思ったこと

思ったことを書きます

どうしたいのかを統一してよ

2015-01-31 | 日記
なんとなくネットを見ていたら、「リフレ派と新自由主義とは全然違う」というページ(yahoo知恵袋?)がありました。(

個人的には、別にリフレ政策そのものを批判するつもりは無いです。寧ろデフレ脱却にとって必要な金融政策であるとすら思います。ただ、その「リフレ派」と言う方々は、「リフレ政策のみ」で結集しているように思えてなりません。逆に言うと「それ以降の話にはあまり関心がない」という感じで。
リフレ派の方々にしても、おそらく「リフレ政策を行った後、どうすればいいか」、という点は個々人内心は千差万別なんじゃないかと思います、本心は。実際、「リフレ政策」という一点だけで繋がっているだけで、その点の必要性でいえば、いわゆるリフレ派から現在倦厭されているであろう、三橋さんや藤井さんや中野さんにしても認めているわけです。そういう意味では別にこういう方々も本来「リフレ派」の一員といってもさしつかえないわけです。しかし対立ができているのは、明らかに「リフレ政策以外の部分」において、両者で対立的な考え方があるからでしょう。

まあ多分それは「財政出動」の部分なんでしょうね。
このあたりについて、なぜこうも徹底的に対立しているのか、いまいち掴めません。
いわゆるリフレ派といわれる方々は、リフレ政策をした先について、そこまで関心が無く、人によって政府がどういう政策をすべきかは違っているはずなのに(例えば森永さんは以前ラジオで「早くデフレ脱却するために財政政策すべきだ」とか、上念さんも消費増税反対の国会陳述の際「財政出動で防衛等に使えばいい」と言ったり、高橋さんは「B/Cの基準を変えさえすれば、私は別に公共事業に反対じゃない」と桜の討論で言ってたり、飯田さんなどは「公共事業ゴリ押しより減税すべきだ」と言ったり、時と場合や人によって違っています。)、なぜか「リフレ派」というカテゴリーで(リフレ派の創始者の一人と自負する)田中秀臣さんとかが特定の人たちを一括りにし、三橋さん・藤井さん・中野さんなどを「財政出動派」と一括りにして敵視する、というかお互い敵視するような感じですね。
でもこの3人だって、デフレ脱却のために「リフレ政策+財政政策のパッケージ」を推している以上、「リフレ政策のみ」で結集するリフレ派という方々にそこまで敵対される謂れは無いと思えるのですが。実際消費増税の討論等で倉山さんが桜や三橋さんを敵視するようになった前までは、そこまで犬猿ではなかったですよね。

まあ、あくまで「経済政策」で見るとそういう見方ができますが、
実際、「財政政策」を必要と思う方々の中には「国づくり」についての思想があり、
いわゆる「リフレ派」という方々は人それぞれの国家観やあまりなかったりと、いわゆる「リフレ政策の先はあまりこだわりがない、いわば人によって自由」という「明確にしていなく、状況でどうとでも動けるような状態」であるため、ハッキリと「国づくりが必要」という方々とは、思想的には敵対するのは避けられないのかも、とは思います。(これに関して、どっちが保守でどっちがリベラルに近いかは、各々の判断にお任せします。よく言われる「擬似保守・エセ保守」てのはだれなのか。)

別にリフレ派といわれる(認められている)の人の全てを批判はしません。中には「愛国」の想いを持っている方々もいるはずなので。なので、そういう方々は「リフレ派」なんていう是々非々で組んだような一時の一経済政策についてだけの派閥に縛られることなく、「(リフレ政策後、)その愛国心で、どのような国にしていきたいのか、経済的にもどのように国が発展していけばいいと思うのか」という思想を根本にした派閥を新たに組んで、その点を(「リフレ政策すれば良い」ということ以外は)何も考えていない同士とは分裂再編してもらえればなあ、、なんて思ってます。だって、国民にとって、そこが大事じゃないですか。。
そこを無関心なままで「(リフレ政策の)後は、市場がなんでも自由に決めるようにするのが良いんですよ」と言ってたら、(リフレ政策後は)新自由主義と変わらないじゃないですか。。。

