いよいよ選挙ですね。すでに投票は行きました。(相変わらず裁判官のやつがよく分からなかったw)
しかしようやく日本にも陽が昇りそうですね。
昨日は経済討論を見ました(※)。
今回はいわゆる"リフレ派"といわれる人たちを集めたということですが、うーーん。。
このデフレの中、リフレという手段自体は必要不可欠なのは違いないと思うのですが、
正直賛同できるのはそこまでです。
そこから先は出演者も人によって当然意見が異なるようですが、
そこから先が結構大事だと思っています。
「経済」と「国防(国益)」をいかに正しくリンクさせて発展させるか、を考える上で。
政府は日銀を動かしてリフレ政策を取らせるだけでいいんだ、
という考えのリフレ派は、正直みんなの党とかと同じ方針だろうと思います。
竹中平蔵氏とも維新ともさほど変わらないでしょう。
ホリエモンっぽい人とかとも変わらないと思います。
自由度のほとんどない、多くを国が規制・管理するような経済は無茶でしょう、
それこそ時の政府や官僚が国民の自由を阻害する、独裁的なものになると思います。
だから「俺達の自由のために規制を緩和して欲しい」という民意も当然ありますし、
でも一方でそれが進んで民間で「他人の自由を縛るような強者の自由」が行き過ぎると、
今度は「俺達の生活のためにココは守ってほしい」という民意も出てきます。
しかもそういった民意が全て(国民にとって)良いものかどうか、も怪しいという側面もあります。
一部の権力者の描いたシナリオにマスコミが乗って、それを鵜呑みにして出来上がった偏った民意、
個人や身内のわがままを言ってるだけの民意、脳内の非現実的なセンチメンタルに酔いしれているだけの民意、総じて「『冷静に考えると後々自分で自分の首を絞める事』を分からずに叫ぶ誤った民意」というものが大半を締める場合もあります。
そこでどうすれば、どういった民意を汲み取った政治が良いのか、と考えると
やはりある程度の「公共性」というものが必要になると思います。
「みんなのために」「国のために」といったものを根本的に持っている民意や見解。
チャンネル桜の討論で前に桶谷秀昭さんが福沢諭吉の言葉を紹介されていて、
「国体を守るとは『ノスタルジーを共有すること』だ」
と諭吉が書いていたようです。
このニュアンスは個人的にもすごく共感できます。
ノスタルジー、郷愁・望郷といったものですね。
国に対する郷愁・望郷の念。
具体的に詰めると、何年代のどの地域のどういった所作の事だ?
とかいう話になりますが、それは人によって微妙に違うだろうし、
過去の歴史や真実を議論することである程度の形を探っていくことは大切ですが、
あまり理数系のように唯物的にハッキリと完全なる形にする姿勢はナンセンスだと思います。
ノスタルジーっていうのはそういった物質ではなく、念のようなものでしょう。
いわゆる保守的な思想の根本には、そういったノスタルジーがあると思います。
それを共有し、それを守るための正しい行動を選んでいかないと、
国なんて安定もしなければ長続きもしないと思います。
ノスタルジーの中身を議論し、あれこれ否定してノスタルジーの概念そのものを矮小化・稚拙化させてしまう前に、
「国家や団体は、ある種のノスタルジーを共有し、守らないと、存続できない」
という原理のようなものを押さえておく必要があるんだと思います。
それが違っていて「そんな宗教じみたものが無くても、『個人の十分な金銭・自由・自己実現・人それぞれの幸せの価値観』などが保証されれば、その国は存続できる」というのならその「国家や団体を存続させるために必要なもの」という議論からすべきだと思います。
ノスタルジーの中身を議論するのはその後でいい。
でも最近は、この3年間に起きた様々な出来事やその政府対応、与党の姿勢や考えやその報道姿勢なんかを反面教師に、またそれに併せて主にネットの自由な表現を通じて保守的なノスタルジーと正しい情報や考察を併せ持ったような評論家の意見に多く触れる事で、多くの人の中に一種の国に対するノスタルジーのようなものが育ったのは確かで、安倍さんや麻生さんの中にも息づくそういったノスタルジーを信頼し、応援するという現象が起こっているように思います。おそらく「正しい情報」が与えられると、自分が普通に生活している中でも「今何が大事か」という事が多くの人にも当たり前に見えて来るんじゃないかなと思います。
出演者の中には「TPPでコメの関税が撤廃されても大した経済規模じゃないからどうでもいい」
というような発言がありましたが、
まあ数値的なお金の規模の大小を冷静に見極めて優先順位を決めることは良いでしょう、
でもこんな効率化一辺倒の姿勢では、「今強い奴をもっと強くして伸ばす」。それだけです。
それによって何が失われるかなんてのはどうでも良い、数字の世界です。
パワー40以下の人間達がパワーアップしたパワー80の人間や新たに入るパワー100の人間達に淘汰される、
それによってパワー40以下の未来は潰れる、
でもパワーの高い人たちが集まったのだから、国として発展したでしょ、元気な国になったでしょ?
