(以下の文はまだまだ未熟な内容だろうので、話半分未満でお願いしますw)
経済学は無知ですが、
自由経済の基本概念であろう「市場メカニズム」についてちょっと考えてみたいです。
市場メカニズム(価格メカニズム):
価格メカニズムとは、財やサービスの需給の不均衡が価格変動を通じて調整され、同時に資源の最適配分が達成される仕組みをいいます。
ある財やサービスに対する需要が供給を上回ると、価格が上昇します。価格上昇は需要を減らす一方、供給を増やしますので、価格は下落します。この動きは、需要と供給が一致するまで続きます。逆に、需要が供給を下回る場合には価格が下落して、需要を増やし供給を減らしますので、価格は上昇します。この動きも需要と供給が一致するまで続きます。
このように、財やサービスの需給は価格の騰落を通じて均衡に導かれます。この仕組みを価格メカニズムまたはプライス・メカニズムといいます。
需給が一致するということは、経済社会において、個々の財やサービスに対する全需要が満たされている、つまり社会全体として、その財やサービスに対する効用が満足させられていることを意味しますので、これは資源が最も効率的に消費されたことにつながります。したがって、価格メカニズムが十分に働いているところでは、資源の最適配分が実現していることになります。
これは「価格の変動」によって需要と供給のギャップを埋める、という考えですね。
よく需要供給曲線のグラフで、縦軸に「価格」横軸に「量」が示されていますが、市場の需給バランスというものは、「量」を変えることなく、「価格」の変動によって、その均衡を保つ、と。
なので、供給サイドに立てば、例え需要が減っても、「価格」を下げることで供給「量」は不変のまま、需要「量」を増やすことができる、と。
この考えにちなんでセイの法則っていうのも成り立ってるみたいですね。
セイの法則:
「経済水準の大きさを決めるのは需要ではなくて、供給である」、つまり「供給が需要の大きさを決める」という理論。
つまり、「価格」さえ自由に変動できれば、需給ギャップなんて簡単に埋まるし、しかもその際に供給「量」を減らす必要は一切無い(失業の心配も無いことに繋がる)。という理屈なのかと。
一見、「なんじゃそりゃ!」という気持ちになりますねwまず「売れない(売れなくなった)ものは普通生産減らすだろ」と思うし、そうしたらその分仕事無くなって失業者が増えます。ただこの理屈では「生産減らすんじゃなくて格安にすればいいじゃん」ということなので、まあその為には当然あらゆる費用を削って利益を確保しないと企業はやってけないので、効率化、自動化、人件費削減を頑張らないといけない。ここで効率化や自動化をどんどん進めたら、当然人間の数もそんなに要らなくなるので(というか同時に人員も削っていかないと費用を削減できないので)、解雇されて失業率が増える。それはマズいのでそういう効率化の努力よりも、手っとり早く人件費を削減するために給料を下げる企業も当然出てくる。そうすると低賃金過ぎて暮らしていけない労働者が仕事を辞めたり、仕事を続けるにしてもそういう低所得者が増えて、それらがそのまま消費者となると、当然需要はさらに減っていく。そうすればさらに「価格」を下げないと均衡しない事になっていく。。
と思うのですが、仮にこの理論を通し尽くす事を考えれば、「あらゆる規制を撤廃し、生産者が完全に自由に「価格」を決める事ができれば、あらゆる仕事の分野で「価格」調整によって「生産量」は保つことができるので、失業してもすぐに仕事はあるし、あらゆる分野の価格が下がるので低賃金でも変わらず生活していける」という事になる、ということでしょうか。
これって色んな方向性で机上の空論のように思えるし、とりあえずこれに従って進んでみると、効率化が進むところまで進めばいずれ「人間なんていらない」と、機械中心の労働力になりそうだし、仮に人が必要でも、低賃金の上に、より効率的に動ける無駄のない人間を率先して欲しがるだろうし、何よりこれがとことんまで進むと、あらゆる「規制」とか「固定観念」とか「確固たるもの」とか「思想」とかが邪魔になって、その道を突き進む過程で必ずそういう「硬直」したものがボトルネックとなり律速する原因となるので、国も法も境界線も固有の言語や文化すら邪魔になってくる、ように思うのですが。そうなる過程で色々滅んでいくww自由なようでめちゃくちゃ閉塞していくように思えるのは自分だけなのでしょうかw