テロ対策・災害対策

2015-01-28 | 日記
ISILによる日本人人質事件が起こっていますね。

以前、大震災・大津波による原発事故の時に、
津波対策だけじゃなく、もしテロなどで原子炉が爆破されたら、という想定も必要だ、という意見をテレビだか動画だかで見て、確かにと思いました。状況によってはまあ起こってもおかしくはないかと思うので。(少なくとも隕石が落ちるよりは確率は高いでしょう)

今回の人質事件は日本人が現地に行くことで起こっていますが、
向こうが日本に来て起こすことも今後考えられます。
だからあまり「特例」みたいな感じで捉えない方が身のためだと思います。

それに今回の件についても「どう対処するのか」を真剣に考えないことには、
この先もあるかもしれないテロ攻撃の事態に何も学習せず相変わらず混乱することでしょう。

昔、小泉政権の時にも似たような事がありましたね。
イラクに行った学生がアルカイダによって捕虜になって殺害された事件。
この時に「自己責任」というフレーズを初めて聞いた気がします。

でも、「それが自己責任かどうか」という見解は、果たして「テロによる国への攻撃に対する対処」に対して意味があるのかどうか。というかそもそもこの国に「テロ事件に対してどのような姿勢でどう対処するかという思想や、具体的安全保障策」があるのかどうか。。前回は小泉さんが「テロには屈しないので(アルカイダが要求したイラクへの自衛隊派遣の撤退に)応じない」という結論で、人質は処刑されたんでしたよね。(確か当時は自分も学生で、その会見に対して「政治家なら少なくと自分の国の人命救助を最優先するような事を、綺麗事でも言いから言ってくれないといつか自分も見捨てられそうで怖い。」とか思ってそんな感じのブログを書いたような記憶があります。青臭いなと思いつつも、そんなに間違ってないような気もしないでもないです。)

「屈しない」という姿勢は良いのですが、もし国内でもっと大規模な形でテロの驚異に晒されたとき、そのかけ引きに使われる人質に対する対策はどうするつもりだったのか。「人質」というのはそうそう甘い判断でベストな解決ができるものではなく、極端な話「究極の選択」のようなものを突きつけられるわけで。
「~人以上の人質なら、人命優先とする」みたいな機械的な法でも決めますか??(その人数の妥当性を全員が納得するように示せる人がいたら神のような人だと思いますが。。)

個人的には、やっぱり非常に難しいと思います。
助けられるなら助けた方が良いのは当然。
身代金を払うことで所謂「テロに屈する」と取られる行為をして、この先さらにテロ事件がエスカレートして、それに対する対策も相変わらずほとんど無いのでは話にならないので。かといって「屈しない」一点張りで、人質に対しては「自己責任」一点張りでは、その先を押し進めてみて仮に国内で夜にコンビニに行ってる時にテロに捕虜にされたとして、世論は「こんな夜道に一人で歩く奴が悪い。自己責任だ」とかいう感じになったら、まあかなり(治安的にも)末期な国だろうなあ、と思いますね。。

なので「それは自己責任だ、今回は自己責任だ」というのは、国家の目線で見たら冷たいものであり、そしてテロ事件に対する対処方法としてみたら「問題の先送り」でもあるかと思います。
別に必ずしも今現在全ての状況で全ての日本人を慮れとは思いませんが、いつか自分に深く関係するような形でテロの驚異が襲いかかったとき、国民の姿勢としてこんな態度で良いと思えるのかどうか、少し想像してみても良いのかもしれません。(まあほとんどの人が「ないない。そんなのあるわけないじゃん~。」という思いではあるのでしょうけど。でも地震なんてのはいつも不意打ちですし、テロだっけ予測できるものではないでしょう。)

あと、上記の原発の話然り、テロも自然災害同じく、国を脅かす脅威であることは変わりないんですね。
だから「今回のこれはこいつがこうしたからああなっただけで、こいつが悪いからどうでもいいのだ」なんていうだけの単なる「特例」という捉え方だけで済ませるのはマズいのではないでしょうか。
まして根底には宗教的な対立要素も絡んでいる話。そういう事にあまり関心の無い(寧ろ消極的)であろう日本にとっては、今後どのような危機が訪れないとも限らない。

だからといって、「(キリスト教的な)アメリカには絶対に付くな」と言いたいのでは全くなく、こういうテロルなどの「災害の脅威」に対して、どのような安全保障策をとるべきか、という事を、今回の件をミクロな特例として「自己責任だ」とか先送り的に分析するんじゃなく、正面から考える必要があるんじゃないだろうか、と思います。

