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古今集以下八代集-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-01-30 12:19:02 | Weblog
古今以下八代集-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋
 勅撰和歌集とは天皇あるいわ上皇(法皇)の命令で編纂された歌集です。従って収録された和歌は公的に名歌と認定されたと言えます。歌人は勅撰集に自分の歌が収録される事を熱望していました。あの有名な、俗世を捨てて旅に暮らした西行法師でさえ新古今和歌集に自分の歌が採られる事を熱望し運動していたという文書が40年前発見されました。勅撰集は905年成立の古今和歌集から1439年の後花園天皇の新続古今集まで総計21集が編纂されております。そのうち最初の八つの集は和歌及びその主宰者である王朝貴族の全盛期に作られ、内容が優れているので八代集と言われております。古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞歌集、千載集、新古今和歌集の八つです。ここではこの八代集を中心に勅撰集の内容や成立事情を説明して行きましょう。まず各和歌集の成立年代、勅命者、編纂者、そして代表的和歌数個を例示します。次の項では代表的な歌人を取り上げ品評してみます。歌人中心ですからその作者の和歌が勅撰集にすべて採り上げられているとは限りません。また歌の内容評価は好き好です、私の好みも当然反映されます。
(古今和歌集)
 905年、醍醐天皇、紀貫之・紀友則・壬生忠岑・凡河内みつね
  「花散らす風のやどりは誰か知る、我に教えよ行きてうらみむ」 素性法師
  「むすぶ手の雫ににごる山の井の、飽かでも人は別れぬるかな」 紀貫之
  「み吉野の山辺に咲ける桜花、雪かとのみぞあやまたれける」 紀友則
 この歌集の最大のそして画期的な特徴は和歌に仮名表記を用いている事です。仮名書き文学の初めは竹取物語ついで伊勢物語がありますが、古今和歌集の成立はそれらに遅れること二・三十年でしょう。また古今和歌集と伊勢物語の成立は表裏の関係にあります。古今和歌集最大の歌人が在原業平であること、伊勢物語の主人公は業平であり彼の歌物語(あるいは歌日記)でもある事が傍証です。
 なぜ仮名が発明されたのかは解りません。一説によれば僧侶が経典を暗記する時の記号として仮名が作られたとも言われております。漢字の一部を取れば片仮名、漢字を崩して使うと平仮名になると言われます。ただ仮名という表音文字を発明したことで日本語は大いに発展し大いに利益を受けました。まず仮名を間に挟む事により、漢字の無秩序な羅列が分断され、漢字の意味が固定されます。意味が固定されると表音のための音素(フォネ-ム)が節約されます。話しやすくなります。日本人の集団帰属性の良さは、かかる共有されやすい言語を創造した事にもよります。また仮名による漢字羅列の分断により、主語(名詞)と述語(動詞)の区別が豁然とした事、だから時制(テンス)が確立した事です。助詞を使えば前置詞の役目も果たせます。従って複文重文の使用は可能になります。反対に漢文(中国語)には主語と述語の区別もなく時制もありません。簡単かつ極端に言えば、中国語とは表意文字としての漢字のかなり無秩序な羅列混住です。表音性がないので漢字の発音は自由です。無秩序な表音性を表すために新たな漢字は作らます。表音性と表意性は相互に影響しつつ増大します。日本語の音素は100くらいですが、中国語の音素は1600に昇ります。こういう無秩序な言語を使用していると統一された言語体系が確立しません。無限に方言が増えそれは異なる言語になってゆきます。日本人が英仏独語をなんとか使えるようなるには二・三年で十分ですが、中国語を学ぶには10年は要るでしょう。仮名表記はこのような漢字の鉄の鎖から日本人を解放してくれました
 仮名は始め女性の交信用に使用されていたようです。従って仮名は女文字とも言われます。男子も使っていたとは思いますけどねえ。古今集の仮名序(真名序も同じですけど)に「和歌は万葉のころは栄えたが、退廃し色事の手段、女文字の使用ゆえに軽蔑された時期がある」と書いてあります。桓武天皇や嵯峨天皇は万葉集の持つ奈良臭と反逆性を嫌い、漢文学を推奨しました。従ってこの時代は和風文化衰退期と言われております。その後100年藤原氏の政権が確立するに伴い和歌が力を盛り返してきたと言えましょう。その点で905年とは意味ある年ではあります。菅原道真が追放され、藤原氏と醍醐天皇の地位は安泰となったのですから。
