主語
2013-04-27 | 日記
近頃、ヘイトスピーチがどうとかネットウヨがどうとか、ネットでの保守系の集まりに対する野蛮扱いの批判がちょいちょいありますね。
でもまあおそらく今のテレビやその他メディアに多く露出している主だった言論人がそういった保守系の人を批判する場合、
そういった「やり方が野蛮だ」的な言い方になるんだろうな、という気はします。
なにしろそういった言論人のほとんどは「日本を主語」にしていないだろうし。
結局そこに尽きるのかな、という気がします。
ネットやその他の保守系の集まりの言動にしても、「日本を主語」にする事が軸に置かれており、これまで政治や社会でそうしてこなかったせいで色々なおかしなことや間違ったことや損したことがこの国内に蔓延し、中には固定化・権益化され、それらを打ち破りたい、少なくとも「おかしい」と声を上げたい、そういった方向性の活動であると思います。
それに「そろそろ日本を主語にしようよ」という気持ちは全く同意ですし、かなり多くの人が感じてるのではないかと思います。
評論家の中には「今の社会に(経済的にも)元気が無いから、その鬱憤晴らしだ」なんて言ったりしますが、
それとこれとは別ものでしょう。(そりゃあ誰しもお給料上がって欲しいでしょうけどw)
というよりそういう経済も含めて、「日本を主語にする」事を根底に持って、その為に知識や経験を集め正しい事をやっていけば実るはずです。要は何にしても「『日本にとって良くなる』ベクトル」でものを考えて行動しようよ」という事だと思います。この国に住んでいたら普通当たり前のことだと思うんですが、それができない、それを忘れてしまった、中には敢えてそうしない言論人が多く蔓延ってるのが現状なんでしょうね。
勿論「正しさ」は大事です。何を主語にしようがしまいが、それとは無関係に事象そのものや事実は客観的なものとして存在するでしょう。
でも例えば「これからはこうこうこういった客観的事実によって、○○の国々が勢いを増す。一方日本はもう成長も見込めなく落ちていく一方だろう。」という論評だけでは何の意味もありません。
仮にそれが客観的事実だとして、ではその上で、そういった危機を回避して成長するために日本はこの先どのように立ち回ればいいのか、それを必死こいて考えて見出そうとするのが「日本を主語にした」言論でしょうし、それを考える事が日本にとって良い言論だろうと思います。勿論その結果、どう足掻いても無理だ、という結論に達することもあるでしょうし、それは日本の為に色々と正しく考えようとしてそういう結論になったのだから正しいことでしょう。
でも大抵の悲観論は、ロクに日本の為に物事を考えようとしていないような大雑把さや抽象さを感じます。中にはそういう雰囲気を出したいがため、とか、タチの悪いのは持論や自分の誘導したい方向へ繋げるための無理やり型にはめただけということも。。
当然「日本」といっても、「主語とする『日本』とは何か?」を突き詰めれば、人によって微妙に違ったりその境目はフワフワしてることでしょう。でも今そういうミクロな事に焦点を当てるんじゃなくて、まずはマクロに、それぞれの日本国民が持つある程度大雑把な『日本』という感覚で良いと思います(ある程度コモンセンスとして括られるはず)。
だって大雑把なレベルで見ても、そういった「日本」すら、主語となっていないのが現状なんですから。
自称保守だろうがリベラルだろうが、そういう自分の中の「日本」を主語とした言論をしないと日本の為にはならないと思いますね。まあ他国を主語にしている人や、最悪日本がどうなっても自分は海外にでも飛べるのでいーし、過去とか歴史とか関係なく自分の経験だけで良いと思うような感じに実験的にやっていきたいな、とかいう日本人の思想の自由すら受け入れた上での「日本」とは到底思えませんが。こういうのは法律とか関係なく日本国民の常識的に、「『日本』とは違う」と枠外に出るべきでしょうね。
でもそういう切り分けをすれば必ず「差別だ」「人権侵害、自由の侵害だ」「野蛮だ」という声が上がりますね、まあでもこういう切り分けは常識的に考えて必要でしょうね。別に日常生活云々でどうこうという話じゃなく、そういう人達の言論はリアルな政治や社会の話にマクロ的にリンクさせることはなく、あくまでフィクションや頭の体操、時にはミクロな課題に対する解決策として部分的に参考にする、というレベルに位置付けるべきでしょうね。別に頭が悪いとかではなく、中にはものすごく頭の良い人も沢山いるでしょう。ただ根本的に「日本を主語にしてない」という事なだけで。(まあだからこそ生み出せる発想というのも中にはあるでしょうから、使えるものは部品として使うのも良いでしょうね、あくまでミクロな一部分においてのみでしょうけど。)
ともかく、日本国民による日本国の今後について、日本国民による日本国を主語とする立場で言動をすることは至って常識的な事だと思います。これは差別とか区別とかいうものじゃない。スポーツでレギュラーとサブとベンチに分けることが差別とは言わないのと同じで、事を成す為に当然そうならざるをえないもの、というものでしょうね。
