日本史入門(22) 荻生徂徠
1 徳川家康は堅実な人、学者の意見を聴き、政治の参考にした。藤原セイカの意見に従い林羅山を採用、林家の家学朱子学は幕府正統の学問に。綱吉は林信篤に束髪を許す、儒者を正統な武家として認知。
漢字仏教律令制とともに日本に招来された儒学が一般でも学習されるのは江戸時代から。日本で儒学が学ばれだすと変化は速く、速度は本家の中国の比ではない。山崎闇斎は儒学を神道と習合、中江藤樹熊沢蕃山は陽明学を日本化、新井白石は実証的な歴史を著述、伊藤仁斎は儒書の歴史的考察を試みた。儒学の多伎な進化の結節点に荻生徂徠は位置する。
2 徂徠は館林綱吉の侍医の子として1666年に生まれる。林家に入門、朱子学の観念性に飽き足らず、彼自身の学風を育て独自の学問を樹立。柳沢吉保に仕え、後浪人し民間の学者として活動。彼の学問は実証方法から形而上学哲学そして実学たる政治経済学に及び、規模は雄大。学風に応じ徂徠は陽気で寛容な人柄。
3 徂徠が成人した元禄時代、農民町人台頭と裏腹に幕藩財政は行き詰まる。幕藩体制の改革に理論的根拠を与えたのが荻生徂徠。徂徠は儒学を抜本的に勉強、中国語を中国語として習う。四書五経が書かれた頃の中国語と徂徠が生きた時代の中国語は異なるはずと見て、古代中国語を研究。これが彼の学問、古文辞学の出発点。徂徠は与えられた倫理や論理には満足しない、遡及し原点に帰る。四書五経を研究、儒学の要点は制度の叙述にあると悟る。礼は物なり、衆議の包塞するところなり。制度なら作られたはず、政治行為の原点は制度を作り定める事にある、作られた制度なら、作り変えうるはず、と彼は考える。
4 政治経済は自然に循環すると認識されていた。徂徠は循環に起動者を設定。設定の根拠が「利」の肯定。儒学では仁義が重視される。仁は人と人の間を繋げる概念、義は人と人の間の差異対立を強調。対立とは利害の対立、義は利。利害の対立を克服調整する装置が政治経済制度。利を持ち込むことにより徂徠は、政治も経済も利の過程に関与し起動させる事で成り立つ、政治経済は人間が積極的に作ってゆくものと説く。政治経済が操作すべき機構として設定される。利害の調整が商議、商議は衆議の前提。徂徠は、政治制度は皆で衆議して作り上げるものと明言、民主主義。これが徂徠学の根幹。
5 政治経済に対し積極的具体的な提言。農村居住の武士が都市に住む。武士の都市居住を旅する境地に喩える、旅は人が意図して行なう変化する人為。徂徠は都市生活更に政治経済一般を人為的で作られたもの、変更可能、政策的に介入可能なものとみなす。都市生活、貨幣経済、資本主義を展望し容認。
6 身分制を否定。高位の者は苦労を知らず馬鹿が多い、下位の者の方が有能だ、下級武士を登用、農民町人も能力次第で登用せよ、人は使わなければ能力が解らない、適材適所で使って専門家を養えと徂徠は言い切る。八代吉宗は老中に江戸市中の米価を尋ねた。満足に答えた者は誰もいない。徂徠の政治論「政談」は吉宗の要請で書かれた。
7 金銭関係の騒動は多発、貨幣経済が盛んになれば当然の事。幕府は当事者同志の内談を勧める、裁くための法律がない。幕初の慣例、10両盗めば首が飛ぶ、では経済行為など怖くてできない。徂徠は民事法作成を提唱。彼の死後1742年吉宗在任中「お定め書き百か条」ができる。吉宗政権が、経済政策の基本は通貨の統制にある、貨幣の量は経済政策の要だと気づいたのもこの頃。民事法制定を説く徂徠は寛刑を主張。公共の秩序を重視し訴人を推奨し私闘を非難、吉良邸に討ち入った赤穂浪士には死刑を主張。
裁判の記録がない。慣習と記憶による政治。徂徠は行政の文書化を説く。文書を書く者を書役留役調役といい官庁の係長クラスの役職。書役の設置は幕藩官僚の育成、下級武士の台頭を促す。幕末、川路聖アキラは勘定奉行所留役から昇進し外国奉行となり日露通商条約締結で活躍、西郷隆盛は群奉行調役から彼の政治生活を始める。
8 徂徠は農地の自由売買を主張。当時農地は原則として売買禁止。農民の耕作権の保証、年貢徴取と扶持給付が封建制度の根幹。生産力が一定程度に保たれ安定していることが前提。農地の自由売買はこの前提を取り払う。自由売買土地集積地主出現と武士の存在は矛盾。農地の自由売買は上杉鷹山や田沼意次の政治にも散見される。徂徠の発想は近代的資本主義的、武家政治の否定。
