北岳山麓合唱団

ソウルジャパンクラブ(SJC)の男声合唱団です。毎週火曜日、東部二村洞で韓国の歌と日本の歌を練習しています。

ニワトリクッパの名店

2013年06月29日 11時20分25秒 | ソウルライフ

先日、ブデチゲの語源についてお話しましが、韓国人の間でも諸説があって、これだ!という定説がないものもたくさんあります。

例えば、ソルロンタン(설렁탕)。有力なのは、朝鮮時代に王様が豊作を祈願して先農檀(韓国語の発音では、ソンノンダン)という場所で、祭祀を執り行い、行事の後でお召しになった食べ物だったという説。ただし、朝鮮時代に書かれた書物には、それに類する記述がないとのことです。

定説がない料理に共通するのは、庶民の食べ物だったというところ。要は、いろんな時代に、いろんな地方で、いろんな人が作ったので、これだ!という定説が存在しないのです。ソウルの街を歩いていると、「元祖〇〇」という食堂がやたら目につきますが、本来、元祖は一つであるはず。でも、庶民の食べ物なら、祖父母から受け継いできたという意味で、嘘ではないと思います。

その点、高級料理は、そのほとんどが王宮料理に源を探ることができますから、起源の特定が可能です。

ソルロンタンに似た食べ物として、コムタン(곰탕)があります。両者の違いは韓国人にとっても、難しい質問ですが、コムタンは両班(ヤンバン)の料理とのこと。骨だけを何時間も煮込んで、コッテリしたダシを取ります。一方、ソルロンタンでは、(骨ではなく)肉だけを茹でてダシをとるのが本当のようですが、グルメブームの昨今、大釜で肉や骨を何時間も煮込んでスープを取っているお店もあります。

難しい話はこれぐらいにして、今日は、ニワトリのクッパ、韓国語でタクコムタン(닭곰탕)の名店。ファンピョンチプ(황평집)を紹介したいと思います。

どうですか?おいしそうでしょう!鶏ガラのスープで、アッサリ淡白という感じですが、なかなか奥深い、コクのある味です。この料理と切っても切れないのがニンニクの薬味。これをドバッと入れて、かき混ぜます。(あっ、そういえば、明日、歯医者さんでした!)

ニラの薬味も絶品です。

薬味です。右側の小皿に盛られた、お塩が非常に美味で、お酒のつまみによく合います。

お世辞にも、こぎれいとは言えない庶民のお店ですが、韓国のマスコミでもよく紹介されるお店です。

日本語では、コネストで紹介されています。

http://www.konest.com/contents/gourmet_mise_detail.html?id=4051

タクハンマリにはもう飽きた。もっと奥深い味を賞味したいという方。お酒に合う、いいおつまみが欲しいという方。ぜひ、お試し下さい。

位置は乙支路のPJホテル(旧プンジョン(豊田)ホテル)の右斜め前ですが、非常に分かりにくいです。(この写真の中央にお店がありますが、どこにお店が隠れているか?分かりますか?)

 

 

 

 


梨泰院のパン屋さん

2013年06月29日 01時05分12秒 | ソウルライフ

日本がバブル景気で華やかしき頃、新宿伊勢丹のデパ地下のパン屋で、あまりの商品の豊かさに驚いた記憶があります。

ここで紹介するのは、梨泰院のあるパン屋。閉店まぎわで、商品はほぼ売り尽くされた状態でしたが、あの日、伊勢丹で見た光景が頭をよぎりました。

ソウルは今、空前のパン屋さんブーム。パン好きにとっては天国です。


韓流スターの過去が気になりますか?

2013年06月27日 23時26分25秒 | ソウルライフ

韓国に住んでいると、ときどき、意味不明の広告に出会います。

これは、事務所近くのサンバンウルという大手下着メーカーの直営店で見つけたもの。

韓流スターの過去が気になりますか?

若かりし頃、下着モデルとして活躍した韓流スター

「あの韓流スターも当社の下着の愛用者です。」というならともかく、いったい、何の意味でしょう?

