北岳山麓合唱団

ソウルジャパンクラブ(SJC)の男声合唱団です。毎週火曜日、東部二村洞で韓国の歌と日本の歌を練習しています。

景福宮打令(その5)

2015年10月25日 21時03分22秒 | 合唱

5回にわたった景福宮打令シリーズも今回が最後です。今日は全体の歌詞を見てみます。

漢語については漢字に直しましたが、漢字だけを見ても、なんとなく意味が分かるかもしれませんね。一応、私なりの大胆な意訳をつけてみたので、御参考下さい。

ほかの民謡同様、景福宮打令にも多くのバージョンがあり、それぞれ歌詞や順番が少しつづ違います。あと、我々が歌っているのは、全体の一部の部分。全体を歌うと10分ぐらいかかるかも.....

私が調べた中で最も長いものは25番(!)まで歌詞がありましたが、ここでは10番までということで。

 

1. 남문(南門)을 열고 파루(罷漏)를 치니 계명산천(鷄鳴山川)이 밝아 온다

南大門を開いて、時の鐘をつけば、にわとりが鳴いて山河が明るくなってくる。

2. 을축 사월 갑자일(乙丑四月甲子日)에 경복궁(景福宮) 이룩일세

1865年4月吉日に景福宮が建てられる。

3. 도편수[都遍手]의 거동(挙動)을 봐라 먹통을 들고서 갈팡질팡 한다

棟梁の様子を見よ。墨つぼ片手に大忙しだ。

4. 단산봉황(丹山鳳凰)이 죽실(竹實)을 물고 벽오동(碧梧桐)속으로 넘나든다

丹山の鳳凰が竹の実を加え、青桐の中に飛んでいく。(注:鳳凰は滅多なことでは実らない竹の実のみを食べ、アオギリの木にしかとまらないとされる。)

5. 남산(南山)하고 십이봉(十二峯)에 오작(烏鵲) 한 쌍이 훨훨 날아든다

南山十二峯にカラスとカササギのつがいがひらひら飛んでいく

6. 왜철죽 진달화 노간죽하니 맨드라미 봉선화 (鳳仙花)가 영산홍(映山紅)이로다

やまつつじ、つつじがねず()というなら、ケイトウ、ホウセンカはサツキだ。

7. 우광쿵쾅 소리가 웬 소리냐 경복궁(景福宮) 짓는데 회(灰)방아 찧는 소리다

ズドンズドンという音は何の音だ。景福宮を建てるために杵をつく音だ。

8. 조선 여덟도[朝鮮八道] 유명(有名)한 돌은 경복궁(景福宮) 짓는데 주춧돌 감이로다

朝鮮八道の有名な石は景福宮を建てるための土台の石になるとやら

9. 우리나라 좋은 나무는 경복궁(景福宮) 중건(重健)에 다 들어간다

朝鮮の良い木は景福宮の建てるためにつぎ込まれ

10. 근정전(勤政殿)을 드높게 짓고 만조백관(滿朝百官)이 조화(朝賀)를 드리네

勤政殿を高々と建てて、朝廷の百官が朝拝をする。

 

如何ですか?詩の内容については、また専門家の人の意見もお伺いしたいのですが、私が調べた範囲では、(音楽的なメロディーの解釈はともかく)、歌詞の詳しい意味について詳述した資料は見つかりませんでした。

歌全体の解釈としては、その4で紹介した大院君の野望を達成するために動員させられた民衆の恨みや大院君に対する皮肉が根底にあるという説と、景福宮再建にあたった人々を励ますための歌であるという2つの説が対立しており、どちらの説もそれぞれ説得力があります。

 

我々にとってはすっかりなじみ深い曲となった景福宮打令です。メロディーの解釈は音楽監督のパン先生にお任せするとして、歌詞の意味やその解釈について深く考える機会がなかったので、日本人向けのガイドブック等で取り上げられることの少ない話題や曲の背景等を含めて、私の理解するところを5回に分けて整理してみました。

合唱団の皆様の何等かの参考になれば幸いです。

 

 

 

 

 

 

 


景福宮打令(その4)

2015年10月24日 19時24分30秒 | 合唱

1.명브宮の成り立ち

ソウルにお住まいの方には当たり前のことですが、景福宮は朝鮮王朝の王宮です。通常、王様は王宮を出られることは無く、王宮の中で暮らし公務に当たられました。王宮はまた、王のもとで働く上級公務員の職場でもありました。