9 徂徠は貨幣流通量に着目、その増大を推奨。貨幣が経済に対し持つ意義については綱吉政権、吉宗政権が苦闘しつつ探求。金銀貨の金銀含有量を減らし金銀の量に応じて新旧の貨幣を交換。貨幣は単なる交換の媒体ではなく、常に増大させねばならない、人間の欲望が増大する限りは増大させねばならない、ということが解り始める。徂徠は武家政治の意義と危機を見抜き、同時に民主主義と資本主義の機構を鋭く把握。
11 徂徠の思想を西欧のそれと比較。作為としての政治、制度は約束で作られるという考えは17世紀末ホッブスにより始めて主張された。社会契約説。徂徠は衆議による政治を主張するのだから、彼は民主主義あるいは議会主義を説いたといえる。ロックもそう考えた。ロックの主著も17世紀末葉。政治から経済に視点を移したヒュ-ムの経済思想は18世紀中葉に著わされる。スミスが彼に続く。
12 徂徠以後経済学では彼の弟子太宰春台がいる。太宰が経済という用語を作る。他に一藩重商主義を説いた海保青陵、農本主義の安藤昌益、さらに本多利明や佐藤信淵。私は政治経済学への貢献という点では二人の庶民学者、石田梅岩と二宮尊徳を挙げる。梅岩は徂徠の説を進化させ社会契約説を論じる。倹約を義つまり利を積む事、約束により営利を営む事と解釈。倹約は一方で社会契約になり他方では流通過程になる。彼は、商人は利を積んで利を流通させ社会の必要を満たす行為者だから武士より貢献度が高いと言う。尊徳は、人間の欲望を肯定し、共感に基づく商議と契約を重視し、農業の資本主義化を容認し、有効需要の意義を発見。梅岩、尊徳ともに異色独創的な思想家、同時に民衆の教育者。
13 荻生徂徠は、制度は衆議により作られるとして、身分制武家政治を否定。利を肯定し利への関与が政治経済であるとし、政治行為における公権力の積極的な介入を提唱。都市経済を重視し、その人為性の中に資本主義の本質を見抜き、農地売買の自由、流通貨幣量の意義を説き、民事法作成、専門職養成、行政の文書化、寛刑を主張。石田梅岩の社会契約説は庶民の政治経済への主体性を唱導。二宮尊徳は資本主義的農業を認め有効需要の意義を発見。江戸時代、徳川合理主義、思想的にも実践的にも多産多彩な時代。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
1 徳川家康は堅実な人、学者の意見を聴き、政治の参考にした。藤原セイカの意見に従い林羅山を採用、林家の家学朱子学は幕府正統の学問に。綱吉は林信篤に束髪を許す、儒者を正統な武家として認知。
漢字仏教律令制とともに日本に招来された儒学が一般でも学習されるのは江戸時代から。日本で儒学が学ばれだすと変化は速く、速度は本家の中国の比ではない。山崎闇斎は儒学を神道と習合、中江藤樹熊沢蕃山は陽明学を日本化、新井白石は実証的な歴史を著述、伊藤仁斎は儒書の歴史的考察を試みた。儒学の多伎な進化の結節点に荻生徂徠は位置する。
2 徂徠は館林綱吉の侍医の子として1666年に生まれる。林家に入門、朱子学の観念性に飽き足らず、彼自身の学風を育て独自の学問を樹立。柳沢吉保に仕え、後浪人し民間の学者として活動。彼の学問は実証方法から形而上学哲学そして実学たる政治経済学に及び、規模は雄大。学風に応じ徂徠は陽気で寛容な人柄。
3 徂徠が成人した元禄時代、農民町人台頭と裏腹に幕藩財政は行き詰まる。幕藩体制の改革に理論的根拠を与えたのが荻生徂徠。徂徠は儒学を抜本的に勉強、中国語を中国語として習う。四書五経が書かれた頃の中国語と徂徠が生きた時代の中国語は異なるはずと見て、古代中国語を研究。これが彼の学問、古文辞学の出発点。徂徠は与えられた倫理や論理には満足しない、遡及し原点に帰る。四書五経を研究、儒学の要点は制度の叙述にあると悟る。礼は物なり、衆議の包塞するところなり。制度なら作られたはず、政治行為の原点は制度を作り定める事にある、作られた制度なら、作り変えうるはず、と彼は考える。
4 政治経済は自然に循環すると認識されていた。徂徠は循環に起動者を設定。設定の根拠が「利」の肯定。儒学では仁義が重視される。仁は人と人の間を繋げる概念、義は人と人の間の差異対立を強調。対立とは利害の対立、義は利。利害の対立を克服調整する装置が政治経済制度。利を持ち込むことにより徂徠は、政治も経済も利の過程に関与し起動させる事で成り立つ、政治経済は人間が積極的に作ってゆくものと説く。政治経済が操作すべき機構として設定される。利害の調整が商議、商議は衆議の前提。徂徠は、政治制度は皆で衆議して作り上げるものと明言、民主主義。これが徂徠学の根幹。
