思ったこと

思ったことを書きます

客観的な情報

2018-12-24 | 日記
前からそうなんでしょうけど、
この国は国民の知らず知らずのうちに、徐々に国力が弱まっていくんだと思います。
その原因の一つとして、日本人の「国家意識の欠如」が挙げられたりしますが、
国家の構成要素に国民があるわけで、国民とは正に日本人、日本に住む自分達、なわけです。
だから自分達の生活や今後の事を普通に気にしていれば、特別高尚な『国家意識』なんて無くとも、
自然に自国の行く末を気にかけるような方向へ進む事ができるはずなんじゃないでしょうか。
国家の行く末は国民の行く末、つまり自分達の行く末の集まりが国の行く末になるわけで。

国民のナショナリズムの希薄さを問題にする言論もありますし、
確かに国民一人一人が国家というものをよく勉強し行動し体感する事は有益だと思いますが、
そういうものが無くても普通にこの国で生活していく中で、
「国が滅びる」事を望む人間は少ないと思います。
国が滅びたら生きていけないですし。
というか国が滅びる=国民(自分)が亡びる
という事にほぼなりますし。。

なので、特別国家意識が無くとも、
普通に生活している一般的な国民は、
国力が弱まるような政策には反対する方向へ自然と向かうはずです。

そのはずなのに、
何でそういかず、国力が弱まる方向へ行くのか。
当然な事でしょうけど、原因は2つあるかなと。

1.多くの国民が政治の事を知らない
2.政策の客観的な情報提供が少ない

結局、「一般国民の政治に対する興味の無さ」「報道側の政策に対する説明不足」かと。
1は非常に多いですが、それでも何割かは政治を知る事が大事と感じる人間も現れる。
しかしそういった人たちに2のような政策に対しいい加減な情報提供しかされない報道である、
この場合1が根本的な問題かもしれないけど、
せめて『2がしっかりしていれば、いずれ1も充実する」ような気がする。
結局2が不十分でいい加減だから、多くの人が政治に興味を持てない。
2がしっかりしていたら、国民はより客観的に正確に紐解かれた2の政策を自分の生活に正確にリアルに照らし合わせることができ、
結果、多くの国民が正確にリアルに正しい選択をすることができる。
そしてその結果をより説得力を持った形で、政治に興味無き隣人に伝えることができ、
その連鎖は自然と広まるのではないか。
だから本当に今大事なのは2の、
「政策に対し、客観的に正しい情報を広く提供する」事だと思う。

・・・なんていう事は言論人の方々は当然分かっているものの、
政策の特徴を客観的に分析もせず、ポジショントークに励む方々があまりに多く、
その表現時のパフォーマンスだけで、知識の無い国民達を印象操作で説得させる。
政策なんてのは普通難しいもので、原文を読んだだけでその特徴を簡単に把握する事もできないし
そもそも原文なんて読まない。だからテレビやワイドショーなんかで端的に分かりやすく説明されたもので把握しようとする。
じゃあそれをまとめた者の意図次第でいくらでも省略・強調などの編集を組み合わせることができる。

考えてみると国家における政治というのは難しい。
政策についてのメリットデメリットや、特徴なんかをそれなりに時間をかけて良く良く読んで理解して、その上背景とかも勉強していかないと、
その政策に対する正しい審議をすることは不可能。普通の国民からしたら、
それを正しく審議できるような勉強の時間は無いし、結果正しい選択をしてようが、結局偏ってると思われる情報に吸い込まれて選択せざるを得ない。
国民全員が評論家や言論人のように日々情報収集して勉強して国の行く末に対する考えを持てればいいけど、
まずそんな時間は無い。だからシンプル(安易)な情緒的(偏った)な物語が頭に入りやすいし、そんな物語が(売れてお金になるもんだから)千差万別で転がってるので、大事なものもすぐ忘れちゃう。
そんなこんなで国力は弱まって行くのでしょうかね。。