 古今和歌集には前後に仮名序と真名(漢字)序があります。内容は似たようなものです。仮名序の一部を書きだします。
「力をも入れずして天地を動かし、見に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかもやはらげ、猛き(武士)もののふの心をもなぐさむるは、歌なり」
「春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるをきき、あるは、年ごとの鏡の影に見ゆる雪と波とを嘆き、草の露、水の泡を見て、我が身を驚き、あるは、昨日は栄えおごりて、時を失い、世にわび、親しありしもうとくなり----」
 仮名序の中で六歌仙の歌風が紹介されます。かなり手厳しいと言えます。古今集は六歌仙と編者の時代の和歌が中心ですから、手厳しいとは言え、先行する六歌仙は和歌興隆の功労者でもあります。以下簡単に紹介します
 僧正遍照は、歌のさま得たれども誠すくなし。絵にかける女を見ていたづらに心を動かすがごとし。
  例示、「浅緑いとよりかけて、白露を珠にもぬける春の柳か」
 在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくて匂えるがごとし。
  例示、「春の着る霞の衣、ぬきをうすみ、山かぜにこそ乱るべらなれ」
 文屋康秀は、言葉たくみにて、そのさま身におはず。商人のよき衣をきたらんがごとし。
  例示「吹くからに秋の草木のしをるれば、むべ山風をあらしといふらむ」
 宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。
  例示「我が庵は宮この辰巳、しかぞすむ、世をうじ山と人はいうなり」
 小野小町は、あはれなるようにて強からず、よき女の悩めるところあるに似たり。
  例示「思ひつつぬればや人の見えつらん、夢と知りせば消えざらましを」
大伴黒主は、そのさまいやし。薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。
例示「春さめのふるは涙か、さくら花ちるをおしまぬ人しなければ」 
 この評で、「ごとし」という言葉が使われています。例えば「誠すくなし」と「絵にかける女」の対照です。前者が評される事物、後者が評する譬えです。後者を「見立てる」事によって前者の意味が判然かつ生気にあふれたものになります。この事物を他の事物で譬え評する事を「見立て」と言います。「見立て」は詩歌では本能的に行う技法ですが、古今集でこの技法が明示されました。「見立て」の技法により、言語は限りなく連なる・連続する事ができます。後世の連歌の起源です。連歌の出現は早く、古事記にも見られますが、明示されたのは御拾遺集、明確な部門として確立したのは金葉集からです。平安中期から歌合せが盛んになりますが、これも和歌の応酬と言う意味では掛け合い・連なりです。連歌とは極めて民衆的な詩歌です。この事実は銘記しておいてください。繰り返しますが「見立て」は詩歌の根本です。「見立て」より一般的には比喩により言語が主客相和相即しつつ連なります。従って詩歌は原語の真髄です。
 古今集により作歌技術が明示され確立しました。枕詞、縁語、掛け言葉などです。枕詞は意味ある言葉の上に付け言葉を導出する言葉です。リズムを整えると申しましょうかあるいわ古代の呪符の名残と申しましょうか、そういう物です。例えば「たらちねの母」、「草枕山」「星月夜鎌倉」「あおによし奈良」などです。この技法は近代短歌でも使用されています。縁語・掛け言葉は言葉の意味と音を掛け合わせ繋げる技法です。音と意味の双方の類似を用います。代表的な和歌を挙げます。
 「われをきみ難波の浦にありしかば浮き和布(め)を三津の海人となりにき」
ここで「難波」は「何は」を、「浦」は「憂ら」、「浮和布(うきめ)」は「憂き目」、「三津(寺の名))」は「見つ」、「海人」は「尼」を意味します。考えながら鑑賞してください。
 こういう技法の延長上に本歌取りの技法が発展します。本歌取りとは先のあるいわ過去歌われた歌の意味を背景にして自分の歌を重ねあわせるやり方です。本歌取りは新古今和歌集で多用され確立されたと言われますが、源氏物語の中の和歌には本歌取りが盛んに用いられています。
 また古今和歌集で歌のジャンルが確立しました。四季、恋、祝い、旅、賀歌、離別、物名、哀傷などです。長歌や旋頭歌もありますが万葉集に比べると減少しています。
 古今集以後の和歌作成の過程の中で歌詞(うたことば)が発達します。和歌専用の言葉で、それ以外の言葉の使用は慎まれるようになります。儀礼としての政治の発展過程で生活や感情の表現が形式化類型化されます。従って詠む・使う言葉も類型化されます。それが歌詞です。一番大切な言葉は季節を表す言葉です。以下のように類型化されます。
