経済人列伝 山辺丈夫
幕末の薩摩に島津斉彬という名君がいました。早くから蘭学を通じて西欧の文明に興味を持ち、持つだけでなく、日本の最南端に西欧文明を実現しようとしました。事実この殿様はかなりな程度の工業施設を薩摩に作ります。斉彬が始めて西欧の綿糸綿布を見た時、その優秀さに驚き、必ずこの品は日本を苦しめるであろう、と予言します。江戸時代、日本では大阪や三河を中心に綿製品はたくさん作られていました。しかし開国と同時に、西欧の優れた製品が輸入され、日本の紡績業(そのほとんどが家内工業ですが)は圧倒されます。先に紹介した臥雲辰致、そしてここで取り上げる山辺丈夫は、このような紡績業の危機にそれぞれのやり方で対処します。前者は地場産業の伝統の中から新しい紡績機を考案し、後者は綿紡績の先進地であるイギリスから直接技術を導入します。
山辺丈夫は嘉永4年(1851年)に、石見国家禄110石の津和野藩士、清水格亮の次男として生まれ、山辺善三の養子になります。15歳、藩校である養老館に入り儒学を学びます。維新の時は17歳、官軍に編入されて戊辰戦争に従軍します。たいした戦闘はなかったようです。東京へ出て、郷里の先輩である西周の薫陶を受け、英語を習得します。また当時慶応義塾と並び称せられた、中村敬宇の経営する同人社に学びます。
津和野藩はたかだか4万石少々の小藩ですが、ここからは幕末維新期に二人の人材が出ています。二人とも日本の近代化にかかせない役目を果たしました。西周と森鴎外です。西は欧州に遊学し諸々の学問を学んで帰り、日本に西欧の近代的な学問を紹介します。「哲学」は彼が「philosophy」を翻訳した言葉です。鴎外は医科大学(東大医学部の前身)に学び、ドイツに留学し、近代医学を勉強して後に軍医中将になります。もっとも彼の場合は文学者として近代文学を創始した事の方で有名ですが。津和野の藩主は亀井氏です。亀井氏が入国する前は、これも有名な坂崎出羽守の領地でした。大阪夏の陣で坂崎は豊臣秀頼に嫁いでいた千姫(徳川家康の孫娘)を落城の中から救いますが、家康に約束をほごにされ、やがて取り潰されます。坂崎氏の後に入ってきたのが亀井氏です。初代の亀井シゲ--にはおもしろい逸話があります。毛利氏から秀吉についた彼は、恩賞に何が欲しいと聞かれ、琉球が欲しいと言います。秀吉はすぐ「亀井琉球守」と扇子に書いて渡します。このように津和野は本州西端の僻地ではありますが、個性的な人物を輩出しています。現在でも津和野は観光地として有名です。
山辺丈夫は1877年旧藩主亀井シゲ明のお供でロンドンに留学します。そこで彼は経済学を学んでいました。前後して渋沢栄一を中心に計画が持ち上がります。当時の日本には大規模な紡績工場はありません。というよりそれを運営する技術がなかったのです。渋沢達は、なんとかして日本にも西欧並みの工場を作ろうとします。そのためには西欧の工場に精通した日本人が必要です。そこで山辺丈夫に白羽の矢が立ちます。その旨ロンドンの山辺に連絡が行きます。山辺はすぐ行動に移ります。専門を経済学から機械工学に変更します。大学は、university college からkings collegeに変ります。単に大学で機械の事を学んでいただけでは、役に立たないと思い、紡績業の中心地マンチェスタ-に行きます。そこでいろんな工場に掛け合います。要は、紡績工として働かせてくれ、紡績の実際を学びたい、謝礼はするから、という事です。しかし工場主達はみな断ります。まさか彼らが、半世紀後日本の紡績業が英国を抜くと想像したとは思いませんが、まあたいていの人は断るでしょう。一人、W・グリクスという人が応諾してくれ、彼の経営するロ-ズヒル工場で山辺は働く事になります。その時のグリクスから手紙の一部が次の文章です。山辺の日記から抜粋しました。
He says,”I have received another recommendation from my friend.The money is not matter of problem .You can come to my mill.