ある事象について「どこまで情報を得れば信じるに足るものとなりえるか」の基準がしっかりしてる国民の多い国は強い、と思う。




約2年ぶり

2018-01-03 | 日記
どもども、約2年ぶりにブログを書きたいと思います。

約2年前まではこのブログで主に政治や経済について(非常に浅いレベルで)思った事を書いたりしていましたが、完全にトーンダウンし、2年ほど更新を止めておりました。

理由としては、ぶっちゃけ1番大きいのは「仕事変えて忙しくなった」ですがw、
その他精神的な意味では主に下記2点となります。

1.民主→自民政権奪還によって当初は安倍政権に期待したが、(増税したり財政出動しなかったりTPP参加意思表明したりなどで)自分の思ってた方向へは進まなかった。ガッカリした。しかも他に期待できる政権が見当たらない。

2.1のような自分の感じていた政治経済に対する思いは、周囲の身近な知人友人と過ごす世界には全く浸透せず縁遠く、何らかの思想に盲信しているような異質なものに見えていると実感した。

1,2どっちも自分にとって大きな理由で、このまま政治経済に興味を持ってなんやかや意見を発した所であまり意味がないんじゃないか、と思わせるに十分なものでした。
1,2共に、日本の政治経済、というか日本そのものに無力感・諦め感・絶望感を感じたものです。
「もう日本も日本人も終わってるしどうしようがどうにもならないし、何かそういうに熱いもの持ってもアホらしいだけだしどうでもいいや」というような虚しい気持ちでした。

ということでここ2年くらい政治経済関係の情報にはほとんど触れることなく、日々仕事などに明け暮れておりました。なので、自分の政治経済に対する考えは多分2年前と全く変わっていません。
今日ふと久々にそういう動画をしっかり見てみようと思い、以前はほぼ毎週見ていたチャンネル桜の討論動画を()。タイミングよく、以前より自分の考えの源となる西部邁先生率いる表現者グループの面々が。これはちょうど良かった。

久々に見るとやはり良いなあ、この国もこんな方向へ進んでもらえれば、と思わせるものでした。
国策については難しいこと言わず、先生達の仰せの通りに進めてもらうべし、と(残念ながらそれを進められるような政権ではありませんが。。)。

あとは現代の日本人そのものの精神がどうか、という話ですが、、
昔の一般的な日本人(知識人や思想家や言論人ではなく)が、生活の中で本当に国というものの意識があったかどうだったか、は知りませんが、
少なくとも自分の周囲を見ると、ぶっちゃけ絶望というか、全く無さそうですw
ただ家族・故郷を想う気持ちは自然にある人は結構いるかと思います。でもそれは別にどこの国もありそうな気が。少なくとも政治や経済に対しては、テレビやニュースでチラッと見る以上の関心はありません。それよりも仕事や日々の生活ですね。まあでもこれは当たり前だと、2年間政治経済の情報から離れてみて実感しました。これまで浅くとも政治経済情報に触れてたのも所詮趣味みたいなもんだったなと。
まあでもそれはそれで良くて、面白けりゃ多くの人が関心持つし良いことで、本気で一般的な日本人に政治経済を浸透させるには、そのようにしていく必要があるんだろうな、と感じています。

それについて先ほど丁度興味深い?動画を見まして、
年末の朝生で漫才師のウーマン(ラッシュアワー)村本さんが出演したとのことで、その抜粋部分の動画を拝見しました。この方の意見の内容やお笑い的評価は置いておくとして、(抜粋動画ですが)動画を見るに、この方は自分の足で調べたり見たり聞いたりした情報を確信情報として吸収する感じの人で、政治経済的には素人ではありますが、自分の力で消化吸収する事に意欲的な姿勢でもあり、これは自分の身近にもいそうな「字面的な知識は無いけど自分の身の回りの実感を元に政治経済を切っていく一般人」であり、他の知識人たちは『こういう人をうまく説得させる言論』が今最も必要なんじゃないか、と感じました。
だから番組内で彼を全然うまく説得できていない他の人達を見て、せっかく素人が自分から積極的に話をする場に出てきているのに勿体無い、、だから討論番組が不毛なものになるんだろうな、とひしひし感じました。ああいう人をうまく納得させてこその生きた見解ではないのかな・・?
ああいう人は一般的に多いような気がします(尖閣や沖縄に対する考えとかでは無いですよw、意見の中身じゃなく、こういう「知識や勉強は置いといて、『自分の目や耳や足で仕入れた生活の中での情報を確たるもの』として世の中を見据えていきたい」という一般人。)。
そういう人は「不勉強だ」とバッシングして突き放すことが当たり前なのなら、やっぱりもうこの国の未来は・・・。

