前の日記で日本人もいろいろ危ういんじゃないかという事を書きましたが、あくまで個人的なイメージのレベルなので何も断定できませんが、端的にいうと日本人も「モダン化しすぎた」ような感じです。特に「生活習慣」がモダン化したというか、細かい所での自由度が増した、というか。
多分、そういう環境で十分楽しめている方や、自分をうまく律することで生活や心の芯の部分はしっかりと張りを保っておられる方は、今の日本でも十分幸せで満足されていると思います。そういう方がどのくらいの割合おられるかは分かりませんが、現時点ではそこまで少なくも無いんじゃないかと思います。
自分は正直ダメですねw。一人暮らしをすることで生活習慣が何でも自分の自由になったとき、今まで保ってたかなりの習慣を切り捨ててしまったというか、あまり興味のないもの、めんどくさいものとして切り捨ててしまった。人との交流にしてもそうです。敢えて自分から人と広く交流を持つこともめんどくさいこととして切り捨ててきた。その結果、やはり精神的な軸のようなものが見えず、「なんでもありだから自分でなんでも決めれるのだけど、そうやってなんとなく自分で決めたことに対してあまり大きな価値を感ることができない」ような精神の中空状態だったりします。その状態でも特に気にせず色んな事を楽しめたらそれでも良いんだろうと思うのですが、精神的な姿勢が悪いことでやはりいろんな事を中途半端にしか味わえず、もっと芯をしっかりしないと、とか思ったりするのですが、、
まあ結局の所「自己管理のできない怠惰な人間の甘え」である事は間違いありませんw。
だから自分個人の不満については環境や世の中のせいだとは全くもって思いませんw。自分だけの事なら自分でできる努力や生活習慣を正して、自分が望むような状態に持っていくことは可能で、単に自分がそれを怠っているだけなんだからw。今からでもそうすればいいw
ただ、まあ世の中そんなに自己管理できる人間ばかりではないでしょう。自分を律する強さが無いが故に、その弱った精神でこの世の中をうまく幸せに生きられない、という人も少なくはないでしょう。
そういう事の対策として、「大事なもの」を教えるための教育(道徳や終身)のような方法もあるのかもしれないですが、やって悪い事は無いと思いますが、それだけでは効果は薄く、同時にその内容が実生活に生きるものじゃないと厳しいかなあ、と思います。学校の教科書の内容はやはり「実生活とかけ離れている」イメージを根底に持ってしまうので、仮に感銘を受けた子がいたとしても、同時にその内容とかけ離れたリアルを生きることで、砂上の楼閣のように簡単に崩れ去って、変な敗北感や諦めが生まれるし、さらにその楼閣を自分で作り、自分で壊さないといけない事による、自分の自己管理力の無力さや懐疑心(「自分の意志は弱くていい加減だなあ」というイメージ)を持ってしまったり。
やはり学んだことをリアルで使えるような世の中でないと、それをあきらめることによる自己不信的な妙な副作用も生んでしまったりしかねない。
なので、変える為には、教育よりも「生活習慣」なんだろうな、と思います。
学校でも、座学的な教科じゃなくて、体を使った体験の方がいい気がする。といっても「心」を作るような剣道とか柔道とか華道とか茶道とかの完全な「種目」は、やはり人によって向き不向きがあったり、「勝ち負け」のような目的と別の部分(それはそれで部活動などで競えばいい)がクローズアップされてしまうので、もっと根本的な、じっとして精神統一するとか、姿勢をただして心を一旦鎮める、というような基本姿勢的な部分の科目があっても良いと思いますね。
かといって禅寺のような所で生活する、とかなると、それは俗世間との隔たりがあまりにも大きく、反動で「俗世間に入り浸りたい!」という欲をもっと強くさせてしまったり、何よりそれで無欲になり切ってしまっては技術なんて不要になってしまうし物も売れないし俗世間の楽しさというものもうまく楽しむような心は育めない。技術や物はあくまで道具ですからそれ自体に罪は無いでしょう。「それらをどのようにうまく使うか」という心を整えることを目的に置くべきかと。
なので、寺での修行とかではなく(もちろん体験の一つとして短期で学ぶのはそれも良い事と思いますが)、もっと家に帰ってからの実生活にも取り入れられるような簡単で基本的な所作のようなものを、子供のうちから体で無理なく癖のように学ばせることは、一つの良い教育なのかなと思ったりします。