サンバンウル(쌍방울)は韓国を代表する下着メーカーで、かってはサンバンウル・レイダーズというプロ野球球団まで持っていました。

ちなみに韓国語の部分には、

有名韓流スターたちの過去が気になりますか?

みずみずしい子供時代、下着モデルとして

活躍していた韓流スター

とあります。

 

分からない...。今をときめく、あの韓流スターも、子供の頃はサンバンウルの下着モデルだった、と言いたいのかな...。


ジョンソン鍋の秘密

2013年06月25日 23時05分45秒 | ソウルライフ

6月25日はパン先生の練習日でしたが、パン先生のご急用で突如、練習中止となりました。パン先生は7月に補講をされる考えもあるようなので、またスケジュールを調整してみます。

ところで、6月25日は何の日か?ご存知ですか?1950年6月25日は朝鮮戦争が勃発した日です。かってはテレビで特集番組が組まれたりしましたが、開戦から63年が過ぎ、人々の記憶も薄れていっているようです。一方、過去のブログを振り返ると、1年前の6月26日は瀧中さん最後の練習日。もう一年が過ぎたのですね。あたふたと帰国された瀧中さんも新しい世界で活躍されているようで何より。瀧中さん、たまにはブログを見てくれているかな?

 

今回は練習中止ということで、合唱団のメンバーにはおなじみのブデチゲについて書きたいと思います。漢字で書くと、部隊チゲ。日本の方向けに和訳すると、「ソーセージ、ハム入り、キムチ鍋」ということになるでしょうか?

 

ブデチゲの由来は「諸説があり、朝鮮戦争中やそれ以降の混乱期に在韓米軍部隊からの残飯や援助物資・放出物資に唐辛子を混ぜて作られたとも、米軍と補給を融通しあっていた韓国軍部隊の若い兵士が共同生活をする中で広まったともいわれる。」(Wikipedia)とのこと。実際、由来については、韓国人の間でも諸説があるらしく、韓国語で「ブデチゲ 由来」で検索すると、ブデチゲの起源にまつわる朝鮮戦争当時のいろんな逸話が出てきます。

 

写真は、梨泰院の人気食堂、「パダ食堂」の看板メニュー、ジョンソン鍋(존슨탕)です。すごくおいしくて、「これぞ、ブデチゲの元祖!」と呼ばれる方も多いのですが、写真をよーく見てください。あれっ!キムチがはいってない!代わりに、キャベツとチーズ。ジャガイモも見えますね。

ご案内した日本の方は、「こんなブデチゲは初めて!ポトフみたい。」と言われます。チーズ入りなら、私も方々で経験していますが、キムチがはいっていないチゲ鍋を「ブデチゲの祖先」と呼ぶのは、無理があると思います。

 

ネットでジョンソン鍋の由来を調べていると、「アメリカのジョンソン大統領が韓国を訪問した際、将兵がよく通う部隊前の食堂に立ち寄り、その食堂のおばさんが部隊のハム、ソーセージにコチュジャンをまぜて作ったら、ジョンソン大統領が大喜びした。それでジョンソン鍋と呼ばれるようになった。」という逸話があちこちに転がっています。確かにジョンソン大統領は1966年に韓国を訪問していますが、一国の大統領が訪問先で、コチュジャン鍋を食べますかねえ....?

 

ジョンソン鍋の本当の由来については、私も疑問でした。パダ食堂の主人に直接、聞けば良いのですが、おばさんはいつも大忙し。ところが、ネットでおばさんのインタビュー動画を見つけました。それによると、ジョンソン鍋には、意外ないきさつが....。

 

「親戚のおばが、ドイツでしばらく住んで、韓国に戻りました。ドイツでいる時に、韓国料理でおもてなししようとしたのですが、キムチや材料を購入するのも難しく、(ドイツには)ソーセージがたくさんあったので、それとコチュジャンを入れて韓国式に煮込んだところ、ドイツ人がすごく喜んで....。」一方、1966年にジョンソン大統領の韓国訪問があり、大統領の名前をとって、ジョンソン鍋と名づけたとのこと。

 

当のパダ食堂の主人が言うのですから、議論の余地がありません。ジョンソン鍋の真の由来は、なんとドイツだったのです....。

映像記録ソウル,時を抱いて 第12回 ジョンソン鍋をご存知ですか?