お勉強2

2015-10-13 | 日記
さくさく行きます。
今回は「金融機関」と「金融市場」で。

■金融機関
 お金の余剰部門と不足部門を仲介して、お金を効率的に配分する機関


ここはさくさく行きましょう。余剰部門と不足部門というのは結局「お金余ってる人」と「お金足りない人」ってことでいいかな。お金余ってる人に貯金してもらい、そのお金を、お金足りない人に貸したりする機関ってことで、結局のところメインは「銀行」ってことですね。(その他、保険会社や証券会社やノンバンク(消費者金融会社)も含むようですが、とりあえず今は主に銀行ってことで。)


■金融市場
 金融機関を主な取引参加者として、お金の貸し借りが行われる場


ここはもう少し詳しく見ていきたい所。。
金融市場と呼ばれる市場でお金の「貸し手と借り手の交渉」により「金利や取引額」が決定されます。
金融市場は、お金の貸し借り(運用と調達)の期間により2つに分けられることがあります。お金の貸し借りが1年未満の「短期」金融市場と1年超の「長期」金融市場です。


○短期金融市場
 ・インターバンク市場
   銀行などの「金融機関のみが参加」する市場

銀行のなかには大手都市銀行のように、「貸出先が多いために、資金が不足しがちな銀行」と、地方銀行のように、「預金などから集めた資金の運用先が乏しいために、資金が余り気味の銀行」もあります。インターバンク市場では、前者が資金の需要者(取り手といいます)になり、後者は資金の供給者(出し手といいます)になる。

 ・オープン市場
   金融機関以外の「一般企業も参加」する短期金融市場


とりあえず、インターバンク市場は「銀行同士の1年未満のお金の貸し借りの場」で、オープン市場は「銀行と一般企業との1年未満のお金の貸し借りの場」ということかな。

○長期金融市場
 ・債券市場
   国債、地方債、社債などが売買される市場


とりあえず国や地方や企業が、発行した「国債、地方債、社債」を販売してお金を手に入れるための取引を行うための場ということですね。詳しい取引方法は次回にお勉強します。

 ・株式市場
   株式が売買される市場

株式会社が経営に必要な資金を調達するために発行する証券を株券といいますが、株式市場とは株券の売買が行われる市場。


債券市場の「株券」版ということですね。

で、普通に個人や企業が銀行から借りるローンとかは?
個人や企業が銀行におく預金取引やローン取引を、「預貸金市場」と呼んでいます。この取引は、長短双方の市場に属する取引です。

まあとりあえずこういうのも金融市場の定義の中には含まれるわけですね。


ということで、金融市場とはトータルでお金の貸し借りに関する取引の場ということですね。

株式や社債については簿記をかじってたのである程度イメージできますが、それらを誰がどこでどのように取引するのかは把握しておいたほうが良さそうなので、
次回、その「国債、地方債、社債、株式」の売買のしくみを調べようと思います。

お勉強1

2015-10-12 | 日記
これまで日本について思った事を色々書いてみましたが、所詮知らないことだらけなので、内容も抽象的で薄いしあまり有意義でもないなあ、と思い、とりあえずちょっとづつお勉強をしたいと思います。
個人的なお勉強なのでここに書く事でもないのですが、個人的なモチベーションを保つために記しておこうかなと。基本は経済についての基礎的なお勉強で、当面はウィキペディアなどのネットで知れる簡単なソースでやっていこうかと。

とりあえず、、、個人的にイマイチちゃんと把握できない事として「金融」。金融市場とか金融緩和とか、お金の貸し借りに関する事でしょうけど、ちょっと一から洗い直そうと思います。

ますは「金融」とは何ぞや?