景福宮が建立された1395年。日本は室町幕府第3代将軍、足利義満の時代。2年後に金閣寺として知られる鹿苑寺が造営されています。「景福」とは、詩経に出てくる事は王とその子孫、すべての百姓が、太平の御代の大いなる幸福に恵まれることを祈願する、といった意味があるそうです。

建立されてから197年後の1592年、景福宮は文禄の役により焼失し、その後、273年の長きにわたって放置され、再建工事が始まったのが1865年。工事の終了が7年後の1872年(明治5年)ですから、江戸時代はまるまる使われておらず、実際は王宮として使われていた期間より、放置されていた期間の方が長かったことになります。

2.景福宮焼失の経緯

文禄・慶長の役に関する韓国側の資料(韓国語Wikipedia, 임진왜란)で文禄の役に伴う焼失の経緯を調べると、朝鮮王朝の公式記録である「朝鮮王朝実録」を引用する形でこう記述されています。

王が漢陽(ソウルのこと)を出た時、憤怒した百姓が宮殿を燃やしてしまい、は自分たちの身分を知っている掌隷院(を扱う官庁)と刑曹(今でいう法務省と裁判所)を燃やしてしまった。(왕이 한양을 나왔을 때 분노한 백성이 궁궐을 태워 버리고 노비는 자신의 문적을 알고 있는 장례원과 형조를 불태웠다.)

もちろん私は、実際に王宮に火をつけたのは日本人ではないということを記しておくために、わざわざ韓国側の資料を引用したのですが、そもそも文禄の役が無ければ、こんなことも無かったわけで、そのへんは考慮する必要あります。


3.韓国駐在、いまむかし

話はそれますが、同じ資料にソウル陥落時の興味深い話が記載されているので、ここで紹介しておきます。

当時の日本では城が陷落すれば、城主は切腹し、城に住む住民は降伏してその地域が平定されることが戦争の基本方式だったが、朝鮮は王が都を捨てて逃げ、各地では百姓が抵抗した。高麗時代の燎宗、高宗、恭愍王もこのようなやり方で不利な状況を打開したので、朝鮮の百姓はあまり衝撃受けなかったが、日本軍の立場では非常に対応に苦慮させられるものだったし、百姓が征服者に対抗する実情にも衝撃を受けた。日本で百姓とは、単に居住地を移転する自由の無い、領地に付属する農奴や戦利品として性格が強かったからだ。日本はこのような(日本と朝鮮との)違いを知らないまま、征服した朝鮮で補給と俸禄といった費用を充てがう予定だったので、日本軍の基本計画に大きい蹉跌を来たした。

話の前提として、日本と朝鮮の「お城」の違いを説明しておくと、朝鮮のお城は町全体を縮小版の万里の長城で取り囲むような城郭都市であったということです。例えば、かって漢陽(한양、ハニャン)と呼ばれたソウルは漢陽都城と呼ばれ、面積は468万m²。ちなみに皇居の面積は約115万m²ですから、皇居の約4倍の広さがあったことになります。城郭都市とはいえ、現代の東京の山手線と同じで、一般の百姓さんまでが城内に住居を構えることは難しかったと思いますが、日本のお城よりは、はるかに広範囲の人々がお城の中で生活していたことは間違いありません。

日本史の本を読んでいると、戦国時代の城攻めで「自分の命の引換に城兵の命は助けてほしい」といった逸話にしばしば出会います。日本人の心にぐっとくるところですね。

実際、当の秀吉が兵糧攻めを得意としたようですが、朝鮮の場合は籠城どころか、その殿様が真っ先に逃げてしまうのです。エエッ!ホントかよ!という感じ。想定外の出来事で、メールもデジカメもなかった当時、この地で戦っていた日本人は上司である日本の秀吉にどう報告すればよいのか?説明に困ったと思いますねえ.......日本の約束では、「山」といえば「川」!いくらなんでも、「海」と答えるわけにはいかないでしょう。

逃げた王様は後から追いかければよいわけですが、百姓の抵抗はもっと想定外です。日本的な考えでいくと、殿様の家来である家臣の方々はともかく、一般庶民にとっては「今度の殿サマは....」という感覚。一方、統治者の立場では、百姓はその領地とワンセットになった存在。その領地を治めるようになれば、領地とその領内で働く百姓たちが自動的に自分の物になる思いきや、その百姓から抵抗を受けたのです。

王様にはさっさと逃げられる一方で、百姓さんからは激しい抵抗を受ける。ハナシが違う....違いすぎ!有り得んやんか!

