経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、大河内正敏、科学から産業へ

2010-04-04 03:27:48 | Weblog
     大河内正敏

大河内正敏はすこぶる毛色の変った経済人です。彼は殿様です。そして本業は学者です。学者でありながら、理化学研究所(理研)の責任者になり、研究所機能と製造業機能を結びつける事に成功し、日本の重化学工業の発展に、従って軍需工業の発展に、尽くしました。
正敏は1878年(明治11年)旧大多喜藩主の長男として千葉県に生まれました。学習院、第一高等学校そして東京帝国大学工科大学を卒業し、すぐ専任講師に任じられ造兵学講座を担当しています。造兵学とは、銃砲を始めとする諸種の軍事機械を対象とする工学です。この間20歳時、旧吉田藩主の養子となり結婚します。襲封して子爵、ドイツに留学、工学博士、東京帝国大学教授に就任し、37歳貴族院議員に当選しています。ここまでならなんら変哲のない秀才学者の人生です。1921年、43歳時、理化学研究所第三代所長になります。ここから正敏の歴史に残る活躍が始まります。なお正敏は造兵学担当と同時に、工学科学生の基礎教養として物理学学習を義務付けています。私もこの事を知って驚きました。二つの学問は双子の兄弟だと思っていましたから。
日露戦争の後、日本は第二次産業革命期に突入します。それはなるべくしてなる産業発展の摂理でもありますが、日露戦争という歴史上初めての大規模消耗戦を経験し、軍事の背後にある工業力の意味を日本の政府や産業界はいやおうなく、認識指せしめられた結果でもあります。さらに第一次大戦中は欧米先進国から高度技術製品輸入が止まります。重化学工業の発展にはなによりも、その基礎となる、研究が欠かせません。当時つまり第一次大戦前の日本にある公的研究機関は、東京・京都・東北帝国大学の理工大学と後は、東京工業試験所、逓信省電気試験所、鉄道大臣官房試験所くらいであり、これらも厳密な意味で研究所の名に値するのか、怪しいものでした。民間研究所に至ってはもっと低い水準にあったと想像されます。
1913年、タカジャスタ-ゼの発見とアドレナリンの結晶化で有名な高峰譲吉がドイツから帰国します。高峰は渋沢栄一と相談して、日本になんらかの理化学研究機関を作るべく運動します。相当の紆余曲折があって、1915年、理化学研究所設立趣意書、が作成されます。発起人の一人に大河内正敏の名が出ています。この研究所の意図は、民間から寄付を集めて、研究資金にしようという事です。1917年に始めて理化学研究所ができました。幹部は以下の通りです。
 総裁  伏見宮貞愛親王
 副総裁 菊池大ろく、渋沢栄一
 顧問  山川健次郎
 理事  大橋新太郎、和田豊治、団琢磨、高松豊吉、高嶺譲吉、中宮武営、桜井錠二、   
     荘清次郎、田所栄治、上山満之進
 監事  岩崎小弥太、原六郎、安田善次郎、古河虎之助、三井八郎右衛門
学会と財界の錚々たる所を集めました。しかし時代は大戦後の不況下にあり、寄付金は思うように集まりません。始めの予定は500万円でしたが、300万円しか集まりませんでした。
 1921年、第三代所長として大河内正敏が就任します。火中の栗を拾う、と世間では言われました。かねてより、正敏は貴族院議員として国防の基礎である重化学工業、さらにその基礎としての理化学(物理学と化学)の研究、しかも基礎的研究の意義を説いていました。それまで戦争は戦闘であり、優秀な兵士と優秀な武器を装備して、短期間に結果が出るものという、認識でした。第一次大戦を経験してもそうでした。特に日本はこの大戦に参加していませんので、総力戦の意味を知る者はほとんどない有様でした。大河内は造兵学者の立場から出発して、学者という狭い範囲の認識を超えて、総力戦、その為の資本装備と研究開発の緊要さを知り、力説しました。だから理研設立の発起人の一人になり、所長就任を引き受けました。彼が工学の基礎として物理学を唱導したのと同じです。学者としては基礎研究を重視し、学術政策家としては総力戦の持つ経済的な意味を知悉していた、稀な人材です。
 正敏は理研の維持発展のために行動します。彼が所長になってから、理研の活動が実践化されたといえます。正敏は部長制度を廃止して主任研究員制に変えます。研究単位を細分し、その責任者として主任研究員を任じ、研究者の自主性が発現されやすいようにします。
 寄付金だけでは足りません。国家補助金を増やします。多分彼の貴族院議員として人脈を生かしたのでしょう。そして切り札は、自力による発明の工業化、です。彼は理化学興業(工業ではありません)を設立します。この組織は理研で開発された特許を工業化する組織です。理研がいくら特許を開発しても、当時の日本の工業力と技術水準、特に経営者の意識水準の為に、肝心の特許が買われません。正敏は、それなら理研の自力で特許を実用化してやろう、と思ったわけです。そのために試験工場という制度・組織を作りました。文字通り、実験=製造・企業化のプロセスを遂行しようという試みです。
 実例を挙げます。マグネシウムの生産が必要になっていました。マグネシウムはアルミニウムより比重が小さく、航空機を作る上に重要です。二つの金属の合金がジュラルミンです。日本にはマグネシウムを出す鉱山はありません。海水の中にはあります。海水は無限量です。そこで海水からマグネシウムを取り出す技術の開発が試行されました。当時の日本のマグネシウムの需要は10トンでした。正敏は航空機の発展を考慮して20トンの生産を目指します。1932年、信濃電気と提携し同社の子会社内に、理研マグネシウムという会社を設立します。また併行してマグネシウム生産を試みていた満鉄中央研究所と提携し、満鉄を中心に理研、住友金属、三菱重工業、古河電気工業、沖の山炭鉱が共同出資して日満マグネシウムを設立します。既述の利権マグネシウムは同社に吸収されます。