■金融(「金融用語辞典」さん)
 (広義)お金の流れ
 (狭義)一時的な(お金の)過不足を調整するための、「お金の貸し借り」


いや~、簡単な言葉で僕のような馬鹿にも分かり易い、ありがたいサイトだw。
広義の「金の流れ」って、随分広いなあ。
ということは僕がタバコを買いに自販機に430円を入れる事も「広義の金融」に含まれる、ってことかな。

(モノやサービスの)交換取引の裏には常に「お金の流れ」が存在し、逆に「お金の流れ」を見れば「経済」がわかります。「お金の流れ(=金融)は、経済生活を支える大切なシステム」として経済に根付いています。

と。とにかく全ての「お金の流れ」ってことですね。

一方、狭義の「お金の貸し借り」は、広義のお金の流れの中の、「金貸し」に関する流れって事かな。

クレジットカードやローンなどを利用することで、「今はお金がないけれど後で支払う」という取引が実現します。お金の余っているところから足りないところへ「一時的なお金の過不足を貸借で調整する」ことによって、交換を円滑に進めることができるのです。この「時間を越えての交換取引」の実現が、お金のもう1つの大きな役割です。

なるほど、、とりあえず「金を借りる(貸す)」という取引のことが「狭義の金融」なんですね。
で、多分日頃からよく使われる「金融市場とか金融政策」とかいうのは、この「狭義の金融」の話なんでしょう。金融(お金の流れ)の中でも、「政府や企業が借りるお金の量」というのが多大だから、この点での政策などが経済にとって有効で、色々取り沙汰されるというわけかな。

とりあえずここまで。次は「金融市場」とか「金融機関」について。(しばらくはこれらの言葉の簡単な意味だけを調べたい。ある程度調べたら、疑問点や細かい中身や実態にも、迫れたら迫りたいかなあ。は~、道は遠い。。)

やっぱ戯言

2015-09-22 | 日記
前の日記で日本人もいろいろ危ういんじゃないかという事を書きましたが、あくまで個人的なイメージのレベルなので何も断定できませんが、端的にいうと日本人も「モダン化しすぎた」ような感じです。特に「生活習慣」がモダン化したというか、細かい所での自由度が増した、というか。

多分、そういう環境で十分楽しめている方や、自分をうまく律することで生活や心の芯の部分はしっかりと張りを保っておられる方は、今の日本でも十分幸せで満足されていると思います。そういう方がどのくらいの割合おられるかは分かりませんが、現時点ではそこまで少なくも無いんじゃないかと思います。
自分は正直ダメですねw。一人暮らしをすることで生活習慣が何でも自分の自由になったとき、今まで保ってたかなりの習慣を切り捨ててしまったというか、あまり興味のないもの、めんどくさいものとして切り捨ててしまった。人との交流にしてもそうです。敢えて自分から人と広く交流を持つこともめんどくさいこととして切り捨ててきた。その結果、やはり精神的な軸のようなものが見えず、「なんでもありだから自分でなんでも決めれるのだけど、そうやってなんとなく自分で決めたことに対してあまり大きな価値を感ることができない」ような精神の中空状態だったりします。その状態でも特に気にせず色んな事を楽しめたらそれでも良いんだろうと思うのですが、精神的な姿勢が悪いことでやはりいろんな事を中途半端にしか味わえず、もっと芯をしっかりしないと、とか思ったりするのですが、、
まあ結局の所「自己管理のできない怠惰な人間の甘え」である事は間違いありませんw。
だから自分個人の不満については環境や世の中のせいだとは全くもって思いませんw。自分だけの事なら自分でできる努力や生活習慣を正して、自分が望むような状態に持っていくことは可能で、単に自分がそれを怠っているだけなんだからw。今からでもそうすればいいw

ただ、まあ世の中そんなに自己管理できる人間ばかりではないでしょう。自分を律する強さが無いが故に、その弱った精神でこの世の中をうまく幸せに生きられない、という人も少なくはないでしょう。