そこに郷愁・望郷されるノスタルジーなんて全く感じられません。
それはもうある種別の国です。日本ともいえないかもしれない。
一体何の為に経済成長をするのか、その根本にもノスタルジーが無ければ「国の経済学」は語れないと思います。
そんな中での「グレートリセット」にしても、パワー40以下を切り捨てる事を良しとするものじゃないでしょうかね。日教組を否定しようが、自分自身が個人の自由とかいう日教組的な思惑に則ってノスタルジーを足蹴にして育ったものだから、国を潰す発想しか生まれなく、その先の未来なんて「どうあろうがその時元気な奴が頑張って集まってたらそれが国」のような、過去の先祖にとっても今の国民にとっても無責任なほど描けていないような気がしますね。
効率論や方法論のみのそういう方々はその辺どう考えてるのか、国だけでなく何らかの団体が存続する上で必要な部分だと思うから(そういう人達の所属する団体もやはりそういう「共通の理念」のようなものが団員をつなぎ止めてるんじゃないのかな、当たり前過ぎて見えないのかな、それとも個人の利害関係のみで、いつでも裏切る気満々?そんな団体に何ができましょうw存続できるのか?何が育まれる?「居たい」と思う?好きになれる?総じて支持・信頼される?)やはり否定するならその部分こそ何か対案を語る必要があるように思いますね。。
しかしようやく日本にも陽が昇りそうですね。
昨日は経済討論を見ました(※)。
今回はいわゆる"リフレ派"といわれる人たちを集めたということですが、うーーん。。
このデフレの中、リフレという手段自体は必要不可欠なのは違いないと思うのですが、
正直賛同できるのはそこまでです。
そこから先は出演者も人によって当然意見が異なるようですが、
そこから先が結構大事だと思っています。
「経済」と「国防(国益)」をいかに正しくリンクさせて発展させるか、を考える上で。
政府は日銀を動かしてリフレ政策を取らせるだけでいいんだ、
という考えのリフレ派は、正直みんなの党とかと同じ方針だろうと思います。
竹中平蔵氏とも維新ともさほど変わらないでしょう。
ホリエモンっぽい人とかとも変わらないと思います。
自由度のほとんどない、多くを国が規制・管理するような経済は無茶でしょう、
それこそ時の政府や官僚が国民の自由を阻害する、独裁的なものになると思います。
だから「俺達の自由のために規制を緩和して欲しい」という民意も当然ありますし、
でも一方でそれが進んで民間で「他人の自由を縛るような強者の自由」が行き過ぎると、
今度は「俺達の生活のためにココは守ってほしい」という民意も出てきます。
しかもそういった民意が全て(国民にとって)良いものかどうか、も怪しいという側面もあります。
一部の権力者の描いたシナリオにマスコミが乗って、それを鵜呑みにして出来上がった偏った民意、
個人や身内のわがままを言ってるだけの民意、脳内の非現実的なセンチメンタルに酔いしれているだけの民意、総じて「『冷静に考えると後々自分で自分の首を絞める事』を分からずに叫ぶ誤った民意」というものが大半を締める場合もあります。
そこでどうすれば、どういった民意を汲み取った政治が良いのか、と考えると
やはりある程度の「公共性」というものが必要になると思います。
「みんなのために」「国のために」といったものを根本的に持っている民意や見解。
チャンネル桜の討論で前に桶谷秀昭さんが福沢諭吉の言葉を紹介されていて、
「国体を守るとは『ノスタルジーを共有すること』だ」
と諭吉が書いていたようです。
このニュアンスは個人的にもすごく共感できます。
ノスタルジー、郷愁・望郷といったものですね。
国に対する郷愁・望郷の念。
具体的に詰めると、何年代のどの地域のどういった所作の事だ?