 春 ― 霞、若菜、梅、鶯、桜、山吹、藤
 夏 - 葵、橘、時鳥、雨、撫子、蛍
 秋 - 風、野分、霧、朝顔、夕顔、萩、女郎花、松虫、鈴虫、雁、露、霜
 冬 - 紅葉、時雨、雪
 これらの言葉が季節の推移を微妙に表します。逆にこれら以外の言葉の使用は避けられます。また人間の感情は著しくパタ-ン化され、極端に言えば恋・別れ・旅・祝いの四つに整序されます。言葉が持つ意味も単純化されます。春は桜、秋は月で表示されるようになります。桜は華やかで美しいもの、月は明るくて清澄なものとされます。女郎花は女、撫子は女児、鈴虫ははかなくてかぼそい生物、松虫は「松=待つ」から恋する者、雁は別れという具合に類型化されてしまいます。
 歌詞の一種に「歌枕」というジャンルがあります。歌枕とは地名です。その地名に特定の風景・感情が封じ込められ類型化されたものが歌枕です。たとえば吉野といえば桜、三室の山といえば紅葉、白山は雪の名所というふうにレッテルを張られます。須磨は流謫と別れ、明石は「明るい」ところ、宇治は「憂し=うっとうしい」ところとなります。
 このように類型化(形式化、象徴化)された歌詞は平安末期で約2000と言われます。この範囲で和歌が作られる事が求められます。古今和歌集から始まった和歌作成の技法は発展し平安中期10世紀末「古今六帖」という本が作られました。和歌を詠むためのノウハウを書いた本です。生活が儀礼化し感情のやり取りが摩擦なく行われるために和歌が発展しました。ということはある程度の和歌作成能力がないと人間関係(特に貴族間の)交際に支障をきたすことになります。だから古今六帖のような本が必要になったのです。
以下私が好む歌を古今集の中から抜粋してみます。
「年の内に春は帰にけり、ひととせをこぞとやいはん、ことしとやいはん」在原元方
  この歌は古今集暴冒頭の春の歌です。
「袖ひじてむすびし水のこほれるを、春立つけふの風やとくらん」紀貫之
「春の夜のやみはあやなし梅の花、色こそみえね香やはかくるる」紀友則
「人はいさ心も知らずふるさとは、花ぞ昔の香ににおいける」紀貫之
「春ごとに流るる河を花とみて、折られぬ水に袖やぬれなん」伊勢
  この歌は非常に意味深長な歌です。部立は春の歌ですがむしろ恋歌いや淫歌
   とも言えます。
「世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」在原業平
「見わたせば、柳桜をこきまぜて、宮こぞ春の錦なりける」素性法師
 これには元歌があります。唐詩選だと思いますが「万里鶯鳴いて 緑紅にはず 南朝四百八十寺 多少の楼台煙雨の中」です。作者は忘れました。
「久方のひかりのどけき春の日に、しずこころなく花の散るらむ」紀友則
「花の色はうつりにけりないたずらに、我が身世にふるながめせしまに」小野小町
  「ふる」「ながめ」は縁語です。
「さつきまつ花たちばなの香をかげば、昔の人の袖の香ぞする」詠み人知らず
   業平の作めいていますが
「石上(いそのかみ)ふるき都のほととぎす、こえばかりこそむかしありけれ」素性法師
「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」藤原敏行
「昨日こそ早苗とりしか、いつのまに、稲場そよぎて秋風のふく」詠み人知らず
「うきことを思ひつらねて、かりがねのなきこそわたれ、秋の夜な夜な」みつね
「名にめでて折れるばかりぞ、女郎花、我おちにきと人に語るな」僧正遍照
  坊さんの詠む歌ではありませんな。
「心あてに折らばや折らん初霜の、置きまどわせる白菊の花」みつね
「山里は冬ぞ寂しさまさりける、人めも草も枯れぬと思えば」源朝臣
「別れをば山の桜にまかせてん、とめむとめじは花のまにまに」幽仙法師
「むばたまのわが黒髪やかはるらん、鏡の上にふれる白雪」紀貫之
「恋せずと御手洗川にせしみそぎ、神は受けずとなりにけらしも」詠み人知らず
「思いつつぬればや人の見えつらん、夢と知りなば覚めざらましお」小野小町
「露ならぬ心を花におきそめて、風吹くごとに物おもひぞつく」紀貫之
「さむしろに衣かたしき、今宵もや我をまつらむ、宇治の橋姫」詠み人知らず
「深草の野辺の桜し心あらば、今年ばかりは墨染に咲け」かむつけのむねお
「わが心慰めかねつ更科や、おばすて山に照る月をみて」詠み人知らず
「世の中はなにか常なる飛鳥川、きのうの淵ぞきょうは瀬となる」詠み人知らず
「わびぬれば身を浮き草の根を絶えて、誘う水あらばいなんとぞ思う」小野小町
「紅にそめし心もたのまれず、人をあくにはうつるてふなり」詠み人知らず
 


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