そういう事の対策として、「大事なもの」を教えるための教育(道徳や終身)のような方法もあるのかもしれないですが、やって悪い事は無いと思いますが、それだけでは効果は薄く、同時にその内容が実生活に生きるものじゃないと厳しいかなあ、と思います。学校の教科書の内容はやはり「実生活とかけ離れている」イメージを根底に持ってしまうので、仮に感銘を受けた子がいたとしても、同時にその内容とかけ離れたリアルを生きることで、砂上の楼閣のように簡単に崩れ去って、変な敗北感や諦めが生まれるし、さらにその楼閣を自分で作り、自分で壊さないといけない事による、自分の自己管理力の無力さや懐疑心(「自分の意志は弱くていい加減だなあ」というイメージ)を持ってしまったり。
やはり学んだことをリアルで使えるような世の中でないと、それをあきらめることによる自己不信的な妙な副作用も生んでしまったりしかねない。
なので、変える為には、教育よりも「生活習慣」なんだろうな、と思います。
学校でも、座学的な教科じゃなくて、体を使った体験の方がいい気がする。といっても「心」を作るような剣道とか柔道とか華道とか茶道とかの完全な「種目」は、やはり人によって向き不向きがあったり、「勝ち負け」のような目的と別の部分(それはそれで部活動などで競えばいい)がクローズアップされてしまうので、もっと根本的な、じっとして精神統一するとか、姿勢をただして心を一旦鎮める、というような基本姿勢的な部分の科目があっても良いと思いますね。
かといって禅寺のような所で生活する、とかなると、それは俗世間との隔たりがあまりにも大きく、反動で「俗世間に入り浸りたい!」という欲をもっと強くさせてしまったり、何よりそれで無欲になり切ってしまっては技術なんて不要になってしまうし物も売れないし俗世間の楽しさというものもうまく楽しむような心は育めない。技術や物はあくまで道具ですからそれ自体に罪は無いでしょう。「それらをどのようにうまく使うか」という心を整えることを目的に置くべきかと。

なので、寺での修行とかではなく(もちろん体験の一つとして短期で学ぶのはそれも良い事と思いますが)、もっと家に帰ってからの実生活にも取り入れられるような簡単で基本的な所作のようなものを、子供のうちから体で無理なく癖のように学ばせることは、一つの良い教育なのかなと思ったりします。
あとはそういう流れにつなげて日本の古くからの文化や風習も体験的に学べれば、、と思うのですが、これらは実生活とつなげるのがやはりかなり難しいですよね、現状。まず大人がそうではない場合が多いだろうし、正直そういう古来のものを実生活レベルで復活させるのは絶望的なのかも、と思ったりもします。
昔から血族や家族を伝って体に染みついた風習や文化が自分の安定した芯を作ると同時に、それらの堅苦しいものを崩したりする事への快感や解放感を併せ持つのが人間だったりもすると思いますんでw。本当はいずれも欠かすことができず、その境界は明確じゃないので、人が人を批判したり、自分の中でも葛藤したり、逆に明確にし過ぎようとしていつのまにか大きくバランスを欠いてしまったり。。
なんにせよ、僕のような選択できない自己不振的な虚弱中空人間を数多く輩出しないためにも、まずは芯を整えるような体を使った学習はすべきじゃないかなあ、と思います。

あ、それとは関係なく、歴史教育や経済教育の歪みを正して、できるだけ正しい情報を伝えることは大事だと思いますよ(かといってなんでもかんでも「日本は正しい!」というフィルターを付ける必要はないですが。まあ一方的に「(昔の)日本は悪だ!」というフィルターを付ける教育よりはマシ、なのかな・・?)。
それと個人的には公民や政治よりも、もっと原始的に「集団で生きる」事についてのしくみ(その中で個々の仕事とか文化とか法律とか政治とかがどのような役割を持つために必要となっていくのか、みたいな事を)のような物を一つの物語でもいいから教えて考えてもらうのも良いんじゃないかな、と思います。
いきなり公民とか政治とか法律とかをやっても、「権威的なもの」として捉えてしまい、それは後々の政治情勢などを見る際に邪魔になるように思うので。もしそれを子供にうまく納得・実感させることができれば「スポーツ選手」とかだけが夢の職業(それらを諦めてこの先妥協したみたいな残尿感を残したり)という事もなくなりそうな気がしますので。といってもそれはまず大人がもっと色んな仕事や生活にイキイキしてないとダメなんでしょうけどw。やっぱ現実は色々と夢が無いw。