もっとも、攻められた朝鮮王朝の人からすると、勝手に攻めて来て、大義名分はなんやねん?分からんやないか?と言われるかも。そう韓国では大義名分(대의명분)は大切なのです。

いずれにせよ日本国内とのあまりの勝手の違いに、当時の日本人は「ワケが分からない!」状況だったと思います。まあ、今でも似たようなモンですけど...


4.景福宮の再建と景福宮打令の誕生

1865年。当時の朝鮮国王、高宗(고종,コジョン)の父親である大院君(대원군, デーウォングン)は、王室の威厳を取り戻すとして、300年近く放置されていた景福宮の再建計画を打ち上げたものの、賛否両論の勢力が伯仲。最終的に大院君ご本人が総責任者を引き受ける形で再建事業が始まります。

当初は再建事業に対するそれなりの支持もあったようで、大院君も現場の労苦をねぎらうために、慰労金を支給したり、今でいうレクリエーションイベントを開催したり.....、おそらくそんな中で、この景福宮打令も自然発生的に生まれてきたのでしょう。

ところが、約1年後に大火災が発生し、数多くの貴重な木材を消失してからは状況が一変。現場の責任者は、もうこれ以上、木材を集めることができないと、工事の中断と引き換えに極刑に処せられることを望んだとのことですが、大院君の決意は揺るぎませんでした。

 

韓国語の資料には、次のような大院君の言葉が伝えられています。

これまで伐採したは国有林から持って来たものだ。これからは山の地主や廟の主の許諾の有無にかかわらず、私有林で伐木するようにせよ!

要は、有無を言わさず木材をかき集めてこい!というわけですね。

 

詳述はしませんが、韓国の歴史の中で、大院君ほど評価の定まらない人物はいないと思います。

景福宮再建計画が発表された1865年。日本は慶應元年となり、明治の夜明けを3年後に控えて激動の時代を迎えます。幕末から明治維新の数々の出来事についてはここで詳述する必要もないと思いますが、両国のその後の歴史はご存じのとおりです。

 

 


景福宮打令(その3)

2015年10月20日 22時01分25秒 | 合唱

さて、次の歌詞に移りましょう。

- - - 에헤 - 에이야- 얼럴럴 거리고 방아로다.

--- エヘ-イヤ- オ コリゴ パンア-ロ-ダ

景福宮打令(タリョン)で繰り返し現われる歌詞で、この曲の印象を決定づける重要なフレーズです。上記では敢えて日本語の訳詞を書かず、現地語発音で書きましたが、この歌詞の意味するころを見てみましょう。

まず、얼얼얼 거리다ですが、どうしても意味が分かりません。回りの韓国人に尋ねましたが、知らない、分らない。「景福宮打令って何ですか?」と答えた人もたくさんいました。万策尽きたので、ここはパン先生にお願いして調べてもらうことにしました。

結論としては、2つの意味があり、まず一つは、ワイワイ、ガヤガヤといった、大勢の人が集まって賑わっていることを表す擬態語であるとのこと。もう一つは、イヨッ!、ソレ!といった、曲の合間で雰囲気を盛り上げる合いの手(추임새)であるとのこと。

日本語で表現すると、ソレソレソレソレ!といったところでしょうか?

次に방아로다ですが、国語辞典で방아(パンア)を引くと(··)」とあります。ほとんどの韓国人が방아ときいて想像するのは次の3つ。いずれも、蒸気機関が無かった当時においては、生産力を象徴するものですで、全国各地に방아(パンア)に関する民謡(パンア打令、パンアタリョン)が残っています。

まずは水車。一般的には물래(ムレ)です。民謡や歌曲の題材によく使われますが、私はまだ一度も見たことがありません。

次に碾き臼。こちらも実物を見た経験はありません。

3つめが踏み臼です。こちらは民族村等で見ることができます。

さて、ここで言う방아(パンア)が何であるかを示すカギは、後の女声部の歌詞にあります。

덜커덩 소리가 웬 소리냐 경복궁 짓느라고 회(灰)방아 치는 소리냐

ドスンドスンの音は何の音だ?景福宮を建てようと灰방아(パンア)をつく音か?