 

日本には多国籍料理という料理がありますが、韓国語では、「フュージョン料理」(퓨전 요리)と言います。考えてみれば、部隊チゲやジョンソン鍋は、韓国における多国籍料理のさきがけかも知れません。

 

ジョンソン鍋とならぶ、パダ食堂の代表メニュー、牛肉ソーセージ。

ネットで拾わせて頂いたのですが、パダ食堂のもうひとつの人気メニュー、豚肉のバーべキュー。見るからにおいしそうですね。山本さん、次回はこれにトライしてみますか?友人の話によれば、Tボーンスティックも美味しいそうです。

 

 

参考資料

ブデチゲの由来について、ファン ギョイク(황교익)氏という、「味コラムニスト」の方が詳述されています。特に関心を持たれる方のために、長文ではありますが、私が訳出した訳文を転記しておきます。

出典:

http://navercast.naver.com/contents.nhn?rid=43&contents_id=7345

 

戦争が作った食べ物

議政府部隊チゲ

部隊チゲは‘米軍部隊から出た肉を炊いた鍋’という意味だ。朝鮮半島に米軍の軍人が駐屯するようになったのは1945年の解放と一緒だった。本格的な大規模駐屯は朝鮮戦争の勃発以後だ。部隊チゲは激動のその歳月に作られた食べ物だ。

 

朝鮮戦争を一部の歴史学者は、統一戦争と表現する。その定義通りなら、朝鮮戦争は、失敗した統一戦争だ。その戦争で、朝鮮半島の住民が得たものは何もなかった。男は銃剣に命を落とし、女と子供達は飢えた。廃墟になった山河には、南北を隔てる休戦ラインだけが残った。結果的に見れば、分断を固定化する戦争だった。朝鮮半島の南側には、アメリカの軍人が駐屯した。米軍は、食料をアメリカから空輸して食べ、その食べ物の一部が軍隊外に流れた。アメリカ人の食材だったが、韓国人はこれをアメリカ人のようには食べなかった。朝鮮半島の住民の、長年の伝統的な食事スタイルである‘鍋物'にこれを入れた。そして名前を部隊チゲとした。

 

ブタ粥はとは違う

部隊チゲは、米軍部隊から出た生ごみで茹でたブタ粥(訳注:原文は꿀꿀이죽. 直訳するとブーブー粥)から、始まったとよく言われる。部隊チゲに類似した時期に作られた食べ物で、同じ鍋物スタイルの食べ物だから、そのように考えるのだろう。しかしこの二つは、別の食べ物だ。この誤解は、ブタ粥はその名称だけが残り、実物が無くなってから、発生したように見える。1964年の京郷新聞に、ブタ粥に対する記事が載っている。記事の題目は‘飢えの群像'で、ドラム缶にはいった、ブタ粥を買っていく人々の写真も出ている。記者はこう書いた。「食べることは、罪にはなりえない。食べることが罪なら、生きることは天罰だからだ。しかし、豚のえさで人が生き永らえるなら、食欲の本能をののしる前に、生きることを呪うのが筋だとでも言うのか?」 続けて記者は言う。「吸殻、紙くず(何に使ったかも分からない) 等々、ありとあらゆる物がぐちゃぐちゃに混ざって、形容しがたい、鼻をつく悪臭が漂う、この汁にすがるしかない、人々の列!彼らは、豚との混血ではない。私たちと同じ血が流れている、貧しき隣人であるだけだ。」 名称だけがブタ粥なのではなく、実際、豚のえさを人が食べたのだ。ブタ粥の材料になった生ごみは、いろんな場所から出ただろうが、米軍の部隊から出たものもあったはずだ。当時は、米軍を国連(UN)軍と呼び、このブタ粥はUNブタ粥と呼ばれた。はっきりしているのは、ブタ粥は部隊チゲとは、かなり違う食べ物だということだ。1960年代末、経済事情が少しずつ良くなると、米軍部隊の生ごみから、食べられるものだけを選んでスープを炊き、これをUN鍋と言った。南大門市場の露店に、この鍋を売る店が列をなしていた。しかしこれもまた、今の部隊チゲとは違っていたはずだ。器(うつわ)や鍋に 1人前ずつ、盛り売りしたが、青菜みたいな野菜に、肉やハム、ソーセージの切れ端を入れて沸かした鍋に、冷えたご飯を一杯、もしくは、麺を出す食べ物だったろう。いずれにせよ、この食べ物は、 1970年代になって消えていった。

