経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

         経済人列伝  山辺丈夫

2021-05-02 23:35:35 | Weblog
経済人列伝 山辺丈夫

  幕末の薩摩に島津斉彬という名君がいました。早くから蘭学を通じて西欧の文明に興味を持ち、持つだけでなく、日本の最南端に西欧文明を実現しようとしました。事実この殿様はかなりな程度の工業施設を薩摩に作ります。斉彬が始めて西欧の綿糸綿布を見た時、その優秀さに驚き、必ずこの品は日本を苦しめるであろう、と予言します。江戸時代、日本では大阪や三河を中心に綿製品はたくさん作られていました。しかし開国と同時に、西欧の優れた製品が輸入され、日本の紡績業(そのほとんどが家内工業ですが)は圧倒されます。先に紹介した臥雲辰致、そしてここで取り上げる山辺丈夫は、このような紡績業の危機にそれぞれのやり方で対処します。前者は地場産業の伝統の中から新しい紡績機を考案し、後者は綿紡績の先進地であるイギリスから直接技術を導入します。
 山辺丈夫は嘉永4年(1851年)に、石見国家禄110石の津和野藩士、清水格亮の次男として生まれ、山辺善三の養子になります。15歳、藩校である養老館に入り儒学を学びます。維新の時は17歳、官軍に編入されて戊辰戦争に従軍します。たいした戦闘はなかったようです。東京へ出て、郷里の先輩である西周の薫陶を受け、英語を習得します。また当時慶応義塾と並び称せられた、中村敬宇の経営する同人社に学びます。
 津和野藩はたかだか4万石少々の小藩ですが、ここからは幕末維新期に二人の人材が出ています。二人とも日本の近代化にかかせない役目を果たしました。西周と森鴎外です。西は欧州に遊学し諸々の学問を学んで帰り、日本に西欧の近代的な学問を紹介します。「哲学」は彼が「philosophy」を翻訳した言葉です。鴎外は医科大学(東大医学部の前身)に学び、ドイツに留学し、近代医学を勉強して後に軍医中将になります。もっとも彼の場合は文学者として近代文学を創始した事の方で有名ですが。津和野の藩主は亀井氏です。亀井氏が入国する前は、これも有名な坂崎出羽守の領地でした。大阪夏の陣で坂崎は豊臣秀頼に嫁いでいた千姫(徳川家康の孫娘)を落城の中から救いますが、家康に約束をほごにされ、やがて取り潰されます。坂崎氏の後に入ってきたのが亀井氏です。初代の亀井シゲ--にはおもしろい逸話があります。毛利氏から秀吉についた彼は、恩賞に何が欲しいと聞かれ、琉球が欲しいと言います。秀吉はすぐ「亀井琉球守」と扇子に書いて渡します。このように津和野は本州西端の僻地ではありますが、個性的な人物を輩出しています。現在でも津和野は観光地として有名です。
 山辺丈夫は1877年旧藩主亀井シゲ明のお供でロンドンに留学します。そこで彼は経済学を学んでいました。前後して渋沢栄一を中心に計画が持ち上がります。当時の日本には大規模な紡績工場はありません。というよりそれを運営する技術がなかったのです。渋沢達は、なんとかして日本にも西欧並みの工場を作ろうとします。そのためには西欧の工場に精通した日本人が必要です。そこで山辺丈夫に白羽の矢が立ちます。その旨ロンドンの山辺に連絡が行きます。山辺はすぐ行動に移ります。専門を経済学から機械工学に変更します。大学は、university college からkings collegeに変ります。単に大学で機械の事を学んでいただけでは、役に立たないと思い、紡績業の中心地マンチェスタ-に行きます。そこでいろんな工場に掛け合います。要は、紡績工として働かせてくれ、紡績の実際を学びたい、謝礼はするから、という事です。しかし工場主達はみな断ります。まさか彼らが、半世紀後日本の紡績業が英国を抜くと想像したとは思いませんが、まあたいていの人は断るでしょう。一人、W・グリクスという人が応諾してくれ、彼の経営するロ-ズヒル工場で山辺は働く事になります。その時のグリクスから手紙の一部が次の文章です。山辺の日記から抜粋しました。
 He says,”I have received another recommendation from my friend.The money is not matter of problem .You can come to my mill.
1879年9月1日から働き始め、翌年5月27日にロンドンを去ります。謝礼は150ポンドです。
1880年紡績協会が渋沢の音頭で作られ、山辺は月給45円で雇われます。技師長格です。1882年(明治15年)大阪三軒屋にプラット社製のミュ-ル紡績機が15代、15000錘備え付けられます。これが日本で始めての大規模紡績工場、大阪合同紡績です。イギリスからニ-ルドという技師がついてきていました。ここで山辺に関する有名な逸話があります。イギリス人技師は、こんな大規模な工場を日本人だけで運営できるはずがない、と言います。山辺は、断固日本人だけでできると、明言したそうです。工場は昼夜二交代制を取りました。そのため照明をランプでとったらしょちゅう発火するので、当時アメリカで発明された、白熱電灯をエディソン電機会社から輸入しました。白熱電灯は珍しく、それを見に来る人達で一時、工場はごったがえしたそうです。
山辺は大阪合同紡績の運転開始と同時に齋藤恒三、菊池恭三ら3名を預けられます。彼らもイギリスの工場で実地修練をしてきた人達です。彼らが洋式大工場の技師に育ってゆきます。そして彼らの次には工科大学(東京帝大工学部の前身)出身の人達が工場技師として活躍し始めます。
大阪合同紡績は三重紡績と合併し東洋紡績になります。山辺丈夫は後に常務取締役を経て、東洋紡績の社長に就任します。 
  