あとはそういう流れにつなげて日本の古くからの文化や風習も体験的に学べれば、、と思うのですが、これらは実生活とつなげるのがやはりかなり難しいですよね、現状。まず大人がそうではない場合が多いだろうし、正直そういう古来のものを実生活レベルで復活させるのは絶望的なのかも、と思ったりもします。
昔から血族や家族を伝って体に染みついた風習や文化が自分の安定した芯を作ると同時に、それらの堅苦しいものを崩したりする事への快感や解放感を併せ持つのが人間だったりもすると思いますんでw。本当はいずれも欠かすことができず、その境界は明確じゃないので、人が人を批判したり、自分の中でも葛藤したり、逆に明確にし過ぎようとしていつのまにか大きくバランスを欠いてしまったり。。
なんにせよ、僕のような選択できない自己不振的な虚弱中空人間を数多く輩出しないためにも、まずは芯を整えるような体を使った学習はすべきじゃないかなあ、と思います。
あ、それとは関係なく、歴史教育や経済教育の歪みを正して、できるだけ正しい情報を伝えることは大事だと思いますよ(かといってなんでもかんでも「日本は正しい!」というフィルターを付ける必要はないですが。まあ一方的に「(昔の)日本は悪だ!」というフィルターを付ける教育よりはマシ、なのかな・・?)。
それと個人的には公民や政治よりも、もっと原始的に「集団で生きる」事についてのしくみ(その中で個々の仕事とか文化とか法律とか政治とかがどのような役割を持つために必要となっていくのか、みたいな事を)のような物を一つの物語でもいいから教えて考えてもらうのも良いんじゃないかな、と思います。
いきなり公民とか政治とか法律とかをやっても、「権威的なもの」として捉えてしまい、それは後々の政治情勢などを見る際に邪魔になるように思うので。もしそれを子供にうまく納得・実感させることができれば「スポーツ選手」とかだけが夢の職業(それらを諦めてこの先妥協したみたいな残尿感を残したり)という事もなくなりそうな気がしますので。といってもそれはまず大人がもっと色んな仕事や生活にイキイキしてないとダメなんでしょうけどw。やっぱ現実は色々と夢が無いw。
多分、そういう環境で十分楽しめている方や、自分をうまく律することで生活や心の芯の部分はしっかりと張りを保っておられる方は、今の日本でも十分幸せで満足されていると思います。そういう方がどのくらいの割合おられるかは分かりませんが、現時点ではそこまで少なくも無いんじゃないかと思います。
自分は正直ダメですねw。一人暮らしをすることで生活習慣が何でも自分の自由になったとき、今まで保ってたかなりの習慣を切り捨ててしまったというか、あまり興味のないもの、めんどくさいものとして切り捨ててしまった。人との交流にしてもそうです。敢えて自分から人と広く交流を持つこともめんどくさいこととして切り捨ててきた。その結果、やはり精神的な軸のようなものが見えず、「なんでもありだから自分でなんでも決めれるのだけど、そうやってなんとなく自分で決めたことに対してあまり大きな価値を感ることができない」ような精神の中空状態だったりします。その状態でも特に気にせず色んな事を楽しめたらそれでも良いんだろうと思うのですが、精神的な姿勢が悪いことでやはりいろんな事を中途半端にしか味わえず、もっと芯をしっかりしないと、とか思ったりするのですが、、
まあ結局の所「自己管理のできない怠惰な人間の甘え」である事は間違いありませんw。
だから自分個人の不満については環境や世の中のせいだとは全くもって思いませんw。自分だけの事なら自分でできる努力や生活習慣を正して、自分が望むような状態に持っていくことは可能で、単に自分がそれを怠っているだけなんだからw。今からでもそうすればいいw
ただ、まあ世の中そんなに自己管理できる人間ばかりではないでしょう。自分を律する強さが無いが故に、その弱った精神でこの世の中をうまく幸せに生きられない、という人も少なくはないでしょう。