キムチチゲの一種だ

部隊チゲの料理法を見れば、誰かの創作料理ではない。キムチチゲにソーセージやハムを加えただけだ。キムチを入れない部隊チゲもたまにあるが、ほとんどの部隊チゲは、キムチと一緒に炊くので、いろんな種類のキムチチゲ、すなわち豚肉のキムチチゲ、サンマのキムチチゲ、ツナのキムチチゲ、イワシのキムチチゲ、サバのキムチチゲと同じ系統にある食べ物だと言える。したがって部隊チゲは、ソーセージとハムを比較的簡単に入手できる地域で食べられ始めた食べ物だったと推測できる。朝鮮戦争の後、米軍はソウル、釜山、仁川、原州、春川、東豆川、鳥山、坡州、平沢、城南、水原、議政府、鎭海等、朝鮮半島の方々に駐屯した。それぞれの米軍駐屯地で、ソーセージとハムが流出したはずで、部隊チゲ、すなわちソーセージハムのキムチチゲは朝鮮半島の方々で、炊かれ、食べられただろう。

 部隊チゲは、少なくとも韓国人の口には合っている。古漬けキムチのさっぱりした酸っぱさとピリ辛の味に、ハム・ソーセージの甘みと塩味が加わって、味気ないご飯と一緒に食べやすい食べ物だ。しかし、当時は、部隊チゲが大きく広がることはなかった。米軍部隊から密かに流出するハムとソーセージの量に限界があったからだ。当時、韓国産のハムとソーセージは、今では考えられないほど、畜産業の基盤が弱かった。1967年、きれいな薄紅色のソーセージが販売されたが、外見と匂いだけがソーセージ風で、その実は魚肉と澱粉が大部分だった。この薄紅色のソーセージでチゲを炊くと、崩れてしまう。1980年代中盤、豚肉がたっぷりはいった、米軍部隊の物のようなハム、ソーセージが韓国の会社でも生産された。このハムとソーセージは、チゲを炊くことができた。1990年代に入り、部隊チゲは外食マーケットで‘ブレイク’した。その時は既に、朝鮮戦争は遠い昔の事件のように感じられ、 'ブタ粥に由来した.'というストーリから、苦痛の歳月を深刻に思い浮かべる人はいなかった。

もはや部隊チゲではない

京畿道議政府は、朝鮮戦争の後、‘米軍の都市'となった。ソウルの北、すぐ真上にあるのに、北は東豆川、抱川、連川、鉄原につながる防御線の重要地点だからだ。左側では坡州を越えて、漢江、臨津江と続いている。米軍は議政府に大規模な基地を置いたが、とりわけ、前方に位置する米軍部隊への補給基地として運営した。補給線路を引いて、倉庫を建てた。したがって、ほかの地域より、流出する米軍物資が豊かだった。この米軍物資を引き受けて消化する市場として、議政府の第一市場が、大きな役割を果たした。第一市場は、朝鮮戦争の後で形成されたが、ある時は、米軍部隊のあらゆる物資を販売する場所として有名だった。「議政府は米軍部隊と第一市場で食っている。」という言葉が広がるほどだった。