そうなる前に素早い流行サイクルによる需要低下の防止や「イノベーション」とかいうので新たな需要が生み出されるということなのかな?奇跡頼りな上にしんどいなあw当然産業や仕事の種類の偏りや格差も大きくなるだろうし(そしてそれもいずれ低価格に均衡するしね)。しかもそういう新たな発想や流行による需要ウェーブの喚起って文明が進むほど「出尽くして」(飽きやすくもなり)収束して枯渇するだろうから、まさに人類の老年期を向かえる、ような発想になりそう。(そういう理屈に則れば、以前与謝野氏がテレビで「日本はもう大きな成長なんてのぞめない」といってたり、財界が「海外に打って出るしかない」って言うのも頷けるw)
それはあまりに極端で無知でトンデモで話にならない、必要最低限の保障や再分配や、その他政府ならではの仕事によって大事なものは当然守るに決まってるし、人が生きる上で本当に大事なものならいずれ必ず人がそれを求めるから自然と需要になり、新たな産業・仕事につながるだろ、という事なんだと思いますが、いやあ、そういう「硬直」したものは行くとこまで行けばいずれ邪魔になり、「偽善だ」「自己責任だ」「もっと自由で流動的に」「もっと無駄や邪魔なく自由に」っていうことになると思うんですよね、たとえ国の再分配とか治安維持とかも。そもそも「国」なんてのに拘らなければいいじゃない、みたいな。そんな感じで、これまで歴史が残した決まりごとや遺産が、次々とその理論を邪魔する存在になってくるんじゃないかと思う。そして「生きる為には避けられない硬直」を認めた時点で、その理論は崩れ去ってしまうのじゃないかと。そして、生きる為に必要な「硬直」は残念ながら絶対存在すると思います。というか人一人の存在も一つの「硬直」といえますし。
ちょっと話を飛躍しすぎましたし(ちょっとどころじゃないですねw)、まだまだ経済の初歩中の初歩しか見ていない上にその解釈も本当に正しくできているのか正直自信がないので今後もう少し詳しく色んな経済人の話や書籍を見て勉強したいと思いますが、
人は「合理」を突き詰めれば、いずれ自分自身が必然的に持つどうしようもない「不合理さ」をも排除する、という自殺行為に繋がるような感じがし、そういう原理で色々と失敗する(というかすでに失敗してるのでは)と思ってしまいます。。
経済学は無知ですが、
自由経済の基本概念であろう「市場メカニズム」についてちょっと考えてみたいです。
市場メカニズム(価格メカニズム):
価格メカニズムとは、財やサービスの需給の不均衡が価格変動を通じて調整され、同時に資源の最適配分が達成される仕組みをいいます。
ある財やサービスに対する需要が供給を上回ると、価格が上昇します。価格上昇は需要を減らす一方、供給を増やしますので、価格は下落します。この動きは、需要と供給が一致するまで続きます。逆に、需要が供給を下回る場合には価格が下落して、需要を増やし供給を減らしますので、価格は上昇します。この動きも需要と供給が一致するまで続きます。
このように、財やサービスの需給は価格の騰落を通じて均衡に導かれます。この仕組みを価格メカニズムまたはプライス・メカニズムといいます。
需給が一致するということは、経済社会において、個々の財やサービスに対する全需要が満たされている、つまり社会全体として、その財やサービスに対する効用が満足させられていることを意味しますので、これは資源が最も効率的に消費されたことにつながります。したがって、価格メカニズムが十分に働いているところでは、資源の最適配分が実現していることになります。
これは「価格の変動」によって需要と供給のギャップを埋める、という考えですね。
よく需要供給曲線のグラフで、縦軸に「価格」横軸に「量」が示されていますが、市場の需給バランスというものは、「量」を変えることなく、「価格」の変動によって、その均衡を保つ、と。
なので、供給サイドに立てば、例え需要が減っても、「価格」を下げることで供給「量」は不変のまま、需要「量」を増やすことができる、と。
この考えにちなんでセイの法則っていうのも成り立ってるみたいですね。
セイの法則:
「経済水準の大きさを決めるのは需要ではなくて、供給である」、つまり「供給が需要の大きさを決める」という理論。
つまり、「価格」さえ自由に変動できれば、需給ギャップなんて簡単に埋まるし、しかもその際に供給「量」を減らす必要は一切無い(失業の心配も無いことに繋がる)。という理屈なのかと。