5 政治経済に対し積極的具体的な提言。農村居住の武士が都市に住む。武士の都市居住を旅する境地に喩える、旅は人が意図して行なう変化する人為。徂徠は都市生活更に政治経済一般を人為的で作られたもの、変更可能、政策的に介入可能なものとみなす。都市生活、貨幣経済、資本主義を展望し容認。
6 身分制を否定。高位の者は苦労を知らず馬鹿が多い、下位の者の方が有能だ、下級武士を登用、農民町人も能力次第で登用せよ、人は使わなければ能力が解らない、適材適所で使って専門家を養えと徂徠は言い切る。八代吉宗は老中に江戸市中の米価を尋ねた。満足に答えた者は誰もいない。徂徠の政治論「政談」は吉宗の要請で書かれた。
7 金銭関係の騒動は多発、貨幣経済が盛んになれば当然の事。幕府は当事者同志の内談を勧める、裁くための法律がない。幕初の慣例、10両盗めば首が飛ぶ、では経済行為など怖くてできない。徂徠は民事法作成を提唱。彼の死後1742年吉宗在任中「お定め書き百か条」ができる。吉宗政権が、経済政策の基本は通貨の統制にある、貨幣の量は経済政策の要だと気づいたのもこの頃。民事法制定を説く徂徠は寛刑を主張。公共の秩序を重視し訴人を推奨し私闘を非難、吉良邸に討ち入った赤穂浪士には死刑を主張。
裁判の記録がない。慣習と記憶による政治。徂徠は行政の文書化を説く。文書を書く者を書役留役調役といい官庁の係長クラスの役職。書役の設置は幕藩官僚の育成、下級武士の台頭を促す。幕末、川路聖アキラは勘定奉行所留役から昇進し外国奉行となり日露通商条約締結で活躍、西郷隆盛は群奉行調役から彼の政治生活を始める。
8 徂徠は農地の自由売買を主張。当時農地は原則として売買禁止。農民の耕作権の保証、年貢徴取と扶持給付が封建制度の根幹。生産力が一定程度に保たれ安定していることが前提。農地の自由売買はこの前提を取り払う。自由売買土地集積地主出現と武士の存在は矛盾。農地の自由売買は上杉鷹山や田沼意次の政治にも散見される。徂徠の発想は近代的資本主義的、武家政治の否定。
9 徂徠は貨幣流通量に着目、その増大を推奨。貨幣が経済に対し持つ意義については綱吉政権、吉宗政権が苦闘しつつ探求。金銀貨の金銀含有量を減らし金銀の量に応じて新旧の貨幣を交換。貨幣は単なる交換の媒体ではなく、常に増大させねばならない、人間の欲望が増大する限りは増大させねばならない、ということが解り始める。徂徠は武家政治の意義と危機を見抜き、同時に民主主義と資本主義の機構を鋭く把握。
11 徂徠の思想を西欧のそれと比較。作為としての政治、制度は約束で作られるという考えは17世紀末ホッブスにより始めて主張された。社会契約説。徂徠は衆議による政治を主張するのだから、彼は民主主義あるいは議会主義を説いたといえる。ロックもそう考えた。ロックの主著も17世紀末葉。政治から経済に視点を移したヒュ-ムの経済思想は18世紀中葉に著わされる。スミスが彼に続く。
12 徂徠以後経済学では彼の弟子太宰春台がいる。太宰が経済という用語を作る。他に一藩重商主義を説いた海保青陵、農本主義の安藤昌益、さらに本多利明や佐藤信淵。私は政治経済学への貢献という点では二人の庶民学者、石田梅岩と二宮尊徳を挙げる。梅岩は徂徠の説を進化させ社会契約説を論じる。倹約を義つまり利を積む事、約束により営利を営む事と解釈。倹約は一方で社会契約になり他方では流通過程になる。彼は、商人は利を積んで利を流通させ社会の必要を満たす行為者だから武士より貢献度が高いと言う。尊徳は、人間の欲望を肯定し、共感に基づく商議と契約を重視し、農業の資本主義化を容認し、有効需要の意義を発見。梅岩、尊徳ともに異色独創的な思想家、同時に民衆の教育者。
13 荻生徂徠は、制度は衆議により作られるとして、身分制武家政治を否定。利を肯定し利への関与が政治経済であるとし、政治行為における公権力の積極的な介入を提唱。都市経済を重視し、その人為性の中に資本主義の本質を見抜き、農地売買の自由、流通貨幣量の意義を説き、民事法作成、専門職養成、行政の文書化、寛刑を主張。石田梅岩の社会契約説は庶民の政治経済への主体性を唱導。二宮尊徳は資本主義的農業を認め有効需要の意義を発見。江戸時代、徳川合理主義、思想的にも実践的にも多産多彩な時代。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
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