告知の日からのガン日記(上咽頭がんー丸山ワクチン日記)

08年7月の告知。5年生存率60%の標準治療を断わる。丸山ワクチンを決断。団塊世代、男性。試行錯誤の過程をリアルタイムで

置き去り20世紀の奇談その8

2009年05月12日 | Weblog
昨日、三木たかしさんが下咽頭がんで死去。64歳。告知を受けてから約3年間の闘病。手術を受けた療養中に突然の死とある。ご冥福をお祈りします。

これは本当かどうか定かではないが、抗がん剤が医薬品として認可される時の条件は、20パーセントの患者さんで腫瘍の面積が半分以下に縮小し、その状態が4週間以上続くこと、とされている。これを読むと、あと4週間たてばさらに半分に、またその後は・・・と考えてしまうでしょう。


当時、新たに認可基準を設けたのは、中央薬事審議会の抗悪性腫瘍調査会だった。 「この調査会の座長を務めた、桜井欽夫・元癌研究会癌化学療法センター所長が疑惑の人物。桜井氏は、クレスチンの開発にも携わっており、審議会の委員として、認可に賛成している」(新聞記者)

つまり桜井は、自分が開発したクレスチンを自分で認可したわけだ。同時に、もし認可されれば、クレスチンの手ごわい競合商品になったに違いない丸山ワクチンを門前払いした新基準も作成しているのだから、さすがに国会でも問題になった。昭和56年7月30日の衆議院社会労働委員会で、「薬審会の委員として自らが関与した薬剤を審査する立場はどのようなものか」と、薬品メーカーとの関係等を厳しく追及された桜井はこう答えている。

「そういうことは信用できぬ、ということであれば、私は不適任だと存じます」 

疑惑はまだある。丸山ワクチンを徹底して忌避したといわれる山村雄一・元大阪大学総長との関係だ。「当時、文部省の『科学研究費がん特別研究審査会』の主査が桜井さんで、副主査が山村さんだった。55年当時で予算が18億円。この分配を2人は取り仕切っていたのです」(医事評論家)

丸山ワクチンの不認可後、基礎研究に従事した野本亀久雄(64)=がん集学的治療研究財団副理事長=もこう語る。

「私は、丸山ワクチンとは何か、癌にどのような影響を及ぼすものかを2年間、徹底的に研究した。山村が一番潰したがっていたのは私ですよ。私が丸山ワクチンは効かない、と言わないから。どんな妨害があったかは言いたくもない。医学界のトラブルというのは生易しいものじゃないんだから。文部省の補助金分配にしても、いまやっていたら逮捕だろうね。文部省のパイの山分けをやっていれば、それは強いよ。ただ、私はそんなもの、一銭も貰っていなかったから関係なかったけどね。それまで山村に恩恵をこうむっていた人が、山村が“ただの水”と言ったらそれになびくのは当然なんだ」

丸山ワクチンを擁護するデータを出した研究者が、補助金をばっさり切られた、などという話もあるが、ともかく丸山が、山村、桜井という医学界の大物2人と対立する立場にあったのは間違いない。薬事審のメンバーの1人もこう証言する。「桜井と山村は非常に親しかったですね。彼らにとって、我々はチンピラみたいなものです。桜井は、初めから丸山ワクチンを不認可に持っていく姿勢だった。あれでは裏に何かある、と勘ぐられても仕方ありません」「置き去り20世紀の奇談」2001年週刊新潮の記事より。

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