でも現状この国は、大まかに言えば、そういう立場に立っているか立っていないか、の差でごちゃごちゃモメてるレベルなのだろうと思いますね。
でもまあおそらく今のテレビやその他メディアに多く露出している主だった言論人がそういった保守系の人を批判する場合、
そういった「やり方が野蛮だ」的な言い方になるんだろうな、という気はします。
なにしろそういった言論人のほとんどは「日本を主語」にしていないだろうし。
結局そこに尽きるのかな、という気がします。
ネットやその他の保守系の集まりの言動にしても、「日本を主語」にする事が軸に置かれており、これまで政治や社会でそうしてこなかったせいで色々なおかしなことや間違ったことや損したことがこの国内に蔓延し、中には固定化・権益化され、それらを打ち破りたい、少なくとも「おかしい」と声を上げたい、そういった方向性の活動であると思います。
それに「そろそろ日本を主語にしようよ」という気持ちは全く同意ですし、かなり多くの人が感じてるのではないかと思います。
評論家の中には「今の社会に(経済的にも)元気が無いから、その鬱憤晴らしだ」なんて言ったりしますが、
それとこれとは別ものでしょう。(そりゃあ誰しもお給料上がって欲しいでしょうけどw)
というよりそういう経済も含めて、「日本を主語にする」事を根底に持って、その為に知識や経験を集め正しい事をやっていけば実るはずです。要は何にしても「『日本にとって良くなる』ベクトル」でものを考えて行動しようよ」という事だと思います。この国に住んでいたら普通当たり前のことだと思うんですが、それができない、それを忘れてしまった、中には敢えてそうしない言論人が多く蔓延ってるのが現状なんでしょうね。
勿論「正しさ」は大事です。何を主語にしようがしまいが、それとは無関係に事象そのものや事実は客観的なものとして存在するでしょう。
でも例えば「これからはこうこうこういった客観的事実によって、○○の国々が勢いを増す。一方日本はもう成長も見込めなく落ちていく一方だろう。」という論評だけでは何の意味もありません。
仮にそれが客観的事実だとして、ではその上で、そういった危機を回避して成長するために日本はこの先どのように立ち回ればいいのか、それを必死こいて考えて見出そうとするのが「日本を主語にした」言論でしょうし、それを考える事が日本にとって良い言論だろうと思います。勿論その結果、どう足掻いても無理だ、という結論に達することもあるでしょうし、それは日本の為に色々と正しく考えようとしてそういう結論になったのだから正しいことでしょう。
でも大抵の悲観論は、ロクに日本の為に物事を考えようとしていないような大雑把さや抽象さを感じます。中にはそういう雰囲気を出したいがため、とか、タチの悪いのは持論や自分の誘導したい方向へ繋げるための無理やり型にはめただけということも。。
当然「日本」といっても、「主語とする『日本』とは何か?」を突き詰めれば、人によって微妙に違ったりその境目はフワフワしてることでしょう。でも今そういうミクロな事に焦点を当てるんじゃなくて、まずはマクロに、それぞれの日本国民が持つある程度大雑把な『日本』という感覚で良いと思います(ある程度コモンセンスとして括られるはず)。
だって大雑把なレベルで見ても、そういった「日本」すら、主語となっていないのが現状なんですから。
自称保守だろうがリベラルだろうが、そういう自分の中の「日本」を主語とした言論をしないと日本の為にはならないと思いますね。まあ他国を主語にしている人や、最悪日本がどうなっても自分は海外にでも飛べるのでいーし、過去とか歴史とか関係なく自分の経験だけで良いと思うような感じに実験的にやっていきたいな、とかいう日本人の思想の自由すら受け入れた上での「日本」とは到底思えませんが。こういうのは法律とか関係なく日本国民の常識的に、「『日本』とは違う」と枠外に出るべきでしょうね。
でもそういう切り分けをすれば必ず「差別だ」「人権侵害、自由の侵害だ」「野蛮だ」という声が上がりますね、まあでもこういう切り分けは常識的に考えて必要でしょうね。別に日常生活云々でどうこうという話じゃなく、そういう人達の言論はリアルな政治や社会の話にマクロ的にリンクさせることはなく、あくまでフィクションや頭の体操、時にはミクロな課題に対する解決策として部分的に参考にする、というレベルに位置付けるべきでしょうね。別に頭が悪いとかではなく、中にはものすごく頭の良い人も沢山いるでしょう。ただ根本的に「日本を主語にしてない」という事なだけで。(まあだからこそ生み出せる発想というのも中にはあるでしょうから、使えるものは部品として使うのも良いでしょうね、あくまでミクロな一部分においてのみでしょうけど。)
ともかく、日本国民による日本国の今後について、日本国民による日本国を主語とする立場で言動をすることは至って常識的な事だと思います。これは差別とか区別とかいうものじゃない。スポーツでレギュラーとサブとベンチに分けることが差別とは言わないのと同じで、事を成す為に当然そうならざるをえないもの、というものでしょうね。
でも現状この国は、大まかに言えば、そういう立場に立っているか立っていないか、の差でごちゃごちゃモメてるレベルなのだろうと思いますね。