ここで、灰방아(パンア)という言葉が出てきます。灰방아(パンア)とは石灰、黄土、そして砂を混ぜ合わせ、臼でついてこね合わせること。早い話が、今でいうセメントを作ることです。

つまり、ここでいう방아(パンア)は水車ではなく、杵(きね)で韓国式の漆喰(しっくい)をこねること。

古建築に関する資料がないので確証は無いのですが、あれだけの建造物を作るのですから、我々が想像する餅つき用の杵といったヤワなものではなく、数人で使用する下記のような道具で作業を行なったと推測します。(ちなみに下記は、地面を押し固めるための胴突きという道具です。)

あるいはこんな感じ。

参考までに下記は百済時代の築城法ですが、基礎工事については景福宮の時代も大きな差はなかったと思います。

①木で四角形の枠組みを作り、その枠の中に土を盛ります。

②その枠に土を入れ、上記の「胴突き」で押し固めていきます。やがて、土が乾燥すると、あたかも煉瓦のような強固な構造になります。

何となくイメージがわいてきました。あともう一つ、有力な解釈は방아(パンア)といった特定の道具や仕事を指し示すのではなく、下記のような騒々しい景福宮建築現場の光景全体を表すと解釈するものです。

韓国の民謡で、穀物をつく杵は生産性や生命力を象徴する題材として、よく登場します

実際の景福宮再建では、直接的に建設に従事する人以外にも、その人たちの食事を準備したりする人もいたはずで、さぞかし騒々しいものだったでしょう。私も建設に関連した業務に従事していますが、建設現場の雰囲気そのものは時代を超えて共通していると思います。

カンカン、コンコンという音に混じって、あちこちで土を練るための杵以外にも、穀物をつく杵の音が響いていたはずで、この歌でも、そういった現場の雰囲気全体を表現したものであると解釈するのです。

適切な日本語が思い浮かびませんが、ここでは방아(パンア)を杵(きね)と訳すことにしましょう。そのまま韓国語でパンアと言ってしまうのが自然かも知れません。最後に로다とは体言の語幹について詠嘆の意味を表す言葉ですから、방아로다とは、「杵かなあ~」というぐらいの意味になると思います。

直訳すれば、「杵だな」という感じですが、日本語としてはやや不自然なので、ここは原曲の曲想、あるいは前後の文脈に合致した表現を使いたいところです。

結論として、私なりの日本語訳はこんな感じでしょうか?

- - - 에헤 - 에이야- 얼럴럴 거리고 방아로다.

--- エヘ-イヤ-、ソレソレソレソレ、エーンヤコーラ


景福宮打令(その2)

2015年10月19日 22時01分03秒 | 合唱

今日は景福宮打令の歌詞を見ていきたいと思います。まず、この曲を聞いたことが無い方もいらっしゃると思うので、実際に我々が歌った映像をご紹介したいと思います。

本年6月22日、ソウル「芸術の殿堂」コンサートホールで開催された日韓国交正常化50周年記念コンサートでの映像です。(景福宮打令は7分42秒あたりです。)

如何ですか?勇壮な曲でしょう。ちなみに、このコンサートについては12月に刊行されるソウル日本人会会報に拙稿が掲載される予定ですが、いつかこのブログにおいても、SJCの会報とは別の切り口でご紹介しようと思います。

それでは歌詞を一つづつ、見ていきましょう。このブログをお読みの中には、韓国語に接する機会がない方もいらっしゃると思うので、分りやすさ最優先でご説明しようと思います。

남문(南門)을 열고 파루(罷漏)를 치니 계명산천(鷄鳴山川)이 밝아온다.