じゃあそうやって真剣に考えたとき、今現在こんな難しい状況でどうすべきか、は僕個人では答えを出せませんが、少なくとも今後はこういう事ができる限り起こらないような対策や、時には法律を考えるべきなんだろうと思いますね。
それとも、やはりもっと自分の身近なケツに火がつかない限りは、こういう話も「青臭い。なんかキモい。」という事で終わってしまうのでしょうかね。。

徒然

2015-01-23 | 日記
個人的に経済の情報を色々得て学んだ結果、
デフレである状況で、リフレ政策は必要不可欠なものだと思います。
ここまで全然異論ありません。

で、その後の、内需の活性化の仕方として、僕は財政政策が必要だと思います。
なぜ必要かというと、これは乗数効果とか消費性向とかいう数字だけの話ではなく、
財政政策は「国造り」的な要素を持っているから、より必要だと思います。
(これいうと財政政策は全然経済効果無いとかイメージもたれそうですが当然そんなこと無いし、それよりも大事だと思う事なのでこんな感じで書きました。)

「国造り」とかいうと、まず経済成長効率を重視する方々からすれば「そんなの非効率だよ、そんな公共投資より減税とかの方が良いよ」という避難が下るでしょう、と同時に「『国造り』て・・・官僚や政治家が??、計画経済かよ、、民主主義である国民の自由を否定するの??」という方向の批判も出ることでしょう。

しかししかし、、、どうなんでしょう、今の民主主義に従って完全に国民の多数決の判断だけで、数十年後、「後悔しない国」になるのでしょうか。。そんな今の利益効率を高めることを第一に経済政策を打っていくことで、数十年後、「後悔しない国」になるのでしょうか。。

とてもそう思えないし、それらをひっくるめて「戦後レジーム」と捉えて日本の今後を見て憂うから、たとえ最高効率じゃなくとも一部の言論や実行者だとしても、日本のこれまでやこれからを長くトータールに見据えている人の考えに期待したい、引っ張ってもらいたい、と願うのは、国民として間違ってるのでしょうか。。
正直「身を粉にしてまで日本のためによく考えてくれているエリート」がいれば、その人に日本を牽引してもらいたいような気分です。これって民主主義の否定だから、間違った想いなんでしょうかね。。
でも似たような発想で、ちょっと前の日本は民主主義が小泉を英雄視して選び、民主党を選びましたよね。
そんなもんなんでしょう?
そういうのを否定している人も、心のどっかで「英雄」がいて、その考えに期待して、その考えを判断基準にしてるんじゃないすかね??

もっと自分で調べて否定して真実を突き詰める姿勢も必要なんでしょうけど、国民全員がそんな学者や哲学みたいなことまではできないですよ。日本に限らずどんな国でもそう。
本当に正しいことが何なのか、までは当然わからないですけど、
これまでの情報から、自分なりに人生的にかつ理論的に「これが良い」っていうのを見つけ出して、それを軸に考えたり応援したり時に自己否定してみたり議論したりするしかないでしょう。

『完全理論』なんてこの世にないです。定義上、「1 + 1 = 2」ですが、「1が本当に1たりえるのか」「1の事を『1』と定義することが、現実的に妥当なのか」などと問い正せば、簡単に「『1 + 1 = 2』だからこれが(俺が)絶対的に正しいだよ」なんて認められなくなるものです。
別にこれは全てを対等に疑って批判しまくれ、っていう所までは言わないですが、簡単に「数字や公式さえ出せば全て正しい」という話じゃない、と言いたいだけです。「じゃあ感情論か?」などと安易に否定されそうですが、まあ感情とかも大事ですよね、人々の消費意欲ってのも「マインド」の話ですし、公式だけでは語れない。

かといって「そういうことなので何事も難しいから公式化しようが意味ないんだ」という事は全然ありません。考えて法則や結論を出すことはとても大事です。
要はその過程で「どこまでのものを汲み取って考えたか」という部分で、その結論に至る過程で、何を切り捨て、何を汲み取っているか。その数字や式の中には何が含まれて何が切り捨てられているか、という事を吟味する事が大事なんだろうな、と思います。特に経済学は。
短期の利益と、長期的に見た利益、というのも過程が違ってくるでしょうし、「どういう利益の得方か」で「どういう国になるか、どういう国民が豊かになるか」が全然変わってくる。
そのあたりをどこまで勘案しての「経済効率が良いからこの方がいい」という判断なのか、
国の中に生きる国民にとって、とても大事で気にすべき事柄のはずです。

