『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:46織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正九年九月十六日

2021-06-25 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


46織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正九

年九月十六日 

その国(丹後国)の船手などの朋輩を伯州

(伯耆国)方面へ移動させた状況について、

委細聞き届けた。もっとも神妙であると、

長岡藤孝に対してつぶさに申し遣わした。

よくよく粉骨(砕身)の族(やから)とし

て(父長岡藤孝と)専一に(軍働きを)究

めるよう願う。


天正九年九月十六日 信長(黒印)

 長岡与一郎(忠興)とのへ

    ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

これは信長公から丹後国在陣の長岡忠興に送

られた書状です。父長岡藤孝と嫡子長岡忠興

に対しては、一緒に括らないでそれぞれの功

績について評価を伝えるところが信長公の細

かいところです。長岡忠興は1563年月生

まれなので、この時19歳。父藤孝も信長公

も、手塩にかけて育て上げようとしている様

子が分かってほほえましいですね。

以上

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