   参考文献 講座・技術の社会史 日本評論社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

      武士道の考察(46)

2021-05-02 19:49:47 | Weblog
武士道の考察(46)

(黄金の島 ジパング)
 室町時代はいささか物騒な時代ではありますが、活気に満ちた時代です。郷村が武力の培養地になり、上将軍から下名主農民に至るまで武装可能であり、階層は常に流動します。上からこぼれ落ちる涙があれば、下から吹き上げる息吹もあります。上から見れば諸行無常、下から見れば好機到来です。当時できた御伽草子にこの様子が描かれています。一寸法師、猿源氏、わらしべ長者、等の作品です。商業が栄えます。日宋貿易、遣明船、それが途絶えると私貿易、それが武装すると倭寇、そして南蛮船が登場します。琉球は独立国として中継貿易で栄えます。日本人も海外へ渡航、東南アジア各地に日本人町が族生します。朝鮮半島から伝わった灰吹法で、我が国から銀がついで金がどんどん産出されます。1600年前後世界の銀産額は日本と新大陸とその他で三分されました。マルコポ-ロが言う「黄金の国 ジパング」は夢想どころではなく真実そのものでした。宋銭明銭が大量に輸入され、貨幣流通量は飛躍的に増大します。日本と中国は銭と銀を交換しているようなものでした。高価な陶磁器や絹織物が輸入されます。それをモデルにして日本でも技術が開発されます。瀬戸の陶器や西陣の織物などです。全国各地の特産品ができたのもこの頃です。日本の製鋼技術は以前から優秀で日本刀は輸出の花形でした。良質の鋼鉄を作れない中国は日本刀を鋳つぶして農機具を作っていました。この事一つをとっても農業生産は日本の方が中国を上まわっていたことが解ります。日本は当時最大の武器輸出国でした。
(兵庫北関と草戸千軒)
 都市も栄えます。都は別格にして、博多や堺のような自由都市も出現します。私が現在住んでいる尼崎も自由都市でした。堺が信長に屈服したのに対し、尼崎は抵抗して焼き払われました。尼崎は京都と並ぶ日蓮門徒の多い町でした。大陸との往来、特に遣明船の寄港地は筑前博多か摂津尼崎でした。細川氏の財源である尼崎に対抗して大内氏が堺を開発しました。尼崎から電車で半時間西へ行った地点に兵庫北関、という関所がありました。貿易の拠点であり関税徴収の場所でもあります。そこを通過する船荷にかかる税金が記された帳面が40年前に発見されます。それによると貿易額に換算して、同時期(14世紀)のハンザ同盟の中心都市リュ-ベックの貿易量の、10倍以上あったと歴史家は言います。
 京都の町の年中行事で有名な祇園祭りは応仁の乱後の新興町衆により豪華に復活されたものです。応仁の乱で京都は焼野が原になりますが、またたくまに復活します。しかも全く趣を変え、両側町という近代的な町として復活します。天文年間の一時期京都は日蓮門徒を中心とする町衆の自治都市でした。室町将軍が気息奄々としながらも、政治生命を保ちえたのも、京都とその周辺地域を支配し、そこから上がる豊富な租税を取れたからです。運送業者である車借馬借、金融業者の酒屋土倉、そしてもう少し民衆的な金融機関である祀堂銭なども出現します。広島県福山市芦戸川河口に遺跡「草戸千軒」があります。当時非常に繁栄していた市場町ですが、洪水で水没したようです。「一遍上人絵伝」にはこのような町の姿が多く描かれています。こんな町・市・都市が日本中にたくさんありました。