だからこそ、経済学者にせよ、言論人の「こういう国にしたい」という「そもそもの根本思想的な部分」をキッチリさせたり見定める事は大切だと思うのです。普通にこの国で過ごす一庶民にとってとても大事かと。単に何かしらの数値やグラフなどで「こうだからこの方が経済成長するんだ」とだけ分析する主張は、一体「その経済成長というのはどのような成長の仕方で、長期的にはどのような国の方向性に進んで、どのような人間が「豊かな国民」として生き残るような国になりそうか」という部分は、一般国民からすれば気にしなければ危ないと思いますし、簡単に数値的に『経済成長』とかいうけど「その成長の仕方の先には、自分というものが不要で切り捨てられるかもしれないのかどうか?」という少しの疑いぐらいは持つべきなのではと。自分のためにも。

自由だからって、自分が生き残れるようになるとは全然限りませんからね。
みんながみんなそんな有能じゃないですよ。今の日本人全員がそう危惧する資格があると思います。。

ぼやき

2015-01-14 | 日記
いずれにせよ、
経済にしても
「どんな国にしたいのか」
という事を第一において、それに向けた発展策を考える人がイイと思います。

方法だけ見て、「その結果どんな国になるかなんて成り行き次第だ」という考えの人の言う事は
思想地盤のない人の言う事なので、その先はますます骨抜きになると思います(それが戦後レジームの主題なのでは)。

この第一思想がすごい大事だと思うんですが、方法だけを見る人は、そういうものを「思想に縛られ凝り固まって誤った見解を述べている」と批判しがちですが、はたしてその思想無き方法論が、人類にとって幸せなものなのかどうか、すごく疑問です。

また、「どんな国にしたいかなんて人それぞれだから、特定の人間が決め付けて設計するようなものじゃない」とも批判するでしょう。国民全員が福田恆存さんのように人というものを考え抜いているのならそれも頷けますが、でも実際、そこまで一人一人は自分で考えてうまく幸せに生きていけるような人間ばかりじゃないかと。特に考えないまま周りの空気になんとなく乗って、大事なものを壊していって「知らず知らず」不幸の道へ進む、という事は大いにあると思います。日本の全人口のうち、どこまでの人が「国」や「国と自分」というものについて、調べないまでもとことん考え抜いた事でしょうか。。「そんな事考えるかどうかも人それぞれだ、だからそんな事考えずに行くのが自然で良いんだよ」という考えもあるでしょうけど、全然納得できません。それこそ空気を支配しようとする一部の権力者に振り回される愚かな人々、という気がしてならない。

だから「どんな国にしたいのか」っていう思想のようなものは、何かの策を考える指針や基準として、なければならないと思います。

また、「そんな事を考えて間違ったせいで、自殺者が増えたらどう責任取るんだ」という、当面の景気状況を元に言ってくる批判もあることでしょう。それはその人が「多くの人が経済的貧困などで自殺するような国にしたくない」っていう思想がちゃんとある証拠なので、その言い分は頷けますが、そう言った人は、きちんと自分の中に「そうならない国にしたい」っていう思想があるはずなので、それを大事にしてもらいたいです。(批判するときだけ、批判のためだけに「自殺者数」っていう言葉を利用するだけなのでなく、その「想い」を第一にして組んだ主張をして欲しい、ということです。そうすると簡単に「自己責任」とか「自由なのが良い」とは言えなくなると思いますので。)
そうすれば、「どんな国にしたいか」を軸に考える人の気持ちも理解できると思いますし、逆にそれをきちんとした思想によって反論する人の気持ちも理解できます。
だから1番大事なのはそういう「こうなったらいい」という部分だ、という認識を持つべきだと思います。
そのための方法の違いが全てであるかのように、方法の違う人を人間的に嫌って批判するのは、愚かな事の部類に入ると思います。
なので「どんな国にしたいかなんて二の次」っていう感じの言論や主張の仕方といのは、根本が違ってると思いますし、思想を第一にする人は、他人の主張の中にその匂いを感じ取って批判等をするのかと。根本が違うのだから、それは仕方ないと思いますね。
逆に批判された人などは「そういう綺麗な思想を掲げて人を騙している」という言い方で批判をしたりもする。まあ本当にそうであれば批判されるべきでしょうけど。いずれにしても一番いけない思想は「自分だけが勝ちたい」ていう考えじゃないでしょうか。そんな動機だけの競争社会なら、社会主義に近い方がまだマシかもしれない。でも人にはそういう所はあると思います(個人的には性悪説に近いです。)。だから「人には人それぞれ色色考えがあるのだから、まとめずに自由にしておくのがいい」という発想で自然にとか野放しにしておくと、無秩序でボロボロになるんじゃないでしょうか。その結果、再びどっかの英雄的な人によって秩序が作られることに。ただの繰り返しなんじゃないかと。何も学習していない。