南大門を開いて時の鐘をつけば、にわとりが鳴いて山河が明るくなってくる。

ここで南門というのはソウルの南大門のこと。罷漏(パル)とは、朝鮮王朝時代に早朝4時に鐘を33回打って、城門を開いたことを意味します。

かってソウルは漢陽(ハニャン)と呼ばれ、都市全体が城壁で囲まれていた城郭都市でした。この鐘を合図に東西南北の大門が開かれ、夜の10時に閉門されるまで、一般人が城内、つまりソウル市内を通行できたのです。今風に言ってしまうと、夜10時から朝4時までは夜間通行禁止令が出ていたということ。

ちなみに早朝4時に城門を開くことを罷漏(パル)、一方、夜の10時に城門を閉めることは人定(インジョン)と言います。罷漏(パル)は33回。人定(インジョン)では28回、鐘をつきます。

実のところ、この罷漏(パル)の鐘は現存しており、大韓民国「宝物」第2号として国立中央博物館に所蔵されています。

ちなみに、大韓民国「宝物」第1号は東大門。大韓民国「国宝」第1号は南大門です。それじゃあ、宝物(보물ポムル)と国宝(국보クッポ)はどこが違うのでしょうか?

韓国人に聞いても誰も答えてくれないので、調べたところ、「国宝級の文化財がその分野、その時代を代表する唯一無二のものとするなら、宝物級に属する文化財はそれに類似した文化財で、大韓民国文化を代表する遺物だと言える」というのが政府の公式見解です。よう分らん、というよりサッパリ分からない説明ですが、韓国ではよくあることなので気にしないでください。

ソウル市内中央部に普信閣(보신각ポシンガク)という建物があります。現在の建物は1980年に再建されたものですが、今では除夜の鐘のイベントで有名です。イベントの様子は全国に中継放送され、私も一度、現場で聞いてみたいのですが、氷点下の夜空の中、押し合いへし合いの人ごみにもまれる気力もなく、現在に至っています。

日本で除夜の鐘というと、紅白が終わった後でNHKの「ゆく年くる年」を見ながら自宅でまったりすごすイメージですね。日本は108回ですが、韓国では33回です。なんで33回かというと、日本では寅さんの柴又で有名な帝釈天が統治されている須弥山(しゅみせん)の四方に32のお城があり、それに。帝釈天ご自身が住んでおられるという善見城を加えて三十三天と呼ぶそうです。

要は、33回鐘を突いて、その三十三天の主である帝釈天の世界と結びつき、世の太平を祈願する心が込められているとのこと。

おなじ仏教でも日本とは違いますね。

もう時間がないので、今日はこれくらいにしますが、韓国で除夜の鐘というセレモニーが始まったのは1929年(昭和4年)。つまり日本の植民地時代です。当時、南山にあった本願寺の鐘を京城放送局のスタジオに移設して放送したのが韓国における除夜の鐘の始まりであるとのこと。当時は韓国(外地)の鐘と日本(内地)の鐘を交互に打ち鳴らしていたそうです。その後、終戦によって除夜の鐘という行事そのものが無くなるのですが、1953年に復活し、今では国を挙げての年中行事となりました。

当時、朝鮮半島に住んでいた日本人はどんな思いで遥か彼方の内地の鐘の音を聴いていたのでしょうか。


韓国の秋の風物詩。エゴマのお話

2015年10月18日 22時46分34秒 | 韓国

韓国はもうすぐ秋の盛り。紅葉のシーズンです。昨日、自転車で春川という地方都市まで足をのばしたのですが、期待していた紅葉はまだ時期尚早と言う感じ。ただ、あちこちでエゴマ(荏胡麻、들깨)の収穫風景を見ることが出来ました。

エゴマ、といっても、韓国に住んでいる方を含め、ほとんどの方はよく分らないと思うのですが、実はこのエゴマ、韓国人の食文化を語る上で欠かせない植物です。まずは真夏の姿から見てみましょう。

韓国にお住まいの方はもうお分かりですね。初めて韓国に来た日本人がシソの葉と間違えて食べてしまうあの葉っぱ(깻잎)です。

同じシソ科に属する植物でシソの親戚と言えるのですが、シソとは似てもつかない独特の香りがあり、在韓〇十年の私もつい最近まで食べられませんでした。

ちなみに韓国の食卓でシソの葉を見ることはまずないのですが、河東マウル(村)という李氏朝鮮時代の伝統家屋の村を訪問した際、家々の壁際に群生しているシソを見て、驚いた記憶があります。