(生活文化の享受)
 生活文化も向上します。濁酒が清酒になり。醤油が料理に使われ、一部では砂糖の甘味を楽しみだすのもこの時代の後半です。書院造りの建築様式が一般にも普及し、畳・障子・縁などが日常生活に取り入れられます。麻に代わり木綿が使われ始めます。木綿の優れた保温性吸湿性は人々の健康を増進します。現在の日本的生活様式の基礎が固まったのはこの時代です。
 文化も派手で豪華でかつ民衆的なものになります。演劇では田楽・猿楽、能狂言、そして阿国踊りから歌舞伎へ。茶道や華道などの生活芸術。和歌から連歌さらに俳諧へ。金閣銀閣と安土桃山の城郭建築。石庭などの庭造りも一般の家へ普及します。豪華派手、他方侘び寂び。狩野派の金銀彩色の屏風絵、本阿弥光悦や俵屋宗達の装飾画などです。中でも茶の湯(茶道)と連歌はこの時代を代表する文化です。一人ではできません。数人が座を作って遊び楽しむア-トあるいわポエジ-です。
 階層が流動するのは武士と農民の間だけではありません。農民も商行為に参加します。商人は国の内外へ出かけます。当然武装します。武装すると海賊にもなります。武士も商売に無関心ではありません。武士は時として盗賊にもなります。農民も同様です。僧の活動は多彩でした。本職の宗教行為にも積極的ですが、学者・インテリであり、商人や金貸しになり、武装集団にもなります。時としては軍師や傭兵にもなりました。時宗の僧は全国を遊行する遍歴の徒であり、戦場で死者の供養をする陣僧であり、同朋衆という権力者の幇間(たいこもち)であり、同時に作庭や茶の湯などの専門家でした。千利休は茶の湯の師匠としてARTISTですが、商人(魚屋)であり、僧侶であり、高級官僚兼政治顧問であり、そして大名でした。先祖は同朋衆とも言われています。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

「天皇制の擁護断章14 記紀、源氏物語、愚管抄」

2021-05-02 11:39:19 | Weblog
「天皇制の擁護断章14 記紀、源氏物語、愚管抄」

記紀神話の主題は婚姻秩序の展開

イザナギとイザナミの夫婦喧嘩、天照大神とスサノオとの姉弟相姦、天照大神の岩戸隠れ、アメノウズメ、天孫降臨、この花の咲くや姫と豊玉姫による貞操証明

婚姻同盟としての摂関政治 血統の安定 衆議の円滑化 儀式の意義の確立

源氏物語 君主の特権である近親相姦行為 その達成と懲罰そして呪封 エロスと権力

愚管抄 顕冥の道理と後見制 宗教的権威とエロスの統制は権力にとって絶対必要と
記紀と源氏に表現された主題を哲学へ 権力と民衆の相互関係を強調

日本政治思想の展開における女性の重要性 記紀神話で真に活躍するのは女神達 そして紫式部の存在 慈円いわく「日本の国は女人にてもちたるくになり」

(ここでは論旨の解説を簡潔に要約して箇条書きに、詳細な説明は省きました ただ言える事は記紀すなわち古事記と日本書紀は世界でも珍しい神話集です 意図して書かれにしてはできすぎています それにしてもできすぎている 源氏物語を単なる文学としてしか読まない態度はうなづけません)