一見、「なんじゃそりゃ!」という気持ちになりますねwまず「売れない(売れなくなった)ものは普通生産減らすだろ」と思うし、そうしたらその分仕事無くなって失業者が増えます。ただこの理屈では「生産減らすんじゃなくて格安にすればいいじゃん」ということなので、まあその為には当然あらゆる費用を削って利益を確保しないと企業はやってけないので、効率化、自動化、人件費削減を頑張らないといけない。ここで効率化や自動化をどんどん進めたら、当然人間の数もそんなに要らなくなるので(というか同時に人員も削っていかないと費用を削減できないので)、解雇されて失業率が増える。それはマズいのでそういう効率化の努力よりも、手っとり早く人件費を削減するために給料を下げる企業も当然出てくる。そうすると低賃金過ぎて暮らしていけない労働者が仕事を辞めたり、仕事を続けるにしてもそういう低所得者が増えて、それらがそのまま消費者となると、当然需要はさらに減っていく。そうすればさらに「価格」を下げないと均衡しない事になっていく。。
と思うのですが、仮にこの理論を通し尽くす事を考えれば、「あらゆる規制を撤廃し、生産者が完全に自由に「価格」を決める事ができれば、あらゆる仕事の分野で「価格」調整によって「生産量」は保つことができるので、失業してもすぐに仕事はあるし、あらゆる分野の価格が下がるので低賃金でも変わらず生活していける」という事になる、ということでしょうか。
これって色んな方向性で机上の空論のように思えるし、とりあえずこれに従って進んでみると、効率化が進むところまで進めばいずれ「人間なんていらない」と、機械中心の労働力になりそうだし、仮に人が必要でも、低賃金の上に、より効率的に動ける無駄のない人間を率先して欲しがるだろうし、何よりこれがとことんまで進むと、あらゆる「規制」とか「固定観念」とか「確固たるもの」とか「思想」とかが邪魔になって、その道を突き進む過程で必ずそういう「硬直」したものがボトルネックとなり律速する原因となるので、国も法も境界線も固有の言語や文化すら邪魔になってくる、ように思うのですが。そうなる過程で色々滅んでいくww自由なようでめちゃくちゃ閉塞していくように思えるのは自分だけなのでしょうかw
そうなる前に素早い流行サイクルによる需要低下の防止や「イノベーション」とかいうので新たな需要が生み出されるということなのかな?奇跡頼りな上にしんどいなあw当然産業や仕事の種類の偏りや格差も大きくなるだろうし(そしてそれもいずれ低価格に均衡するしね)。しかもそういう新たな発想や流行による需要ウェーブの喚起って文明が進むほど「出尽くして」(飽きやすくもなり)収束して枯渇するだろうから、まさに人類の老年期を向かえる、ような発想になりそう。(そういう理屈に則れば、以前与謝野氏がテレビで「日本はもう大きな成長なんてのぞめない」といってたり、財界が「海外に打って出るしかない」って言うのも頷けるw)
それはあまりに極端で無知でトンデモで話にならない、必要最低限の保障や再分配や、その他政府ならではの仕事によって大事なものは当然守るに決まってるし、人が生きる上で本当に大事なものならいずれ必ず人がそれを求めるから自然と需要になり、新たな産業・仕事につながるだろ、という事なんだと思いますが、いやあ、そういう「硬直」したものは行くとこまで行けばいずれ邪魔になり、「偽善だ」「自己責任だ」「もっと自由で流動的に」「もっと無駄や邪魔なく自由に」っていうことになると思うんですよね、たとえ国の再分配とか治安維持とかも。そもそも「国」なんてのに拘らなければいいじゃない、みたいな。そんな感じで、これまで歴史が残した決まりごとや遺産が、次々とその理論を邪魔する存在になってくるんじゃないかと思う。そして「生きる為には避けられない硬直」を認めた時点で、その理論は崩れ去ってしまうのじゃないかと。そして、生きる為に必要な「硬直」は残念ながら絶対存在すると思います。というか人一人の存在も一つの「硬直」といえますし。
ちょっと話を飛躍しすぎましたし(ちょっとどころじゃないですねw)、まだまだ経済の初歩中の初歩しか見ていない上にその解釈も本当に正しくできているのか正直自信がないので今後もう少し詳しく色んな経済人の話や書籍を見て勉強したいと思いますが、
人は「合理」を突き詰めれば、いずれ自分自身が必然的に持つどうしようもない「不合理さ」をも排除する、という自殺行為に繋がるような感じがし、そういう原理で色々と失敗する(というかすでに失敗してるのでは)と思ってしまいます。。