丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

どんなでもいいの♡本当は。「~なければならない」を減らして「~なくてもいい」を増やすんだ/このレベルを上げる必要性を感じる今日この頃

2021-07-25 15:19:14 | 心の解放シリーズ
料理しなければならない

仕事しなければならない

正しくなければならない

まちがったこと言ってはいけない

ワクチンを打たなければならない

打ってはならない

ブログを書かなくちゃ

栄養をとらなきゃ

やせなきゃ

毎日決まって食べているものがあるとする。
今日はそんなに食べたくない気分なら、今日は食べなくてもいいやってしたほうが体がスッキリするかもしれない。

人と会ったら明るく楽しく話さなきゃとか。
無口でいたいときには無口でいられるか。本当はこっちのほうがいいんだ。。
無理して話すより、無口でいたいなら、しゃべんないでいたほうが、相手も心地よい。
無理してる人といると、なんとなくその感覚が伝わるから相手も疲れる。
相手に気なんて使わない方が、相手もじつは心地いいんだ。
そうではなくて、自分の感情をやさしく感じている。すると相手の感情も感じられる。
すると人にもやさしくしたくなっちゃうの。自然に。やさしくしなければならない、じゃないんだ。
自分の感情を大事に感じているとき、人から見ると、その人のことを大事にしてくれているように見えるの
だからそんなふうに自分の心を感じながら、お話したり、無口でいたり、好きなようにしていればいいんだ
だから夫婦、家族なかよくしなければならない、とかいうお話はちょっと違うなと思うの。「なければならない」とお話してる時点で、その方は愛をご存じない方だと思うんだ。自分を犠牲にするような支配ー犠牲の愛し方しか知らないと思うんだ。
いっしょにいたいときはいて、離れたいときは離れて、
自分を愛しながら自由でいないと、夫婦、家族とも愛し合えないんだ。

それは単純なことから練習できるんだ。
例えば私だったら、ブログを自分が楽な分量で止める。あれもこれも書きたいなって思うんだけど、自分が楽なところで止めた方が、読みやすく、相手にとってもちょうどいいかもしれない。読むのも大変だからね。
この件は明日の記事にまわそうと。保留にしてるとあとから関連情報が入ってきたりすることもけっこうあるのね。結果的に先延ばしにしてよかったとなったりする
あと楽な言葉で書くようにしてる。
内容がシビアで、悪いやつらについて書いているからさw
自分でもきつい言葉だとつらくなることがあるの。
少しでも自分が楽だと感じる言葉で書くようにしてるんだ。
あえて、はっきり書いちゃうときもあるけどねw

これはメールなどでも言えると思うんだ。かちゃかちゃと機械的に打たないで、自分の心と感覚を感じながら自分がしっくりくる言葉で打つの。そのほうがデジタルなツールであっても心のかようやりとりができる。
ビジネスライクに打ったメールはわかるものだ。そういうとき、ちょっと残念な気持ちになる。その人はそんなふうに迅速に処理、レスするのが仕事できる感じでいいと思っているのだろうけど。ご自分の心をあまり感じないで打っているのはわかるものだ。

お金に関しても心地よいかどうかを基準にしたらいいと思うんだ。
欲しい物がいろいろあるときは、思い切って破産しない程度に買い物を楽しむ。欲しいものがとくにないときにはお金が溜まっていく感覚を楽しむ
我慢するのではなくて。
節約しなければならない、と思いすぎていると、豊かにならないんだ。
お金使うのは罪悪という意識が強くて欲求を抑えていると、エネルギーの循環が止まってしまう。心もお金も、循環さ。
罪悪感が強いと、罪なんだから、自分の心が無意識にそのように自分を動かし、「罪」をおかさないような現実を作ってくれる。よってお金もやってこない。
お金も循環だから、心の循環がうまくいってると、適切に貯まって稼げるようにもなるんだ。

いろいろ「~なければならない」って思って生きているものだ。だれもが。
でも、それ、本当にそうですかね?ってことだ。

やめたほうが、エネルギーがきれいに循環する。「〜なくてもいい」にきりかえていくの。
まずは心が楽になるから心のエネルギーが最初にきれいに流れるようになるわけだけど、結果的に体のエネルギー、栄養~やる気、気力まで、お金も、愛もきれいに循環するようになる。
全部繋がっているんだ。
心、意識がひな形で、現実や物質的なもの、体までも作ってるんだ。