エゴマの苗。ぱっと見はただの雑草ですが、注意すると、ソウルの街角でもあちこちでも見ることができます。

夏が過ぎ10月になるとエゴマの脱穀です。まず下の写真のようにエゴマを乾燥させます。しおれてしまい、真夏の青々とした姿が夢のようですが、実のところ、エゴマは枯れてからが黄金の季節なのです。

次に写真のような殻竿(도리깨,くるり棒)でエゴマを叩いて、実を振い落とします。(先端のフォークのような部分がくるくる回るようになっています。)

最後は、その昔火かきに使ったという棒(부지깽이)で叩いて、最後の一粒までエゴマの実をていねいに払い落とします。

脱穀作業が終わったところ。葉っぱや小枝が混じっているので、ふるいにかけて、エゴマの実だけをより分けます。このより分け作業がけっこう大変らしく、昔から風力を利用した唐箕(とうみ,풍구)という農機具が使われました。

かって使用されていた手回し式の唐箕と手回し/モーター兼用の現代の唐箕。動力は違いますが、基本的な構造は同じです。

 

 

きれいに収穫されたエゴマの実。上の写真でお分かりのように、お百姓さんの大変な人手がかかっています。エゴマは死んでも実を残す、というところでしょうか?

食べ方は色々です。まずは何と言ってもエゴマ油(들기름)ですね。エゴマ油には健康に良いとされるα-リノレン酸が非常に多く含まれているそうです。ゴマ油(참기름。チャムキルム。真の油という意味)と並んで、韓国の食卓に欠かせないもの。ヨーロッパにオリーブ油があるように、韓国にはゴマ油がある!ただ、そうは言うものの、お店に並ぶ「真の油」のほとんどは輸入もので、純粋な韓国産100%のホンモノは非常に高価です。

ちなみに「真」という漢字を韓国の固有語で書くと、「참(チャム)」です。例えば、真実(まこと)の愛は韓国語で、「참사랑」ですね。「露」(つゆ)という漢字の韓国固有語は「이슬(イスル)」です。じゃあ、「真露(ジンロ)」を固有語で書くと?そう、チャミスル(참이슬)ですね。

エゴマの実をそのまますりつぶして、クッパにふりかけたり......

ナムルに和えてみたり、食べ方は色々です。

意外なところで、ソウル在住の方にもあまり知られていませんが、私のイチオシはこれ。エゴマのクッパ(들깻국)です。

胃もたれすることなく、独特の香ばしさがあり、なにより非常な美味です。自然食品でソウル市内ではなかなかお目にかかれないのですが、お勧めの店があるので、ご賞味されたい方は私にご一報ください。

ところで、実をふるい落とした後のエゴマの茎はどうなるのでしょう。燃料にする?肥料にする?粗大ゴミとして引き取ってもらう?この茎ですが、最後は農園や果樹園に送られ、大切な土壌を冬場の乾燥や凍結から守るために使われます。世は健康ブーム。スーパーに行くと、有機栽培と銘打った野菜や果物がたくさん売られていますね。その有機栽培の基本となるのが土壌作りです。ちょっと見てみましょう。

まずは根元に落ち葉(낙엽)を敷き詰めます。街路樹としておなじみのプラタナスの葉を使うところもあるのですが、プラタナスは行き交う車の排気ガスや都市の煤煙に汚染されていて、有機栽培にはふさわしくないという声もあるそうです。

その上から、エゴマの茎を敷きます。

最後はアシ(갈대)をかぶせて終わり。後は微生物の力で豊かな土壌が作られるというわけです。(注:実際の有機栽培はもっと複雑で、アシをかぶせて放置すればよいというものではありません。)

こうして、やがて春を迎え、エゴマは再び土に帰っていきます。どうでしたか?エゴマをめぐる長旅もこれでおしまい。ハウス栽培が普及したせいか?今は365日いつでも新鮮なエゴマの葉を賞味することができます。我々の日常生活のなかから、どんどん季節感が失われているわけですが、自転車旅行で立ち寄った地方のあちこちでエゴマの収穫を見たので、ブログで取り上げてみました。

 

《おまけ画像》

見事に紅葉した大ケヤキ。余談ですが、韓国の街中でこのような大木を見かけることはまずありません。都市化から樹木を守る上で、日本の神社やお寺が果たした役割を軽視してはいけないと思います。

 最後は私の近影を一つ。運動不足を解消するために自転車を始めました。