そういう事の対策として、「大事なもの」を教えるための教育(道徳や終身)のような方法もあるのかもしれないですが、やって悪い事は無いと思いますが、それだけでは効果は薄く、同時にその内容が実生活に生きるものじゃないと厳しいかなあ、と思います。学校の教科書の内容はやはり「実生活とかけ離れている」イメージを根底に持ってしまうので、仮に感銘を受けた子がいたとしても、同時にその内容とかけ離れたリアルを生きることで、砂上の楼閣のように簡単に崩れ去って、変な敗北感や諦めが生まれるし、さらにその楼閣を自分で作り、自分で壊さないといけない事による、自分の自己管理力の無力さや懐疑心(「自分の意志は弱くていい加減だなあ」というイメージ)を持ってしまったり。
やはり学んだことをリアルで使えるような世の中でないと、それをあきらめることによる自己不信的な妙な副作用も生んでしまったりしかねない。
なので、変える為には、教育よりも「生活習慣」なんだろうな、と思います。
学校でも、座学的な教科じゃなくて、体を使った体験の方がいい気がする。といっても「心」を作るような剣道とか柔道とか華道とか茶道とかの完全な「種目」は、やはり人によって向き不向きがあったり、「勝ち負け」のような目的と別の部分(それはそれで部活動などで競えばいい)がクローズアップされてしまうので、もっと根本的な、じっとして精神統一するとか、姿勢をただして心を一旦鎮める、というような基本姿勢的な部分の科目があっても良いと思いますね。
かといって禅寺のような所で生活する、とかなると、それは俗世間との隔たりがあまりにも大きく、反動で「俗世間に入り浸りたい!」という欲をもっと強くさせてしまったり、何よりそれで無欲になり切ってしまっては技術なんて不要になってしまうし物も売れないし俗世間の楽しさというものもうまく楽しむような心は育めない。技術や物はあくまで道具ですからそれ自体に罪は無いでしょう。「それらをどのようにうまく使うか」という心を整えることを目的に置くべきかと。
なので、寺での修行とかではなく(もちろん体験の一つとして短期で学ぶのはそれも良い事と思いますが)、もっと家に帰ってからの実生活にも取り入れられるような簡単で基本的な所作のようなものを、子供のうちから体で無理なく癖のように学ばせることは、一つの良い教育なのかなと思ったりします。
あとはそういう流れにつなげて日本の古くからの文化や風習も体験的に学べれば、、と思うのですが、これらは実生活とつなげるのがやはりかなり難しいですよね、現状。まず大人がそうではない場合が多いだろうし、正直そういう古来のものを実生活レベルで復活させるのは絶望的なのかも、と思ったりもします。
昔から血族や家族を伝って体に染みついた風習や文化が自分の安定した芯を作ると同時に、それらの堅苦しいものを崩したりする事への快感や解放感を併せ持つのが人間だったりもすると思いますんでw。本当はいずれも欠かすことができず、その境界は明確じゃないので、人が人を批判したり、自分の中でも葛藤したり、逆に明確にし過ぎようとしていつのまにか大きくバランスを欠いてしまったり。。
なんにせよ、僕のような選択できない自己不振的な虚弱中空人間を数多く輩出しないためにも、まずは芯を整えるような体を使った学習はすべきじゃないかなあ、と思います。
あ、それとは関係なく、歴史教育や経済教育の歪みを正して、できるだけ正しい情報を伝えることは大事だと思いますよ(かといってなんでもかんでも「日本は正しい!」というフィルターを付ける必要はないですが。まあ一方的に「(昔の)日本は悪だ!」というフィルターを付ける教育よりはマシ、なのかな・・?)。
それと個人的には公民や政治よりも、もっと原始的に「集団で生きる」事についてのしくみ(その中で個々の仕事とか文化とか法律とか政治とかがどのような役割を持つために必要となっていくのか、みたいな事を)のような物を一つの物語でもいいから教えて考えてもらうのも良いんじゃないかな、と思います。
いきなり公民とか政治とか法律とかをやっても、「権威的なもの」として捉えてしまい、それは後々の政治情勢などを見る際に邪魔になるように思うので。もしそれを子供にうまく納得・実感させることができれば「スポーツ選手」とかだけが夢の職業(それらを諦めてこの先妥協したみたいな残尿感を残したり)という事もなくなりそうな気がしますので。といってもそれはまず大人がもっと色んな仕事や生活にイキイキしてないとダメなんでしょうけどw。やっぱ現実は色々と夢が無いw。