おばさんは、知っている。

これらの「~なければならない」はほとんどがウソだ。そう思い込んでいるだけだ。

じっさいは、めんどくさいときは料理なんてしない方が、食いすぎなくていい。
したい気分の時にして、まぁまぁ栄養をとるくらいで体にとってはちょうどいいかもしれないんだ。
調理も手間暇かけるより、シンプルな調理や生で食べた方が栄養が壊れなくて体にいいかもしれないんだ。今だったら、きゅうりに味噌つけて食べるとか、おいしいよね。冷たく冷やしてさ♪
そうしてるうちにちょっとした不調や病は治っちゃうかもしれないんだ。
食費が浮いて、その分をもっと豊かになること回せるようになるかもしれない。

また、
なにかSNSなど始めたら、毎日更新したり、順位とか、いいねとか気にして上位にいなければならないと思ったりするけど、書きたくない気分のときは休んで、書きたくて気分がのってるときに書いた方が、いいものが書けるもんだ。
他人の評価を気にしないのがコツだけど、そうなるためには、「他人が私をどんなふうに思ってもOK。自分がどう表現してもOKなんだ」って感覚を高めることだ。
(実際そうなんだ。親があれこれダメだしをしてくる人だとこの自己肯定感が下がっちゃうのね。すると他者を気にする人になっていく。自分でなく他者を軸に生きるようになってしまう。これがいわゆる「羊」の始まりだ。そういう場合も、自分で自分をOKする練習をし、習慣にすることで自己肯定感を高めることができるからね!)

具体的な話をすると、YouTube動画など見てると、どの動画もだいたい視聴回数の10%ほどの人が高評価ボタンを押している。どの動画もたいていそのくらいの割合だ。一定数、低評価もつくし、工作員もいるし、気にしなくていいんだ。
どうも、やさしさを積極的に相手に返したい方は人口の10%くらいいるようだ。
だから自分の表現が、よかったとかダメだったとか気にしなくていいし、あまり気にする意味がない
なんていうか、アップした時点で、自分のものでなくなるとも思う
それを見た人のものになる、とも思うんだ。
みんな自分の心のフィルターを通して、全てを見ているから。
優しい方は、すべてを優しい目で見ているし、あいつらに雇われた工作員は悪意をもって妨害するのが仕事だから、当然すべてをいじわるな目で見るのが仕事だし。
どんなにすばらしいものだとしても。
精神状態の悪い人はすべてをマイナスに受け取ってしまうし、悪態をつくことで発散していたりするし。
だから自分と関係ないのね。そう思うと楽じゃない?
相手は相手の事情で見たり感じたり言ったりしてるだけなの。

こんなふうに、みんなが自由に受け取るし、それでオッケーと思ってると、仮に工作員や嫌な感じの人が妨害をしかけてきても、それもOKと思ってると乗らないでいられるから楽なんだ。
相手がバカみたいに攻撃してきてもOK。
自分がどんな表現してもOK。(ここ大事。自信がないと相手の攻撃が気に障るのね。仮に間違ってたとしても言うのは自由でOKという感覚でいる)
おばさんは、オッケーすぎて、最近、自分のところに来た工作員をおちょくって、ブロックされた


コツは攻撃的な相手の言葉どおりに返さないことね。
相手の目的は攻撃することであって、攻撃するための言葉や理屈だから、言葉どおり受け取って返しちゃだめなんだ。
そこを無視して、自分の気持ちをただ言うだけね。
おばさんは相手が何を言ってきてもいいしwと言う感覚なので、平気でいられるんだ。とくに相手をやっつけようというわけでもなく遊んでいるw
ふざけたおばさんなのね。相手は初心者の工作員みたいだった。。
ごめんね、いじめてw ま、相手が攻撃しにやってきたわけだからね。

戦わないで、自分の感情にいると、安全なの。そして、強いの。

戦いから降りていると、よゆうで自分の気持ちが言えるんだ。
(あ、正論言ってもムダだし、相手の攻撃の言葉に乗ることになるからね。左脳のくだらない争いが始まる。自分の気持ちだけ言ってるのが安全で強い)