1879年9月1日から働き始め、翌年5月27日にロンドンを去ります。謝礼は150ポンドです。
1880年紡績協会が渋沢の音頭で作られ、山辺は月給45円で雇われます。技師長格です。1882年(明治15年)大阪三軒屋にプラット社製のミュ-ル紡績機が15代、15000錘備え付けられます。これが日本で始めての大規模紡績工場、大阪合同紡績です。イギリスからニ-ルドという技師がついてきていました。ここで山辺に関する有名な逸話があります。イギリス人技師は、こんな大規模な工場を日本人だけで運営できるはずがない、と言います。山辺は、断固日本人だけでできると、明言したそうです。工場は昼夜二交代制を取りました。そのため照明をランプでとったらしょちゅう発火するので、当時アメリカで発明された、白熱電灯をエディソン電機会社から輸入しました。白熱電灯は珍しく、それを見に来る人達で一時、工場はごったがえしたそうです。
山辺は大阪合同紡績の運転開始と同時に齋藤恒三、菊池恭三ら3名を預けられます。彼らもイギリスの工場で実地修練をしてきた人達です。彼らが洋式大工場の技師に育ってゆきます。そして彼らの次には工科大学(東京帝大工学部の前身)出身の人達が工場技師として活躍し始めます。
大阪合同紡績は三重紡績と合併し東洋紡績になります。山辺丈夫は後に常務取締役を経て、東洋紡績の社長に就任します。
参考文献 講座・技術の社会史 日本評論社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
幕末の薩摩に島津斉彬という名君がいました。早くから蘭学を通じて西欧の文明に興味を持ち、持つだけでなく、日本の最南端に西欧文明を実現しようとしました。事実この殿様はかなりな程度の工業施設を薩摩に作ります。斉彬が始めて西欧の綿糸綿布を見た時、その優秀さに驚き、必ずこの品は日本を苦しめるであろう、と予言します。江戸時代、日本では大阪や三河を中心に綿製品はたくさん作られていました。しかし開国と同時に、西欧の優れた製品が輸入され、日本の紡績業(そのほとんどが家内工業ですが)は圧倒されます。先に紹介した臥雲辰致、そしてここで取り上げる山辺丈夫は、このような紡績業の危機にそれぞれのやり方で対処します。前者は地場産業の伝統の中から新しい紡績機を考案し、後者は綿紡績の先進地であるイギリスから直接技術を導入します。
山辺丈夫は嘉永4年(1851年)に、石見国家禄110石の津和野藩士、清水格亮の次男として生まれ、山辺善三の養子になります。15歳、藩校である養老館に入り儒学を学びます。維新の時は17歳、官軍に編入されて戊辰戦争に従軍します。たいした戦闘はなかったようです。東京へ出て、郷里の先輩である西周の薫陶を受け、英語を習得します。また当時慶応義塾と並び称せられた、中村敬宇の経営する同人社に学びます。
津和野藩はたかだか4万石少々の小藩ですが、ここからは幕末維新期に二人の人材が出ています。二人とも日本の近代化にかかせない役目を果たしました。西周と森鴎外です。西は欧州に遊学し諸々の学問を学んで帰り、日本に西欧の近代的な学問を紹介します。「哲学」は彼が「philosophy」を翻訳した言葉です。鴎外は医科大学(東大医学部の前身)に学び、ドイツに留学し、近代医学を勉強して後に軍医中将になります。もっとも彼の場合は文学者として近代文学を創始した事の方で有名ですが。津和野の藩主は亀井氏です。亀井氏が入国する前は、これも有名な坂崎出羽守の領地でした。大阪夏の陣で坂崎は豊臣秀頼に嫁いでいた千姫(徳川家康の孫娘)を落城の中から救いますが、家康に約束をほごにされ、やがて取り潰されます。坂崎氏の後に入ってきたのが亀井氏です。初代の亀井シゲ--にはおもしろい逸話があります。毛利氏から秀吉についた彼は、恩賞に何が欲しいと聞かれ、琉球が欲しいと言います。秀吉はすぐ「亀井琉球守」と扇子に書いて渡します。このように津和野は本州西端の僻地ではありますが、個性的な人物を輩出しています。現在でも津和野は観光地として有名です。
山辺丈夫は1877年旧藩主亀井シゲ明のお供でロンドンに留学します。そこで彼は経済学を学んでいました。前後して渋沢栄一を中心に計画が持ち上がります。当時の日本には大規模な紡績工場はありません。というよりそれを運営する技術がなかったのです。渋沢達は、なんとかして日本にも西欧並みの工場を作ろうとします。そのためには西欧の工場に精通した日本人が必要です。そこで山辺丈夫に白羽の矢が立ちます。その旨ロンドンの山辺に連絡が行きます。山辺はすぐ行動に移ります。専門を経済学から機械工学に変更します。大学は、university college からkings collegeに変ります。単に大学で機械の事を学んでいただけでは、役に立たないと思い、紡績業の中心地マンチェスタ-に行きます。そこでいろんな工場に掛け合います。要は、紡績工として働かせてくれ、紡績の実際を学びたい、謝礼はするから、という事です。しかし工場主達はみな断ります。まさか彼らが、半世紀後日本の紡績業が英国を抜くと想像したとは思いませんが、まあたいていの人は断るでしょう。一人、W・グリクスという人が応諾してくれ、彼の経営するロ-ズヒル工場で山辺は働く事になります。その時のグリクスから手紙の一部が次の文章です。山辺の日記から抜粋しました。
He says,”I have received another recommendation from my friend.The money is not matter of problem .You can come to my mill.
1879年9月1日から働き始め、翌年5月27日にロンドンを去ります。謝礼は150ポンドです。
1880年紡績協会が渋沢の音頭で作られ、山辺は月給45円で雇われます。技師長格です。1882年(明治15年)大阪三軒屋にプラット社製のミュ-ル紡績機が15代、15000錘備え付けられます。これが日本で始めての大規模紡績工場、大阪合同紡績です。イギリスからニ-ルドという技師がついてきていました。ここで山辺に関する有名な逸話があります。イギリス人技師は、こんな大規模な工場を日本人だけで運営できるはずがない、と言います。山辺は、断固日本人だけでできると、明言したそうです。工場は昼夜二交代制を取りました。そのため照明をランプでとったらしょちゅう発火するので、当時アメリカで発明された、白熱電灯をエディソン電機会社から輸入しました。白熱電灯は珍しく、それを見に来る人達で一時、工場はごったがえしたそうです。
山辺は大阪合同紡績の運転開始と同時に齋藤恒三、菊池恭三ら3名を預けられます。彼らもイギリスの工場で実地修練をしてきた人達です。彼らが洋式大工場の技師に育ってゆきます。そして彼らの次には工科大学(東京帝大工学部の前身)出身の人達が工場技師として活躍し始めます。
大阪合同紡績は三重紡績と合併し東洋紡績になります。山辺丈夫は後に常務取締役を経て、東洋紡績の社長に就任します。
参考文献 講座・技術の社会史 日本評論社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行