるい)に興じています。ただこの時参加

したのが近衛前久(=摂関家)・細川昭元(=

細川京兆家で管領を継ぐ家柄)である点は

重要ポイントですね。

4)五月/安土宗論、五月/羽柴秀吉着々と

播磨攻め、七月/安土城で相撲、七月/惟任

光秀丹後攻め、となっており、戦争面でも文

化面でも絶好調なようです。

5)徳川家康方では、八月二十九日/子息信

康の弁明の為移動中の妻築山殿を殺害、九月

十五日/嫡子岡崎信康を自刃に追い込む、と

いう大事件が起きています。

6)九月二日荒木村重は五~六人の取り巻き

を率い、伊丹城から忍びだして尼崎城に移り

ます。ただそうすると、伊丹城に残された荒

木の一族郎党は皆殺しになる可能性(実際

そうなりましたが・・)があることなどわかっ

ているのに・・

7)九月十一日、北条氏照が鷹三足を京都の

信長に進上します。徳川家康の築山殿暗殺を

「徳川が反武田を明確にした」と了解した北条

氏は、武田勝頼との盟約を解消し、信長・家康

との武田挟撃体制を模索し始めます。ひょっと

したら徳川家康が妻築山殿と嫡男信康を殺害

したのは、武田氏に利する活動をしていること

を二人が世間にばらそうとしていたからでは

ないのか・・

8)九月二十二日~二十三日、摂津に向かう途

中で雨が降り山崎に逗留しますが、信長公は

ここで(北畠)信雄に対し、折檻の御内書を下

します。おそらく計画的でない伊賀攻めを行い

貴い武将の命を失ったためと思われます。逆

に考えれば、「信長システムの中では家臣・家

族関係なく、技量の優れたものが評価される」

ということを周囲に示したかったのではないか・・

9)十月二十四日/惟任光秀が丹後・丹波両国

を平定し、安土へ参上し信長にお礼を述べる、

十月二十五日/相模の北条氏政が信長の身方

となる旨表明する、十月三十日/備前の宇喜多

秀家が信長方の身方となり赦免される、などす

べて順調に進みます。

10)以下の3件がほぼ同時に進行している件は

注意を要します。

*十一月五日/信長は「二条御新造の普請が完

 成したので、禁裏に進上したい」と奏聞に付す、

*十一月二十日/信長は一五七六年十月十二日

 誕生の正親町天皇の五宮を猶子にすることを許

 される、
*十一月二十二日/誠仁親王が二条新御所に移

 徙(わたまし)する。

まさに、禁裏のためならどんな出費も厭わない信

長公の面目躍如といった場面です。

11)ほぼ予想された通り、十二月十六日に 京に

送られた荒木一類を京都六条河原で成敗します。

奉行は越前衆不破光治・前田利家・佐々成政・原

政茂・金森長近です。

以上
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信長から細川藤孝への手紙:36織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正七年正月十二日

2020-06-16 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


36織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正七年

正月十二日

 先だって下石(おろし)彦右衛門尉(頼重)が

(藤孝殿と)その方のもとへ訪れたおり、雁を(頼

重へのみやげに)遣わしたことを、礼儀として(我

が方に)わざわざ申し越してきたのを聞き、悦ば

しい限りである。そちらの(丹後・丹波)方面につ

いて父子で在所に詰める番を交替しているのは

しかるべきことである。なおもって、油断なく(手

勢に軍の)全般のことについて申付けを専一に

行うこと。永い間ご苦労であるが。今度見参され

ることがあれば、直接自分から口上を述べたい。

天正七年正月十二日 信長(黒印)

 長岡与一郎(忠興)とのへ

   ※天正七年=1579年


**純野のつぶやき**

天正六年(1578年)正月十二日付けで、長岡藤

孝・忠興の父子に別々の黒印状を発行するとは

信長公も芸が細かい!また「下石(おろし)頼重

が来た時に雁をみやげに持たしたのはいいん

じゃない!」と十五歳の少年を褒めるなど、なか

なか殿の気配り素晴らしいです。

以上
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