さらに、「自分もどんなでもOK、相手もどんなアホでもOK」と思ってるとき、戦いから完全に降りている。このモードが一番楽で、強いかなと思います、結果的に勝ちます。やっつけようとしなくても。

戦いから降りるっていうと負ける感じがするって方が多い。これは経験が少ないからなんだ。
おばさんは、日々意識して戦いからおりて、ひょうひょうと自分を表現することを日課としているので、これで大丈夫であることを経験で知っている。

だからおばさんは家でもどこでも、手抜きでぼーっとしているけど、けっこうしたたかなんだw

なんでも他人の評価などを気にしないでマイペースでやっている人のほうが、長く続いている。愛ある表現や創作ができる。
そういう人の意識は、「~なくてもいい」「どんなでもOK」の分量が多いと思われる。楽でしょ?そんなふうに自分に言っているとき。それが愛で、本当なんだと自分の心が知ってるからなんだ。

仕事もそうだ。ガチガチに自分を縛ってやってる人よりも、力が抜けて、適当に手抜きして、自分を愛しながらやってる人のほうが、いい仕事するんだ。

「~なければならない」が多いと、あるとき、ぽきっと折れてしまう。
どっかでムリしてやってるから、丁寧でなかったりする。
そして「なければならない」と仕事しているとき、本当はしたくない、休みたいって気持ちを無理して抑えてるわけだから、仕事がザツになってしまうの。

病気なんかもこういう意識が作っているかもしれないんだ。
「なけらばならない」の意識で仕事してる人はたぶん生活全般もこういう意識だ。
すると食べ方や体の使い方にいじめ的な部分があったりするのね。
無理しない、「~なくてもいい」、手抜きOKの人は、そういうキツイ部分があるとすぐに感じて、やめるの。やめることにオッケーできる。すると長生きになっていくと思うんだ。
やめられないのは、罪悪感が強いからなのね。罪悪感はいらないの。思い込まされたの。どこかで。「逃げるのか?」とか言われてさ。あるいは親の罪悪感を受け継いでしまっているの。

きつく生きている人は、病気になって死ぬことで、やっときつさから解放されるって面がある。
だから寿命などもある意味で自分の思い通りに作っている面があるんだ。

手抜きオッケーでムリしない人は、何かに取り組むときに瞑想状態であったりする。リラックスしていてムダな思考がない。
自分のハートを感じている。感じながら創作するから丁寧でゆっくりだ。
(だからスローペースでないと感じることをすっとばすから、あまりいい仕事できないの。大事な情報をキャッチできないの)
自分の無意識層からの表現だから、思いもしなかったものができたりする。
この感覚で、仕事も生活もできると、豊かに発展していく。
(お金の話にも繋がる。やりたくないことを我慢して稼ぐのではなく、本当にしたいことを、自分に没入して表現することで人の役に立ってうれしい、そしてお金をいただくというふうな稼ぎ方だ。)

この時点で、「~なくてもいい」派の勝利だ。「~なければならない」でやっていると負けるし、破滅しやすい。豊かにもなりづらい。搾取や支配のやり方で稼ぐかもしれないけど。

勝ち負けじゃないんだけど、結果的に戦ってない人が勝ち残るのね。
「~なければならない」が多い人は自分とも戦っているし、人とも戦っている。
「~なくてもいい」派は平和主義だ。そしてやさしい。一緒に居て無理がないから楽だ。で、あんまり干渉しないでいてくれる。
人の領域に入ってるとき、ほんとうはきつさを感じるものなんだ。
だから「~なくてもいい」の分量が多い人は、人の領域に入らない。
で思考回路も、人に対して、「どんなでもいいよ」と、相手の自由を認めている。
「~なければならない」でやっている人は、
自分を縛ってるから、人のことも縛りたくなる
すると、相手の自由の領域に侵入してしまうんだ。(これがいろんなトラブルの始まりだ)

