ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

樋口陽一氏の憲法論ノート(1)

2008年03月31日 | 政治・経済

樋口陽一氏憲法論ノート(1)

憲法学者の「権威」である樋口陽一氏が、日本人の人権意識の確立に大きな貢献をされていることはたかく評価しうるものです。しかし、それでも氏の人権論は、国家論との関係でいささか問題を感じるところがあり、樋口氏の論考について出来うる限り検証してみたいと考えています。単なるノートに過ぎないですが、いつか、この検討をまとめられる日が来ると思っています。そして、何よりも樋口氏の憲法論の検討を通じて、現行日本国憲法の問題点を検証してゆければと思っています。多くの方がこうした議論にも参加していただければと思います。

参考資料

 樋口陽一 争点と思想(樋口氏の憲法観と論点がまとめられてあります)http://www.geocities.jp/stkyjdkt/issue.htm

(樋口陽一氏の文章)>>マークはその引用個所。

> 

「おしつけられた憲法」という言い回しは1945-46年の具体的な制定過程についてだけでなく、立憲主義の内容そのものが少なくとも17世紀以来の西欧文化によって非西欧文化圏に「おしつけられ」ているのだという抗議を含意している。

 日本の改憲論はまだ近代立憲主義の枠内での可能な複数の選択肢を提示するという段階までには 達していない。

 主権原理の転換と政教分離の導入による神権天皇制の存立根拠の否定と神権天皇制と結合した皇軍そのものの解体の立憲主義にとっての不可避性、その必然的結びつきを解いてよいほどまでに「戦後」が終わったか。 「南京事件は無かった」「大東亜戦争は解放戦争だった」という言説が大きな抵抗にあうこともなく行われている日本はまだ「戦後」を終えることができないでいる。

 憲法論の内部問題としても思想・表現の自由とそれを制度的に担保すべきはずの司法の役割が自由の支えとしてのとしての非武装平和主義をとりはずしてよい程度まで成熟したか。 憲法九条は国家の対外政策の条件というより自由の条件として絶対平和主義を説いている。

 戦後日本で憲法九条は社会全体の非軍事化を要請する条項として批判の自由を下支えする意味をもつ

 第九条を争点の中心とする日本国憲法は戦後日本にとって個人の尊厳を核とする「近代」を日本社会が受容するため必然のもの。

 西洋近代の人権=立憲主義は自国の総力をあげた戦争に対してもそれを「汚れた戦争」として弾劾する、精神の独立と表現の自由を可能とするものであった。(アルジェリー・ベトナム反戦)しかし戦争そのものを否定するものではなかった。

 憲法九条はそのような西洋近代の内側で個人の尊厳をつきつめる観点から批判する意味を持っている。憲法九条の理念を個人の尊厳の核心とする近代立憲主義は自らに必然のものとしてあらためて 選び取り直すことが求められている。

ここでの樋口氏の論考に対する批判:

大学で説教する一個の憲法教科書のなかで理想論を語るのであれば、どんな理想を語っても許されるだろう。しかし、一国の、しかも諸外国との排他的な諸関係におかれている現実的な国家における憲法のなかでは、一国の憲法のなかで理想論のみを語って現実を没却することは、国民に対する責任の放棄以外のものではない。樋口氏が「戦後日本で憲法九条は社会全体の非軍事化を要請する条項として批判の自由を下支えする意味をもつ」というとき、彼は、国際的な諸国家間のさまざまな諸関係の葛藤のもとにおかれている日本の現実を忘れて、実現される見込みもない「自由の条件として絶対平和主義」の空想を語って反省することもない。

自国の戦争に対する批判は、たとえ、現行憲法の第9条がなくとも認められるべきであることはいうまでもない。しかし、だからといって日本国民の個人的な自我の弱さや批判的な精神の弱さを、現行憲法第9条によって補足しようというのは、筋が通らない。

自国の国家政策に対する国民自身の批判的な精神の確立についての問題は憲法第9条の条項とは切り離して議論されるべきである。

一般に樋口氏の論考に感じられる問題点は、理想主義的な憲法学者としての氏の主張はとにかくとしても、それをストレートに、国家の現実の憲法の中に持ち込もうとしていることである。現在の世界史の段階では、国際社会に信頼して(国連に信頼して?)、そこに自国の安全の保障を求めようとする現行日本国憲法の前文の精神の空想性とその現実的な帰結こそが批判的に検証されなければならないのではないだろうか。

憲法九条は国家の対外政策の条件というより自由の条件として絶対平和主義を説いている。

ここにもすでに樋口氏の限界が出ている。樋口氏は、憲法が単なる憲法学者の理想を語る作文でもなければ、単なる哲学的作品であってはならないという基本的なことすら忘れてしまっているようだ。憲法学者の私的な研究論文や哲学的著作であるならば、いくらでも好きなだけ「軍事力の放棄を、自由の条件としての絶対平和主義を説いて」理想を語ることも許されるだろう。しかし、いざ一国の憲法となると別である。憲法にあっては、哲学的な抽象論や理想論を語るよりも、むしろ国際的な「対外政策の条件」を主たる考慮において規定しなければならないのである。ここにも、樋口氏の現実的政治家ではありえない空論的学者の虚しさ、現実的な国際関係を無視した憲法学者の空論的無能力が出ている。

いずれにせよ、樋口氏の「平和主義」や「人権主義」は、人間性善説の上に構築された理論で、人間性悪説を十分に検討されているようには思えない。少なくとも、人間性悪説に立ったものではない。

  (次回より樋口氏の著書に直接当たって検討して行きたいと思います。)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする