思ったこと

思ったことを書きます

こういう所の説明責任

2011-12-29 | 日記
前々回の記事の最後で、民主主義が正常に機能する為の「十分な議論」というのもなかなか難しい、という事を書きましたが、
そう感じる原因の一つとして、「論破」というシーンを中々見れない所にあります。

まあ僕のような知識もなく勉強も足りない一般人は、専門家や知識人の見解や議論を参考にするしかないのですが、そういう知識人同士の議論の中でもどちらかがどちらかを完全に「論破」というシーンは中々見られません。
少し前まで盛り上がっていたTPPの議論にしても(本当は今もずっと盛り上がらないといけないですけど)、賛成反対派の知識人それぞれがお互いの土台で自分の見解は述べるけど、踏み込んだ論戦をし、その結果一方が完全に論破され、もう寝返る以外に方法が無い、という所までのシーンは無く、結局踏み込まず平行線に持ち込んだり、その論争が終わった後も何も変わらず同じことを繰り返す、というグダグダなことになったりしますね。
お互いの論理を戦わせるのだから、論理的に何らかの勝敗は付きやすいはずです。なので踏み込んだ論争をすると、完全な決着まではいかなくても、どちらかのかなりの部分がえぐられるのは避けれないはず。論理的に物が言えたり分析できる人達なんだから、理解力が無いとも思えないし、仮に感覚的であっても相手の言うことが違うと感じたのなら、なぜそう感じたかの論理的分析・説明だってできる能力はあるはずです(逆にそんなこともできないのなら不正確な分析力しかない人なので論外でしょうね)。なので、そういう論争後の自分の考えの総括や分析も説明して欲しいものです。何も変わらないのなら「なぜ何も変わらないのか」の説明を。それは論争前の主張をそのまま話すのでは全く意味がなく、論争によって指摘され、えぐられた部分をどう修復しているのか、を説明してくれないと議論によって熟されたことになりません。仮に論争後にえぐられたけど何事も無かったように今までと同じ事を言ってもいいでしょう、その変わり「自分はどうして論争でえぐられたけどそれを無視して同じことを言うのか」を説明してくれれば。
その先には間違いなく個人的な利益や権益、主張の背景にある信仰的なイデオロギーなんかがあるはず。同じことを繰り返して議論を平行線に持っていきたがる人ほどそういったものが強いでしょうし、そういう議論は不毛で民主主義にとっては障害なので、その説明責任を追求して追い出す事がよろしいんではないでしょうかね。単に給与が高いという理由で公務員を攻撃するよりもよほど意義があるかと。

TV番組の討論なんかは無駄に人が多く、時間に限りがあり、話を遮ったり、ほとんどが白黒付けずにうやむやに終わりますね。でも論理的な話は、道徳や感情的な話と比べたらはるかに白黒付けやすいし、逆に白黒付かないということは論理的な分析の行き届きが足りていなかったり、論理とは別の感情や利益などの諸要素が絡んでいる証拠でもあるでしょう(TVの場合は時間制限やカットや無駄な人の多さなど)。また色々と論理モデルなんかを持ち出して小難しい事を語った結果「経済は何が起こるか分からないから民間にまかせろ」なんていうのもただの一人敗北ですね。じゃあ語るな、ということにも。(まあでも他人の批判を論理的に行う力はあるのなら、そういった研磨装置的役割として利用できるとは思いますけど。)

とまあとりとめなく書きましたが、TVなんかに出て重要な政治課題についての持論を電波に乗せる人は、論争後のフィードバックの為の説明責任を果たさないと前に進まなく、視聴者含めての「十分な議論」に近づけないのかもしれないですね。
ちょっと視聴者のわがままですかね?w

行き詰まりそう

2011-12-24 | 日記
こちらでグローバル経済に対する批評がされております()。
4,5年程前から個人的に(ミクロな消費者・生産者として)感じていた企業とか店舗とか商品とかに対する違和感がスッキリ明快に語られていて、聞いていてなんか安心する内容でした。

グローバル社会と言っても、言葉の響き通り各国が「世界の為に」なんていう気持ちで行動してるかといえば当然そんなハズもなく、とりあえずは「自国の利益の為に」もっと言えば「自社の利益の為に」、より多くの市場を分捕ろう、っていうのが正直な所なんでしょうね。グローバルとは裏腹に、より個人主義化していってるようなイメージです。まあそれが「自由」ってやつの正体でもあるんでしょうけど。
そんなグローバルな経済協定が自国にとっていいものかどうかは慎重に考えないといけないのは当然で、今回のTPP騒ぎの一推進意見のように、つまるところ自社の目先の利益を第一にし、自国の犠牲は無視しようといった考えだって起こったりもします。

そういう意味で「自由」という言葉には個人的になにかと違和感があります。やはり人間放って置けば自分の楽な方へ、気持ち良い方へ、得する方へ流れて行きやすいでしょうし。
日本の経済がこういう市場原理の流れになったのは小泉政権時の構造改革が原因だと言われていますが、確かに国としてそういう方針へ流れて行ったのはそうなのかもしれませんね。
ただそれを痛快だと圧倒的に支持したのは国民ですし、もっと言えば一人一人の個人主義的な本能であるような気がします。煩わしいしがらみ、汚職や保身に走る上流階級、自分が正当に評価されない不公平でまどろっこしい制度、そういうのを取っ払い始末して、もっと自由で開放的に生きたいっていう個人の欲望なのかもしれません。
そりゃある程度個人の自由は必要ですが、行き過ぎて全体を軽視し過ぎたら社会活動はグチャグチャになります。
そういった流れは時勢として今尚変わっていないように感じるので、個人主義や合理主義というものともっと向き合う必要があるのかも。

個人主義は行き過ぎたらロクな世の中にならない気がします。
まあ同じように全体主義も行き過ぎたらロクな世の中にならないでしょうけどw
でも生き物は全体で、しかも代々生命を繋げてきたわけで、
たとえ一個人は一個人の意識体でしかないにしても、
他の個人がいなければ生きられず、過去の個人がいなければ生きていないわけで、
それを受け継いでまた未来の個人を生み出したりしていくもので。
そんな中で産まれ落ちたこの一個人の人生には、
間違いなくそういう横や縦の繋がりの中での一種の役割を担っているでしょうし、
決して一個人の欲望や目標だけで閉じられているものでは無いでしょう。
そうすれば単にそういった個人的に閉じられたものだけでその個人の生きる意味が決まるわけでもなく。
まあものの見方や考え方次第でしょうし、
この考え方も脳科学的には単に一個人の自己満足に過ぎないとも言えますけどもw

そんな事を考えれば、「無駄なもの」の定義も少し変わってくるでしょうし、
そうすれば合理主義の中身も主婦の何でも切り詰め感覚レベルよりは少しはマシになるようなw

とまあそんな見解を横目に、
こういう自由化の流れが進むとおそらく今後様々な自由選択の中で「自分の為に国を売る自由」を選択するシーンも散りばめられ、またそれが正しいという価値観の土台建設も進んでいくことでしょう。いずれ行き詰まって自分が大きな崩落をするまでは。(その時に復旧する余力があればいいのですが。。)


民主主義とか

2011-12-04 | 日記
大分前にも書きましたが、wikiの「民主主義」のページで、

「最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として
多様な意見を持つもの同士の互譲をも含む理性的対話が存在することをもって正当とする」

と記載されています(今は書いてないかも?)。

wiki情報だろうが何だろうが、これは正しいことだと思いますね。
反映される民意をより正しくするため、
「きちんと中身を話し合った上で」みんなで決める、ことが大事かと。

ところで今回の大阪府知事・市長のW選挙、
維新の会の圧勝について「これが民意だこれが民意だ」とよく言いますが、
選挙の過程において上に書いたような民主主義の正当な手続きが十分行われたか、
と言えば残念ながらそれは無かったと思います。

ずっと前から朝の関西のニュース番組を出勤前に見ていましたが、
関西だけあってさすがに大阪W選挙について取り上げる機会は多かったです。
でも残念ながら報じられたのは「~は~で立候補を諦めた」「○○党は~を支持しないので、○○を推薦する方向」「○○党と●●党は~を支持、一方~は▲▲派の~を味方につける」などという、見ていてイライラするような「政局・戦略話」だけでした。
こんなことを国民が知っても正しい民意を形成するためには全く意味がないでしょう。何の足しにもならない。貴重な放映権を割いて単に騒ぎたいだけならいいけど。
(仮に2択とすると)「どっちが大阪を(自分たちにとって)良くしてくれそうか」について、より具体的な議論が行われないと。
今の大阪の問題点、改善点、橋下さんの改革内容、平松さんの政策内容、そのメリット・デメリット、などを話し合い、国民が枝葉レベルで自分達の生活がどう変わるか、をイメージした上で、「どっちが大阪を良くしてくれそうか」という結論を得た(得ようとした)結果でないとね。まあ簡単ではないですけどねwでも新聞やテレビでそんな不毛な政局話流してる暇あったら(そりゃ選挙なんだから政局活動もするだろうよ。でもそんなこと「どっちが大阪を良くしてくれそうか」と関係無いんだよね。)、少しでもその時間を上の正しい民意の為に使えよ、と。

当選した橋下さんの政策についての是非の議論はほとんど行われていないですが、
それの議論は具体的な案が固まり、成立させるかどうかの時点に達してからするつもりなんでしょうかね。でもそこで「やっぱだめ」という事になったら、橋下さんを当選させた意味も無くなってしまう。逆にせっかく当選させたんだし、多少問題あってもやってみようよ、という浅はかな時流も産みかねない。いずれにせよそうなると何の為の選挙だったんだろうか、安易に選んで失敗した、なんていう今の国政のような手遅れ状態。
議論すべきタイミングが遅いんだと思います。本来はW選挙の前にしないと。まだ具体案が詰められていないのなら、大まかなマクロな視点でもいいから(というか方向性を問う上でマクロ視点が大事)もっと議論しないといけなかったと思いますね。
だから選挙の大分前からヘラヘラと政局話や各社新聞紙が選挙情勢をどのように捉えているか、なんていう全く意味の無い何の栄養分も無い不毛話をするTVにイラっともし、このアホ化した流れ、アホ化に進む坂道をどうにか変えていけないのかなあ、と思ったり。

といいつつも、「十分な議論」というのはなかなか難しく、十分できるものでも無いのかもしれないとも思ってます。ただ少しでもやろうとすることは大事かと。やらないよりかは全然良くなる。まあその際あまりに偏った議論でも問題がありますが。議論によって余計と混乱するケースもあるでしょう。次回はそのへんのことをちょっと書きたいですね。