批判したりしたくなる。

ある料理番組に出てくるおばあちゃんの料理の先生がいて、とってもかわいらしい。
お料理も丁寧でいつもおいしそうなレシピを教えてくれるんだけど、けっこうパートナーのアナウンサーに厳しくしてるシーンが映っちゃってるのw
それが残念だなぁと思うの。
包丁の使い方とか、ベテランの料理の先生から見ると、アナウンサーのやりかたがいいかげんに見えていやなんだろうなw
でも、本当は流儀にこだわるよりも、感じて創作しているかどうかが出来をきめると思うんだ。
それはいわゆる型にはまった伝統の料理ではないかもしれないけど、その人独自の思いもしないすばらしいものができる可能性がある。
そういうのがおもしろいと思うんだけど。
伝統もいいけれど。人は進化していく生き物でもある。
思考や「~なければならない」ばかりで創作してると、イマイチだ。

自由なやり方も、不器用なのも味かもしれない。へたうまなんて言葉もあるしな。
おばさんなんかはへたうま派だ。
こんなのは、へたうまブログさ。うまくもないかもしれないけど、それでよい。
もちろん伝統にのっとったやり方も、論理的文章も、もちろんよい。
いろいろで、自由でいい。

めんどくさいときや、やらなければならないと思ってるときは、本当はやりたくないわけだから、そのとおり手抜きしたり休んだほうがいい。(これが自分を愛している状態)
で、元気になって自然にやりたくなったときに、感じながら瞑想状態で(なるべく思考しないで)やるの。

なんか携帯の充電みたいだなと思う。休むことは充電に似ている。手抜きするのは省エネモード。全然充電しないと、枯渇しちゃうからね。
携帯もまたエネルギーの循環をしているわけだ、溜めて、使って、と。
充電きれたら、動かないにきまってる。
人間も同じだ。うつ状態は充電切れと同じだ。自分への愛が枯渇してしまった状態だ。

人間も愛を溜めて、発揮して。十分に溜めていないと放出できないの。
人間にとって充電は、自分の感情を感じてあげることなんだ。休んだり適度に手抜きすることなんだ。
そして、ムダな漏電を防ぐには、「~なくてもいい」「自分も相手もどんなでもOK」というモードでいることなんだ。

きつくても歯をくいしばって我慢してやり遂げるのが立派だと教わって、そう思い込んでるの。これは嘘。これだと枯渇しちゃう。
あいつらのプロパガンダ。教育なんかも。小さいときにどっかで教わってそのまんま生きてる人が多い。
「なければならない」ときつく生きていると、自分のやりたいこと、進む道もわかんなくなっちゃうの。当たり前さ。
心を抑えて感じることをブロックしているのだから。これだと何が好きか、才能があるか、気づかない。わからなくなるに決まってる。
自分探しとは、自分の感情を感じることを始めることだ

こんなことが自由への第一歩だ。
こういうことができる人が増えると、支配者も支配できなくなっていくの。
こういう人は、あいつらに忖度しなくなるからw
羊たちなんて言われてるけど、羊じゃなくなっちゃう。
「なければならない」から「なくてもいい」と気づいた瞬間、
荒野に生きる野生のライオンさ。
自然のままでだれもが王者なんだ。本当は。そうやって能力って発揮されるの。
するとあいつら、力あるものに守ってもらう必要性をだんだん感じなくなる。

で、これからはどんどんきつい世の中になることが予想されるので、この「~なくてもいい」、どんなでもいい、って感覚を高めないと、自分自身がきつくなると思うんだ。

自分をOKする感覚ね。どんなでもいいんだって。他人もまたどんなでもいいんだって。

ちょっと荒れそうだからさ。

他人がめちゃくちゃで、自分が被害をこうむりそうだったら離れるだけなの。
他人が死んじゃいそうだったり破滅しそうなら、一応いってあげるけど、それでも相手がそうすることを選択したら、もうムリなの。

でもこれはね、その人にとって必要だから起きてるかもしれないの。

ある知り合いは、私のブログを読んでくれてるんだけど、頭で知識で、あいつらのことを知ってはいるんだけど、実感があまりないのね。

で、ワクチンも最近2回打ったらしいんだけど、今のところ、なんともないらしいの。とりあえずよかった。
でも数年後、しばらくしてからなにかが起きる可能性はある。
一度打ったばかりに自然の免疫が減ってしまって、それを補うために何度もワクチンを追加で打って人工的に抗体を補充しなければなければならないとか、そんなふうになる可能性がないわけではない。
そんなリスクをとって打ったとしても、ワクチンが効かない、ベネフィットはウソであったと発覚する可能性だってある。
いきなり1945年8月15日みたいな日が来る可能性だってある。