だから「どんな国にしたいのか」っていう思想のようなものは、何かの策を考える指針や基準として、なければならないと思います。論争するならまずお互いのその部分で、嘘っぱちでも建前でもなくとことんまで激論するべきなんだと思いますが、いかんせん方法主義(経済政策手法とかで「~派」ってカテゴライズしたがる)の人達は「そんなもの大したことじゃない」っていう価値観だったりするから、そもそもの価値観の土台が違う(手法だけの派閥には手法の先の土台なんて無いのだろうなあ。。そうなるとその手法が叶った先は、どこかで分裂しそう。)ので難しいものです。。

削減したらだめよ

2015-01-03 | 日記
藤井さんが最近の動画でおっしゃっていましたが、
プライマリーバランス(PB。政府の歳入-支出)を黒字化、つまり歳入が支出を上回ることを目標とすることと、政府債務対GDP比(名目GDPに対する、政府債務の割合。)を低下させることを目標とすること

この2つは「政府債務を減らす」という点では同じですが、「政府支出」の価値の置き方について全く違うものとなってきますね。

前者のPB黒字化は、単純な赤字黒字計算なので、とにかく歳入増加が善、支出増加が悪、という、一元的な基準になる。なので、これを目標とすると、1つは(支出を増やさず)歳入だけを増やそうとする方法(増税、規制緩和でイノベーションで云々に期待、とか)をとるのと、もう一つ大きいのはとにかく支出を削ろうという方法(緊縮財政)をとる、という方向へ進んでいきますね。とくに支出を削るのは政府としても増税よりはやりやすいし、PB黒字化目標というのは緊縮財政路線へ進む強い軸になりがちなんでしょう。

それもこれも、この目標で見ると、どうしても「歳入と支出を切り離して見てしまう」からですね。この2つの真逆(政府から見たら)のお金の流れがうまくつながって循環することで経済状況が改善し規模も拡大するのでは。なので、支出をすることでこの先の歳入増を狙う、という投資が許されなくなる。まして喫緊のお金だけじゃない価値(安全、衛生、将来の発展、など)を狙った財政出動なんてのは「無駄」の烙印を押されるでしょうね。

政府はあまり投資をするなと、投資は民間が効率的にやればいいんだと、政府は政府にしかできない投資をすればいいんだ、でもそれはPBが悪化するからできるだけ減らせ、だからそういう政府ならではの投資もできるだけ民間が参入して受け持つ。 ・・・なんか、竹中さんがPB黒字化を掲げた意図も分かる気がしてきた。。

「政府は政府にしかできないことがあるだろ、余計な財政出動するな」、といいながら、PB黒字化を目標としたら「そんなもの採算が取れないからやめろ」というでしょうね。政府にしかできない投資はたいてい採算土返しだから。「政府は今人口の多いところ、儲かるところの為だけに、価値のある公共投資をすればいいんだよ」という方向でしょうね。まあそれでいいって思う人も少なくないんでしょうけど。そういう短期の経済成長さえすれば良いと思う人は、頑張って東京や海外に行って勝ち組になってくださいw。

財政均衡も成長戦略も、いずれにせよ財政出動に批判的なんですよね。
こんなこというと「景気回復がメインじゃないのか、財政出動原理主義なのはお前だろ」とかいわれそうですけど、多分自分は、その人のいう「景気回復」がメインだとは思ってないです。どんどん希薄に個人主義に無関心に無考慮に流行やその場の勢いだけにのってチャラい方向へいくこの国の時代の流れっていうのに歯止めをかけたく、それができるのは政府であり、それを制度や法律以外で形にできるのは財政出動しかないと思いますので、「政府支出」の価値というものを捨てては国としてほぼ終わりなんじゃないかと。