 海軍航空本部長山本五十六に依頼されてピストンリングの改良を試みます。慎重なテストを経て、開発された技術は新潟県の農村に作られた理研の工場で生産されます。農村の女子労働力を生かしました。
 正敏は、理研は本来研究機関であり、民間が特許の使用をする力が無いから、企業化に踏み切ったのですから、理研傘下の企業は本来ヴェンチュア-であり、小規模はやむを得ないと考えていました。理研傘下の企業が増えます。多種の参加形態がありました。試験工場を皮切りにして、そこから理研の子会社として独立するもの、特殊なあり方としての農村企業、買収したもの、そして自発的に理研に加盟した会社などがあります。これらの会社の資金融通のために、富国工業という持株会社を作ります。他に宣伝広告や販売のための会社も設立します。こうしてできた企業群を理研コンツエルンと言います。
 正敏の経営には際立った特徴があります。まず科学主義です。この事に関しては、単刀直入に、科学は経営に優る、あるいは、科学は資本に優る、と明言しています。だから正敏は単純な経営者ではありません。この事情を背景にして、一業一品主義を理想とします。また連鎖型経営を目指します。一つの研究は多くの可能性を産みます。そこから出てくる連鎖に従って、各段階で企業化できるものは企業化しようと、という考えです。また、資本は科学が解らない、とも言いました。研究開発には小規模企業の方が有利だというわけです。また熟練した専門工より、非熟練工を使用します。ただしその為には、熟練しなくとも扱える機械の開発が必要です。労働賃金の安さもあって、農村企業として試みられました。なんとなくアメリカのフォ-ドの考えと、中国の郷鎮企業の発想を混ぜ合わせた考えのような気がします。
 戦時体制下において臨時資金調整法が作られると正敏の企図は挫折します。この法律は一定量以上の資本金を有する企業にのみ重要産業への従事を任せる・優遇する事がその内容でした。正敏の批判する資本重点主義であります。正敏は科学主義に基づく技術の発展と、生産の促進は、必ずしも資本の量にはよらないと考えていました。彼は、政府は産業を知らない、だから大資本を優遇するのだと、言います。理研はかかる体制下、次第に資金融通に困り、再編を余儀なくされてゆきます。なおこの法律で締め出された中小企業が理研の加盟会社として生き残ろうとします。こうして理研産業団は膨張しました。
 ここで1925年時における特許の案件のごく一部を例示してみましょう。全部で80件あります。5件に限定します。
  インド-ル製造法
  清酒代用飲料製造法
  青化法による遊離窒素の固定法
  油脂より脂肪性ヴィタミンAを抽出する方法
  アルミニウム電気絶縁被膜の製法
あくまで例として挙げました。専門的な研究であり、同時に実用を目指している事が察知されます。
 1943年における仁科研究室のメンバ-は以下の通りです。
  原子核及び中間子の理論担当グル-プ
   主任研究員 仁科芳雄
   研究員   朝永振一郎 湯川英樹 
   副研究員・助手・嘱託 武谷三男・坂田昌一以下19名
専門外の私が知っている名前のみ挙げました。言われるまでもなく、湯川・朝永はノ-ベル賞受賞の第一及び第二号です。武谷と坂田も量子力学の権威になりました。このような研究グル-プが数十はあったようです。朝永振一郎は、理研の研究室ほど、自由な研究環境は無かったと、言っています。
 1945年敗戦。同年正敏は戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監されます。翌年出所、理研所長辞任、公職追放。そして1952年東大付属病院で死去しています。享年73歳。
なお理研の研究成果のかなりの部分は占領軍に押収されたようです。また日本の研究の進展を恐れた占領軍により、かなりの部分の研究領域が抹殺されたとも言われています。もっともこのような事は歴史の闇の中の事です。正敏が軍需工業に関連した事は事実ですが、彼の視野は重化学工業全般に及び、軍備はこの広い領域を包んだ政策を行わなければ、意味が無いと主張しました。この伝で行けば、戦前重化学工業に携わった者はすべて戦犯か公職追放の容疑者になります。事実占領軍は日本の重化学工業を壊滅させる意向でした。私が思いますに、アメリカのマンハッタン計画(原爆製造)に従事した研究者は戦犯にはならないのでしょうか?私は日本であれアメリカであれ、「戦犯」という概念は無意味なものだと、思っています。一国が戦争を決意した時、それに協力するのは自然の勢いです。戦争はとは所詮対立する国家間の利害調整の過程です。優劣勝敗の差はあれ、どちらにも「正義」はありません。同様に「悪」もありません。学徒動員に取られ終戦を迎えた知人が言っていました。東京裁判、あれは、勝てば官軍、ですなと。私も、少なくとも現在の心境としては、同感です。

 参考文献  新興コンツエルン理研の研究-大河内正敏と理研産業団  時潮社
       大河内正敏-評伝、日本の経済思想  日本経済新聞社
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