案の定そうなったとき、相手をOKできるかどうか。
だから言ったではないか!と責めるか?
つらくてうちひしがれてしまうか?
それでもいいよと、そうしたかったんだね、って思えるか。
止められなかった自分を責めたり、あるいは相手を責めたり、後悔しないでいられるか。

それで、この知り合いを見てたら、映像が私の頭の中に見えて、大昔、ヨーロッパかどこかの国で権力者に使われて、その人が支配者として辣腕をふるっていた姿が浮かんで、これは私の妄想かもわからないんだけど、この人はそういう人生を何度か生きたことがあったのかもしれないと思った。

で今世でもそういう仕事をされているの。よく権力者とつきあって、つながって仕事されてるの。

べつにそれが悪いといいたいわけじゃなく、その方はそれがいいと思っているし、好きなわけだし問題なければいいんだけど。
で、大いなる力に守られてるのが安心だし、いいんだという思い込みがその人にはあるわけなんだけど、
もしかしたら、今回の人生で、そうじゃないんだってことを学びに来てる可能性があるなと思ったの。

だとすると、もしかしたらワクチンを打つことで、その結果を身をもって経験して、なにかを悟りたいって計画してる可能性があるなと思ったの。

体になにか問題が生じたとしても、その経験を通して、力あるものを妄信するとこうなるのだと納得したい可能性がある。無意識の視点から見ると。
そういう状態から卒業したくて、納得するためにそういう経験を自分で仕込んでいる可能性がある。本人はもちろん無意識だけど。

見てる方はつらくても、その人にとってはたとえそれで死んだとしても意味があるわけだ。
次の人生では支配者ではなく自分自身を信じるということを始めるのかもしれない。

わたしもそういうふうに愚かに死んだ経験があるから、こいつも今回そうなのかもなぁというふうに見ているの。

こんなふうに私たちは体を使って、経験して、納得したいっていう、根源的な願望があるみたい。

すると、いい・悪いって思ったり、決めたりすることに、意味があまりないのね。

深すぎて。魂的な計画や願望が。

情報を仕入れて、なにかを感じ取って、少しでも危機を回避したいという方もたくさんいらっしゃって、そういう方のお役に少しでも立ちたいから、私は自分の考えの発信はやめないけれど、こんなふうにじつに人それぞれなので、押し付けることでもけっしてないとも思ったの。

愛の視点からみると、この人の選択と結果をOKしてあげることだなとなんだか腑に落ちたの。
言い続けるけどね。相手の自由をおかさない程度に。








深いのね。人間って。誰もが。バカだとか、そういう単純なことではないのね。
そう思うと、あいつらに使われてる手下や工作員ですら、おばさんは憎みきれないところがあるのね。
とくにしたっぱのみなさんは。おばさんから見ると全員赤ちゃんみたいなもんだ。

あいつらの重鎮は、救いようがないかもしれんけど。

そういうわけで、相手をどんなでもいいよってOKする感覚を高めていかないと、相手の状態がつらくなってきた場合、自分もつらくなっちゃうかもなって思ったの。

それにはまず、自分自身をOKすることなの。どんなでもいいよと。「~なくてもいいよ」と。自分に対する態度と人に対する態度は同じだからさ!

「どんなでもいいんだ」って思い出してほしいんだ。自分も相手も。

その「どんなでもいいんだ」って感覚を高めるのに、ふだんからやりたくないときには手抜きする、やすむ、ってことを自分にゆるしていく。
こんな練習が役に立つってことなんだ。
ついでに争い仕掛けられてもスルーして勝っちゃうってことだ。

こんなことが、世の中がひどくなったり、相手がつらい、大変な状態になったとしても、それでもOKして、自分は自分を肯定して強くいることに繋がっているんだ。






あいつらに関しましては、「あいつら(裏側から見る社会のシステム)」のブログ記事一覧-丸顔おばさんのブログ、古い順をクリックのうえ、初期の記事よりご覧ください。



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