前々回の記事の最後で、民主主義が正常に機能する為の「十分な議論」というのもなかなか難しい、という事を書きましたが、
そう感じる原因の一つとして、「論破」というシーンを中々見れない所にあります。
まあ僕のような知識もなく勉強も足りない一般人は、専門家や知識人の見解や議論を参考にするしかないのですが、そういう知識人同士の議論の中でもどちらかがどちらかを完全に「論破」というシーンは中々見られません。
少し前まで盛り上がっていたTPPの議論にしても(本当は今もずっと盛り上がらないといけないですけど)、賛成反対派の知識人それぞれがお互いの土台で自分の見解は述べるけど、踏み込んだ論戦をし、その結果一方が完全に論破され、もう寝返る以外に方法が無い、という所までのシーンは無く、結局踏み込まず平行線に持ち込んだり、その論争が終わった後も何も変わらず同じことを繰り返す、というグダグダなことになったりしますね。
お互いの論理を戦わせるのだから、論理的に何らかの勝敗は付きやすいはずです。なので踏み込んだ論争をすると、完全な決着まではいかなくても、どちらかのかなりの部分がえぐられるのは避けれないはず。論理的に物が言えたり分析できる人達なんだから、理解力が無いとも思えないし、仮に感覚的であっても相手の言うことが違うと感じたのなら、なぜそう感じたかの論理的分析・説明だってできる能力はあるはずです(逆にそんなこともできないのなら不正確な分析力しかない人なので論外でしょうね)。なので、そういう論争後の自分の考えの総括や分析も説明して欲しいものです。何も変わらないのなら「なぜ何も変わらないのか」の説明を。それは論争前の主張をそのまま話すのでは全く意味がなく、論争によって指摘され、えぐられた部分をどう修復しているのか、を説明してくれないと議論によって熟されたことになりません。仮に論争後にえぐられたけど何事も無かったように今までと同じ事を言ってもいいでしょう、その変わり「自分はどうして論争でえぐられたけどそれを無視して同じことを言うのか」を説明してくれれば。
その先には間違いなく個人的な利益や権益、主張の背景にある信仰的なイデオロギーなんかがあるはず。同じことを繰り返して議論を平行線に持っていきたがる人ほどそういったものが強いでしょうし、そういう議論は不毛で民主主義にとっては障害なので、その説明責任を追求して追い出す事がよろしいんではないでしょうかね。単に給与が高いという理由で公務員を攻撃するよりもよほど意義があるかと。
TV番組の討論なんかは無駄に人が多く、時間に限りがあり、話を遮ったり、ほとんどが白黒付けずにうやむやに終わりますね。でも論理的な話は、道徳や感情的な話と比べたらはるかに白黒付けやすいし、逆に白黒付かないということは論理的な分析の行き届きが足りていなかったり、論理とは別の感情や利益などの諸要素が絡んでいる証拠でもあるでしょう(TVの場合は時間制限やカットや無駄な人の多さなど)。また色々と論理モデルなんかを持ち出して小難しい事を語った結果「経済は何が起こるか分からないから民間にまかせろ」なんていうのもただの一人敗北ですね。じゃあ語るな、ということにも。(まあでも他人の批判を論理的に行う力はあるのなら、そういった研磨装置的役割として利用できるとは思いますけど。)
とまあとりとめなく書きましたが、TVなんかに出て重要な政治課題についての持論を電波に乗せる人は、論争後のフィードバックの為の説明責任を果たさないと前に進まなく、視聴者含めての「十分な議論」に近づけないのかもしれないですね。
ちょっと視聴者のわがままですかね?w
そう感じる原因の一つとして、「論破」というシーンを中々見れない所にあります。
まあ僕のような知識もなく勉強も足りない一般人は、専門家や知識人の見解や議論を参考にするしかないのですが、そういう知識人同士の議論の中でもどちらかがどちらかを完全に「論破」というシーンは中々見られません。
少し前まで盛り上がっていたTPPの議論にしても(本当は今もずっと盛り上がらないといけないですけど)、賛成反対派の知識人それぞれがお互いの土台で自分の見解は述べるけど、踏み込んだ論戦をし、その結果一方が完全に論破され、もう寝返る以外に方法が無い、という所までのシーンは無く、結局踏み込まず平行線に持ち込んだり、その論争が終わった後も何も変わらず同じことを繰り返す、というグダグダなことになったりしますね。
お互いの論理を戦わせるのだから、論理的に何らかの勝敗は付きやすいはずです。なので踏み込んだ論争をすると、完全な決着まではいかなくても、どちらかのかなりの部分がえぐられるのは避けれないはず。論理的に物が言えたり分析できる人達なんだから、理解力が無いとも思えないし、仮に感覚的であっても相手の言うことが違うと感じたのなら、なぜそう感じたかの論理的分析・説明だってできる能力はあるはずです(逆にそんなこともできないのなら不正確な分析力しかない人なので論外でしょうね)。なので、そういう論争後の自分の考えの総括や分析も説明して欲しいものです。何も変わらないのなら「なぜ何も変わらないのか」の説明を。それは論争前の主張をそのまま話すのでは全く意味がなく、論争によって指摘され、えぐられた部分をどう修復しているのか、を説明してくれないと議論によって熟されたことになりません。仮に論争後にえぐられたけど何事も無かったように今までと同じ事を言ってもいいでしょう、その変わり「自分はどうして論争でえぐられたけどそれを無視して同じことを言うのか」を説明してくれれば。
その先には間違いなく個人的な利益や権益、主張の背景にある信仰的なイデオロギーなんかがあるはず。同じことを繰り返して議論を平行線に持っていきたがる人ほどそういったものが強いでしょうし、そういう議論は不毛で民主主義にとっては障害なので、その説明責任を追求して追い出す事がよろしいんではないでしょうかね。単に給与が高いという理由で公務員を攻撃するよりもよほど意義があるかと。
TV番組の討論なんかは無駄に人が多く、時間に限りがあり、話を遮ったり、ほとんどが白黒付けずにうやむやに終わりますね。でも論理的な話は、道徳や感情的な話と比べたらはるかに白黒付けやすいし、逆に白黒付かないということは論理的な分析の行き届きが足りていなかったり、論理とは別の感情や利益などの諸要素が絡んでいる証拠でもあるでしょう(TVの場合は時間制限やカットや無駄な人の多さなど)。また色々と論理モデルなんかを持ち出して小難しい事を語った結果「経済は何が起こるか分からないから民間にまかせろ」なんていうのもただの一人敗北ですね。じゃあ語るな、ということにも。(まあでも他人の批判を論理的に行う力はあるのなら、そういった研磨装置的役割として利用できるとは思いますけど。)
とまあとりとめなく書きましたが、TVなんかに出て重要な政治課題についての持論を電波に乗せる人は、論争後のフィードバックの為の説明責任を果たさないと前に進まなく、視聴者含めての「十分な議論」に近づけないのかもしれないですね。
ちょっと視聴者のわがままですかね?w