とかいう話になりますが、それは人によって微妙に違うだろうし、
過去の歴史や真実を議論することである程度の形を探っていくことは大切ですが、
あまり理数系のように唯物的にハッキリと完全なる形にする姿勢はナンセンスだと思います。
ノスタルジーっていうのはそういった物質ではなく、念のようなものでしょう。
いわゆる保守的な思想の根本には、そういったノスタルジーがあると思います。
それを共有し、それを守るための正しい行動を選んでいかないと、
国なんて安定もしなければ長続きもしないと思います。
ノスタルジーの中身を議論し、あれこれ否定してノスタルジーの概念そのものを矮小化・稚拙化させてしまう前に、
「国家や団体は、ある種のノスタルジーを共有し、守らないと、存続できない」
という原理のようなものを押さえておく必要があるんだと思います。
それが違っていて「そんな宗教じみたものが無くても、『個人の十分な金銭・自由・自己実現・人それぞれの幸せの価値観』などが保証されれば、その国は存続できる」というのならその「国家や団体を存続させるために必要なもの」という議論からすべきだと思います。
ノスタルジーの中身を議論するのはその後でいい。
でも最近は、この3年間に起きた様々な出来事やその政府対応、与党の姿勢や考えやその報道姿勢なんかを反面教師に、またそれに併せて主にネットの自由な表現を通じて保守的なノスタルジーと正しい情報や考察を併せ持ったような評論家の意見に多く触れる事で、多くの人の中に一種の国に対するノスタルジーのようなものが育ったのは確かで、安倍さんや麻生さんの中にも息づくそういったノスタルジーを信頼し、応援するという現象が起こっているように思います。おそらく「正しい情報」が与えられると、自分が普通に生活している中でも「今何が大事か」という事が多くの人にも当たり前に見えて来るんじゃないかなと思います。
出演者の中には「TPPでコメの関税が撤廃されても大した経済規模じゃないからどうでもいい」
というような発言がありましたが、
まあ数値的なお金の規模の大小を冷静に見極めて優先順位を決めることは良いでしょう、
でもこんな効率化一辺倒の姿勢では、「今強い奴をもっと強くして伸ばす」。それだけです。
それによって何が失われるかなんてのはどうでも良い、数字の世界です。
パワー40以下の人間達がパワーアップしたパワー80の人間や新たに入るパワー100の人間達に淘汰される、
それによってパワー40以下の未来は潰れる、
でもパワーの高い人たちが集まったのだから、国として発展したでしょ、元気な国になったでしょ?
そこに郷愁・望郷されるノスタルジーなんて全く感じられません。
それはもうある種別の国です。日本ともいえないかもしれない。
一体何の為に経済成長をするのか、その根本にもノスタルジーが無ければ「国の経済学」は語れないと思います。
そんな中での「グレートリセット」にしても、パワー40以下を切り捨てる事を良しとするものじゃないでしょうかね。日教組を否定しようが、自分自身が個人の自由とかいう日教組的な思惑に則ってノスタルジーを足蹴にして育ったものだから、国を潰す発想しか生まれなく、その先の未来なんて「どうあろうがその時元気な奴が頑張って集まってたらそれが国」のような、過去の先祖にとっても今の国民にとっても無責任なほど描けていないような気がしますね。
効率論や方法論のみのそういう方々はその辺どう考えてるのか、国だけでなく何らかの団体が存続する上で必要な部分だと思うから(そういう人達の所属する団体もやはりそういう「共通の理念」のようなものが団員をつなぎ止めてるんじゃないのかな、当たり前過ぎて見えないのかな、それとも個人の利害関係のみで、いつでも裏切る気満々?そんな団体に何ができましょうw存続できるのか?何が育まれる?「居たい」と思う?好きになれる?総じて支持・信頼される?)やはり否定するならその部分こそ何か対案を語る必要があるように思いますね。。