銀杏の巨樹を訪ねて

銀杏の巨樹とその近辺の様子や興味のある事柄などを綴っていこうと思います。

震災、原発事故被害施設支援 職員派遣の思い出

2021-03-12 09:52:11 | 福祉

3月11日、10年目の3.11。

 2013年の3月から「福島県の特養(特別養護老人ホーム)への介護職員派遣」について協議を始めた。全国老人福祉施設協議会から各県の協議会あてに介護職員派遣についての照会(依頼?)があったようで、すでに派遣している県(施設)もあり、3か月単位で各県の協議会会員施設から希望を募り実施とのこと。7月、8月、9月に職員派遣を希望する施設を県内から募るという。4月から6月までの3か月は山口県からの派遣が決まっていたと記憶している。

 介護を要する高齢者が生活しているが、勤務していた職員が退職したり、避難先から返って来ることが困難であるため事業継続に支障が出ていた施設が複数あった。

 そういう施設の一つとして福島県広野町の特別養護老人ホームはなぶさ苑への介護職員派遣ということで協議を重ねた。老施協の希望としては職員1人当たり最低でも2週間の勤務が条件だったと記憶する。3人から6人程度の希望者が必要だ。

 それ以前に、現地の除染は進んでいるとの報道は耳にしていたが果たして2週間から1ヶ月の間、いわき市(いわき市内にアパートと通勤用の車が用意されている)から広野の施設への通勤と介護をさせてよいものだろうか?

 当時ネットから広野町の広報誌や福島県の地方紙、テレビ局などの情報を集めて、避難解除にはなったが避難先から返って来る住民が極めて少ないことや、まったく専門外の放射線量、被爆等についての勉強会を行った。

 避難解除になってもなお、住民が返ってこないというのは? 避難解除と言っても除染作業が終わったのは幹線(生活)道路や住宅地。地元の人はまだ安全を実感できないのか?本当に安全なのだろうか?不安が・・・。

 仮に応援に行きたいとの希望者があり送り出すにしても、現地のことを知らずして職員だけを派遣するのはいかがなものか、との考えがあり現地での情報収集のため福島へ行くことになった。

 2013年4月8日、1泊2日の予定で法人の特養管理者2名が松山空港から羽田経由で福島県広野町への途についた。

 羽田空港で「悪天候のため福島空港へのフライトは・・・・。」のアナウンス。

 結局、福島空港への乗り継ぎ客は羽田で降りるか仙台空港への変更の選択を余儀なくされた。我々は羽田で降りて浜松町経由、東北新幹線にて郡山までのルートを選択した。

 福島空港で予約済みのレンタカーはJR浜松町駅から電話して、新幹線の郡山駅近くのレンタカー会社営業所に変更してもらい福島県内の足を確保。予定より大幅に遅れて広野町のはなぶさ苑に到着した。

 はなぶさ苑では勤務時間がとっくに過ぎた事務員さんが我々を迎えてくれた。新設オープン1年余りで原発の事故のため一時閉鎖していた全室個室ユニット型特養で1ユニット10名×4ユニット 定員40名。入所者数や職員配置の関係で2ユニットのみ稼働している状態であった。施設内を一通り見せてもらいながらそれとなく入所者の様子も見せてもらった。

 原発事故直後、施設閉鎖のため一時的に退職した介護職員の再雇用や新規介護職の採用がままならない状況について話を伺った。その中で、近隣のいわき市などで避難生活をしている人は、新居住地で3年目となり新たな職に就き、子どもも新しい学校に慣れてきているとか、大型店舗など商業施設の充実した都市での生活に慣れてきた。それと、その頃はまだ町内で営業している商店が少ないため日常的な買い物も大変だ、との話も伺えた。町に人が返っていないから商店も再開しずらい。

 除染が進んだとはいえ子どものいる家庭ではまだ警戒して帰っていない人もいるとの話もあったが、いわき市とこの施設間のみを車で往復して2週間から4週間の勤務なら被ばく線量的にも健康への影響は考え難く、お手伝いできるのではとの考えをもった。

 その後、6月28日から9月30日まで5名の職員が順にはなぶさ苑での介護協力につき無事にその職責を果たした。

 この経験から事業継続計画を策定し同様な事故があった場合の避難先施設は決めている。あってはならない事故に備えて。

 

 

 

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