第一市場で販売される米軍部隊の物資の中に、ハムとソーセージは当然、あったはずで、市場の食堂で、これを買って食べ物を作り、販売したはずだ。炒めたり、炊いたり、また、煮込んだりもしただろう。第一市場商店街の地下には、昔からの食堂がいくつかあって、長い献立に書かれた料理のほかにも、客が希望すれば、何でも料理してくれる。食堂のお婆さんたちはソーセージ、ハム、‘ミンチ' (刻み肉の日本語。Minceに由来。) 等を部隊肉と呼ぶ。鍋にしても部隊肉、炒めても部隊肉と言う。この市場から 700mほど離れた場所に30数軒の部隊チゲ専門店が集まっている路地がある。1960年代から部隊チゲの食堂があり、1990年代に'都市'が形成された。第一市場の部隊肉が広がり、今日に至ったわけだ。議政府の米軍部隊は、2016年までにほかの場所に移転することになる。2012年現在、 8箇所の基地の中で、5箇所が場所を移した。第一市場には、もはや米軍部隊から密かに持ち出される品物はない。ソーセージ、ハム等も、正式に輸入されたのが販売される。議政府の部隊チゲも、その材料がアメリカのものだとしても、輸入された商品で作られる。部隊チゲは、もはや'米軍部隊から出てきた肉で作ったチゲ'ではないのだ。それでも、部隊チゲを食べる時はいつも、朝鮮戦争と米軍、そして貧しかったことを話すことになるだろう。


オペラ「トスカ」(プッチーニ)観劇

2013年06月23日 11時20分00秒 | ソウルライフ

6月22日(土)、芸術の殿堂で、プッチーニのオペラ「トスカ」を観劇してきました。

ストーリーは、イタリア版「悪代官もの」。ヒロインである歌手トスカとその恋人(画家カヴァラドッシ)。そして、トスカに激しい横恋慕の情を抱く、「悪代官」こと警視総監スカルピアが織り成す、悲しい恋の物語です。

 

悪役である、警視総監スカルピアは、このオペラの出来を左右する重要な役どころ。コ ソンヒョン(Seng Hyoun Ko)という海外でも活躍されている有名なバリトン歌手が担当されましたが、なかなかの聞きものでした。

2011年、南仏で開催されたオランジェ音楽祭(Chorégies d'Orange)での映像。ビゼー「カルメン」から「闘牛士の歌(Air du toreador)

 

ヒロインのトスカはイタリア生まれのソプラノ、Chiara Taigiさん。恋人のカヴァラドッシはロシア生まれのテナー、Yusif Eyvazov氏が演じていましたが、西洋生まれのお二人に一歩も引かぬ、見事な名唱だったと思います。

 

トスカでの聞き物といえば、やはり「歌に生き、愛に生き」と「星はきらめき」。オペラに興味がない人も、メロディーを聞けば、「なんだ。この歌だったか!」と思われるのでは?

 

「歌に生き、愛に生き」ですが、現在、世界最高人気と思われるアンジェラ ゲオルギューの歌唱と、往年の名歌手マリア カラスによる迫真の名演を紹介します。

アンジェラ ゲオルギュー

マリア カラス

 

如何ですか?アンジェラ ゲオルギューも充分に素晴らしいのですが、マリア カラスはもはや「トスカなりきり」という感じで、まさに「別格」。演技がどうだ、声質がどうだといった議論が空しくなります。黄泉(よみ)の国で、プッチーニ先生もさぞかしご満悦では。

 

「星はきらめき」は、当日のYusif Eyvazov氏による歌唱もなかなかの名唱。私も感極まって、「ブラヴォー!」と叫んでしまいました。

 

ここではルチアーノ パバロッティによる1991年の映像と、ホセ カルロスによる1980年の映像を紹介しておきます。

ルチアーノ パバロッティ

ホセ カルロス

 

 今回、ご一緒させて頂いた皆様です。山崎さん、山本さん、佐々木さん、斎藤さん。楽しい時間をご一緒させていただき、どうもありがとうございました。お食事の味も最高でした。